71. (閑話)その頃の間柴香奈
*
「うわあ、暑いなあーっ」
路面電車から降りて、照りつける真夏の陽射しに目を細めたのは、誰もが振り返るような、清楚な印象の美女だった。
シンプルな白いワンピースに小振りなボストンバッグ、その恰好に似つかわしくない大仰な荷物を肩に掛けている。
見る人が見れば、それが弓道の弓矢だと分かるだろう。
愛媛県松山の道後温泉駅。
そこに降り立ったのは、間柴香奈の姉、美香である。
弓道インターハイで高校日本一となってから三年。
北海道の栗川高から、東京は東村山大へ特待生で進学し、家業である服飾の勉強をしながら弓道に励んでいる。
弓道部では一年の頃から頭ひとつ抜けたエース的存在だったが、根津在住の達人に師事して、勝ち負けよりも精神的修養を重視して弓を引く毎日だった。
とはいえ美香は競技弓道も充分に強く、インカレの予選を易々と通過し、今年も全国大会に出場を決めている。
今回は四国に遠征に出掛けていて、その帰途に、香奈が住んでいる松山まで足を伸ばして来た処だった。
ここは松山きっての観光地であるものの、平日の炎天下、まだ夏休み期間でもなく、人出はそれ程でもなかった。
そんな商店街のアーケードを、小走りで駆けていく和服姿の小柄な少女の姿があった。
香奈である。
「あっ、いたいた。お姉ちゃんごめんね、待ったぁ?」
「なんもなんも、今着いたとこ――香奈、それ旅館の制服? めんこいねー、似合ってるよ」
久しぶりの姉妹の再会に、ふたりとも顔がほころぶ。
精神的修養とやらの甲斐もあって、美香は人前でべたべた妹に抱きつく事もしなくなった。
第一、汗でべとべとの肌で抱きついたら、香奈の仕事着である和服が台無しになってしまうだろう。
「香奈こそごめんね、仕事中に。忙しかったかい?」
「ううん。野球のシーズン中だからさ、忙しい時に全然手伝えなくって、なんだか申し訳ないよ」
試合やら練習やら、さらには地域貢献ボランティアなどのスケジュールがパンパンに組み込まれていて、バイトに出られるのは月2回程度だという。
それでも香奈は慣れた手つきで、美香のボストンバッグを両手に持ち、バイト先である温泉旅館へ並んで歩いて行った。
独立リーグもプロ野球と定義されてはいるが、その待遇はけして良くはない。
香奈が所属している愛媛オレンジパイレーツの場合、給料は月額約10万円、契約期間である4~10月の間だけ支給される。
寮費その他の生活費を差っ引くと、手元に残るのは半分程度であり、間柴の経済状況を考えれば、香奈の副業つまりバイトは、ほぼ必須事項であった。
そこで手を挙げてくれたのが、道後の老舗旅館である。
シーズン中は不定期でOK、日割りであるが給料もそれなりに良く、おまけにチームのスポンサーにまでなってくれるという条件では、いろんな意味で断る理由が見つからなかった。
かくてプロ野球選手兼、見習い仲居、香奈の誕生というわけである。
*
道後の駅から旅館までは徒歩5分といった処だが、美香たっての希望もあって、道後の街並みを案内しながらの道中になった。
「香奈ちゃん、なんしよん? お茶淹れるけん、こっち来よ」
アーケードの商店街を歩いていると、漬物屋のお婆さんから声が掛かる。
「ごめんなさーい、仕事中なの」
「ほーなん。ほたら帰りしなら、かまんかの」
心底残念そうな顔のお婆さんに、香奈がちょこちょこ駆け寄って軽くハグをし、その流れで美香が挨拶をして少しばかり世間話をして……と、そこで2分ほどのタイムロスが生じた。
「――ずいぶん馴染んでるでないかい」
「道後にはあまり来れてないのに、こうして覚えてもらえて嬉しいよね」
そう応えた香奈は、美香の知らない大人の顔をしていた。
アーケードを抜けると、道後が誇る立派な外湯のひとつ、飛鳥の湯が見える。
館前の広場は、全面が華やかな花柄でコーティングされていた。
「うわあ、なんつーか……なまらめんこいねえ」
「道後の街でさ、アートの企画をやってて、こういうのがあっちこっちにあるのさ。暇みて探してみると良いんでないかい」
手前の狭い路地を抜けると、改修中の神の湯、道後温泉本館があって、ちぎり絵のプリントが施された巨大テントが、古式ゆかしい館を覆っている。
ふたりはそれを眺めつつ、歩いて行った。
「香奈、野球はうまくやれてるかい?」
「高校ん時よりか、レベルは確実に高いよね。でもお陰様で、どうにかこうにか試合に出ささってもらってる」
甲子園優勝、しかもその主要メンバーという経歴もあり、香奈は期待の新人だったようで、シーズン途中からはスタメンで出場を続けている。
打率は.230前後だが出塁率は3割を越え、盗塁は現在リーグ2位。
今や不動の中堅手であり、守備範囲の広さとフェンス際の強さで、チームにしっかり貢献している。
今日の香奈は夕食まで旅館の仕事をして、午後9時に帰宅。
明日昼からは、市内の球場で公式戦があるという、なかなかのハードスケジュールである。
美香はもちろん香奈の試合を観に行く予定で、そのために松山を訪れたようなものだった。
「加南ちゃんとは、連絡とれてる?」
幼馴染で元チームメイトの穂波加南は、甲子園優勝投手。
ドラフト1位で北海道フロンティアーズに入団し、現在は二軍の千葉は鎌ケ谷に居る。
ゆっくり育成中のようで、まだ2試合しか登板してないが、どっちも80球ほど投げて無失点だった。
「あはは、それがおかしいのさ。先月なんか『誕生日おめでとう』の電話、掛かってきたんだよ」
ちなみに香奈と加南は同じ日に生まれたので、香奈がおめでとうなら加南もおめでとうである。
「へえ……どうゆう心境の変化かな」
「寂しかったんでないかい。ま、元気そうだったから心配ないさ」
カナンとカナ、赤ん坊の頃からずうっと一緒だった幼馴染。
しかも中身が入れ替わってしまうというハプニング――とてもそのひと言では済まされない事案であるが――まで起きてしまって、やっぱり他人のような気がしない。
ふたりの進路が決まり、それぞれの道を進み始めてまだ半年も経っていないのだが、毎日顔を合わせていたのがずいぶん昔のようにも思えたのだった。
*
明くる日。
松山が誇る坊っちゃんスタジアム――の隣にある、マドンナスタジアム。
サブ球場に位置付けられるスタジアムで、収容人員は坊っちゃんの3万人に比べて、マドンナは2千人。
今日の公式戦は、こっちで行われる。
試合は昼からであるが、香奈たちオレンジパイレーツの面々にとっては、球場を使って練習が出来る、またとない機会である。
午前の早い時間から球場入りし、各々の調整に精を出した。
フリー打撃は、香奈の大事な“守備練習”の時間だった。
外野守備はノックではなく、打撃の活きたボールを捕る事。
プロ入りしてからは、これを忠実に守り続けている。
パイレーツの監督、弓山さんは、今はない西宮ブレーブスの遊撃手で、黄金時代の外野の名手たちをつぶさに見てきた人だ。
香奈のこの練習方法は、弓山監督のアドバイスによるものだった。
ちなみに香奈は球場入りすると毎回、フェンスによじ登る練習もしている。
これも西宮の外野手たちがやっていた事で、いつ必要になるか分からないから、やっておくのだそうである。
フェンスの上でホームランボールをキャッチして野球殿堂入りした、伝説のスーパープレイには、きちんと裏付けがあったのだ。
試合前の調整にある程度目鼻が付くと、香奈たち一部の選手は、球場の外にいったん出る。
間もなく開場、香奈はファンサービスも兼ねて、チケットのもぎりをした。
ひときわ小柄な唯一の女子選手、香奈はチームの一番人気で、こういう場には必ず駆り出された。
「こないだの地域ボランティア行ったら、香奈ちゃんは来んのかいなって、がっかりされたよ」
そんな愚痴を聞かされた時もある。
美香も以前のようには迷子にならず、無事に球場にやって来た。
「香奈ぁ、頑張ってね」
「うん」
チケットをもぎり、笑顔で握手を交わす。
「お前の姉ちゃん、どえりゃあ美人だな。年いくつ?」
ライトを守っている相棒が、香奈に耳打ちする。
プロ入り2年めだが大卒なので今年で24歳、年齢に拘ったのはそういう事もあるんだろう。
「ふたつ上の大学三年生。あのビジュアルで弓道日本一だから、そっち方面では超有名ですよ」
「ほえー」
今日の観客は、約800人。
これでも地元松山の開催なので、平均よりはかなり多い。
スタメンが発表され、香奈はいつもの1番センターだった。
「香奈ぁ、香奈ぁーー」
まばらな拍手と、スタンドでぴょんこぴょんこ飛び跳ねている美香を背に、香奈はセンターの守備位置へと走って行った。
言うまでもありませんが、これはフィクションであり、
モデルになった実際の団体とは異なります。
道後には掲載作品の確認を兼ねて、一泊二日の駆け足ですが、行って来ました。
当初から連絡を取り合っていた方が不在だった事もあり、
充分な挨拶が出来なかったのが残念です。




