62. 秋季大会とドラフトの季節
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秋も深まった夜、野球部の練習も夕食も終え、祥倫寺の居間でいつものように愛がピアノを弾いていると、自室の方で魔力の気配がした。
――今夜も、来たのね。
構わずピアノに没頭する。
曲は『不思議の国のアリス』。
同名ディズニーアニメのオープニング曲で、今で言うアニソンだが、有名なジャズスタンダードでもある。
やがて足音が近付いてきて、道雪と亜蘭がひょっこりと顔を出した。
秋季大会が終わってから、これで5夜連続だ。
「あ、ようこそ」
ピアノを弾く手はまったく休めず、顔だけ上げてふたりを迎える。
「今夜もお邪魔しまぁす」
「すまんな、また敬、借りっど」
――頑張ってね。
励ましの代わりに力強いユニゾンを立て続けに叩いて、境内に出るみんなを送った。
道雪たちの連夜の訪問だが、けして遊びに来ているわけではない。
早い話が、野球の特訓である。
夏の大会が終わり、新チームとなって、敬や道雪、そして愛もチームの最高学年になった。
そうして迎えた秋季大会でも、古諸高は勝利を重ね、東信地区予選で上田南、佐久長姫を立て続けに破り、何と1位で県大会進出。
しかしベスト4の壁がまたも破れず、0対1で敗戦。
北信越大会への最後の切符を懸けた3位決定戦では、1週間で500球という投球制限に敬が引っ掛かり、無失点のまま6回途中で降板し、後続が打ち込まれて終戦となった。
しかし二大会連続の準決勝進出が評価され、長野県の21世紀枠に推薦されたのは、せめてもの救いであった。
一方、道雪がエースで3番を打つ普久島は、10対5の打撃戦で一回戦を制したが、二回戦で第1シードと当たる不運。
高速ナックルの曲がりが良く、2対1のリードで前半を折り返すという大善戦を見せたが、三巡めに入った相手打線に道雪がとうとう捕まり、4連打であっさり逆転。
健闘を讃えられはしたものの、3対6で二回戦敗退となった。
「こいじゃ甲子園なんか、夢のまた夢やっど――どげんかせんといかん」
どうすれば強くなれるか、道雪が頭を巡らせた時、真っ先に思いついたのが敬の古諸高だった。
中堅以下の公立校が、県内有数の有力校まで一気に駆け上るという格好のモデルケースが、こんな身近に居るではないか。
そんなわけで道雪は、毎晩古諸に通っては、敬に教えを乞うているのだった。
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「敬、ドーセツが世話焼かすねえ。練習の後はだるいのに、ごめんね」
「ううん、愛の『治癒』で回復出来てるし、そもそも疲れてないから大丈夫だよ」
女神から貰った加護というのは本当に大したもので、いくら投げても疲れ知らずで、どこも痛くならない。
故障の心配なしに思いきり腕を振れるだけでも、投手としての安心感が違う。
そんな敬から見ても、勇者だった道雪の身体能力は際立っていた。
単純に走る、飛ぶだけなら、パワーもスピードも持久力も、敬を遥かに凌駕する。
「ほんと、すごいよなあ……」
「ドーセツはねぇ、チビの時から運動えらかったから」
亜蘭が自分の事のように、プリプリと自慢げに話す。
「元々の素質が違うんだろうなぁ……たださ、これだけの体格と運動神経があるのに、どうしてストレートが僕と同じ速さなのか、そこが問題なんだよね」
道雪の最速ストレートは136km/hくらいで、実際には敬より速い。
しかし打者の体感的には、130km/hそこそこの敬のストレートの方が、速く感じるだろう。
「なんでかねー」
「それ、昨日も言ったろ。ドーセツの投球フォームは無駄が多いんだよ」
むしろこんなハチャメチャなフォームで、ある程度は形になっている事の方が不思議だった。
敬は道雪に、ピッチングの基本以上の事は教えなかったし、フォームをチェックしながらのキャッチボール、それだけを繰り返し行った。
無駄をなるべく排し、全身の筋肉と動きをボールに伝えるように気を付けて、キャッチボールをする。
それだけである。
しかし道雪は、古諸を毎晩訪れて、小一時間キャッチボールをしては、また串馬に戻る毎日を送った。
敬とのキャッチボールは目から鱗が落ちるほど新鮮で、そして楽しかった。
まず、コントロールが有り得ないレベルで、べらぼうに良い。
初めの一球を受けた瞬間、構えたグラブに吸い着くような手応えがあって、それをすぐに感じた。
そして数球の肩慣らしを経て投げてくるボールのひとつひとつが、キャッチボールとは思えないほど雄弁に主張してきて、意味のない球がまったくなかった。
これは、追い込んでから空振りを取るためのボール。
これは、芯を外して内野ゴロを狙うボール。
それが驚くほどの伸びで、道雪のグラブに心地良く収まってきて、もしスパイクを履いて本格的なフォームで投げたとしたら、一体どんなボールが来るのだろうかと、鳥肌の立つ思いだった。
「なあ、敬は昔っから、こんなキャッチボールしてたと?」
「え? ――そうだなあ、東京に居た頃だけど、ドルフィンズの勝尾投手、カツオさんのするキャッチボールがとんでもなく凄いって噂を聞いて、練習場に行って何度か見た事、あるんだ」
東京ドルフィンズの勝尾投手。
身長170cmない小柄なサウスポーで、40歳を越えてなお一線で活躍する、現役最多勝の『小さな大投手』だ。
言われてみれば腕を思い切り振り、全身を使って投げる敬の姿は、どことなく勝尾投手を彷彿とさせる。
「ああ、なるほど、そいを参考にしたとなぁ」
「ううん、その頃は何も分かんなかったよ。中学に上がったばっかで、技量も体力も、そして見る目も全然なかったから……でも何となくイメージの原形みたいのはあって、その通りに出来てきたかな、って思えるようになったのは、今年の春くらいから、かな」
「――身体が、作れてきてから、かい」
「そうだね。筋トレと走り込みで体幹が強くなって、ようやくイメージに近いボールが、少しずつだけど放れるようになったと思う。ドーセツはもう身体が出来てるんだから、イメージ通りのボール、投げれる筈だよ……ところで手首のスナップ、も少し効かせた方が良いと思う」
「おお、こうか」
「全体のバランスを崩さないようにね」
「ははは、難しかね」
「ドーセツなら、出来るよ」
そんな感じで、ふたりのキャッチボールは続いていった。
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NPBプロ野球のドラフト会議。
本来なら古諸や普久島のような、田舎の公立校にはまったく縁の無い話であるが、県内で名を知られてきた敬にとっては、意識してないと言えば嘘になる。
そして今年だけに限れば、敬よりも愛の方が興味有りげに、ドラフトの行方を見守っていた。
「香奈さん、プロ志望届、提出したんだって」
「ああそっか。愛は栗川の人たちと一緒に、野球したんだもんね」
「うん」
愛が野球を始めてまだ一ヵ月もしない頃、長野まで招待試合に来た栗夕月奈に、なんと飛び入りでベンチ入りまでさせてもらった経験がある。
チーム全体の大らかさと香奈さんの可愛さに、愛は心を奪われてしまい、それ以来香奈さんの大ファンなのだ。
栗川高は、今年の夏は単独で北北海道代表として甲子園出場を果たし、3勝してベスト8まで進出した。
大会屈指の好投手だった加南さんの投げっぷりは言うに及ばず、香奈さんも出塁率はチームトップで、1番打者としての責務を果たし、外野守備では伝家の宝刀、フェンス際での好捕を見せてチームを救った。
敬の見立てでは、加南さんは間違いなくドラフト1位候補。
地元のフロンティアーズと相思相愛であるが、他球団との競合も有り得る。
そして香奈さんの指名は、まず無い。
スピードと外野守備はプロになってもおかしくないレベルだが、肩が強くないのと、何と言っても身体のちいささが致命的だった。
身長146cmは女子としてもかなり小柄で、とてもプロとしてはやって行けないだろう、というのが敬だけでなく、世間一般の見解であった。
「穂波さん、決まった。フロンティアーズだって」
北海道フロンティアーズ、そして仙台ウッドペッカーズが加南を1位で指名し、図らずも北の2球団が競合したが、フロンティアーズが当たり籤を引き当てた。
テレビ画面では加南さんを中心に、栗高の野球部員たちが喜びを爆発させている。
「良かったね、穂波さん」
「そうだね」
お前が欲しいと指名されて、意中の球団に入れる喜びは、如何ばかりであろう。
満面の笑みでガッツポーズする加南さんの傍らで、香奈さんが椅子の上に立ち上がって頭を撫でる姿に、場内が大爆笑と拍手で包まれた。
そしてそれからは、栗川がテレビ画面に中継される事はなかった。
香奈さんは指名されず、本年度のドラフト会議は終了した。
しかし、約1ヵ月後。
スポーツ新聞の各紙に『香奈ちゃんプロ入り』『史上最小のプロ野球選手誕生』の見出しが躍った。
四国独立リーグの愛媛オレンジパイレーツが、香奈さんを獲得したと報じたのだ。
「これもやっぱりドラフトで指名されるの?」
「いやさすがに、独立リーグの制度までは知らない」
敬が調べてくれたが、四国と東日本リーグが合同で主催するトライアウトがあり、それに参加した選手をドラフトで指名して、入団が決まるという事だった。
九州や北海道にも新たに独立リーグが誕生しているが、四国リーグは20年近い歴史があって、レベルも高い。
「香奈さん、わざわざトライアウトを受けてまで……」
「うん、そうだね。本気でNPB入りを目指してるんだと思うよ」
ちなみに独立リーグは歴としたプロ野球選手であり、月額10万円前後だが給料も出る。
もちろんそれだけでは生活出来ないので、バイトとの掛け持ちで野球をする事が、ほぼ既定路線である。
「これって、おめでとうございます、なのかな」
「うーん、どうだろうなあ……香奈さん次第だけど、ここは励ましの言葉の方が良いんじゃないかな」
何はともあれ、香奈さんが来年も野球を続ける事が決まったわけであった。




