61. 串馬での夏休み
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「ただいまぁ」
古諸に遊びに行っていた亜蘭が、転移魔法で戻ってきた。
当然のように一糸纏わぬ姿である。
道雪はかなりうんざりした表情で、しかし亜蘭から目を離せない。
「なぁ亜蘭。お前ん部屋に魔方陣あっとから、そっち来れば良かどが。毎度毎度、俺んとこ来っせ、わざとやっちょっとね」
「うん、わざと」
まったく悪びれない様子で、亜蘭が応える。
「まっこちほがなかねぇ。俺が毎度チンチンブラブラさせとったら、お前も困っどが」
「よろこぶー」
「俺のチンチン見て喜ぶな、あんぽんたん」
「ちがうよー」
「何がちごかい」
「あのね、あたしはドーセツの裸が嬉しいんじゃなかと。ドーセツが、つまり好きな人がなんも隠さず、すべてを見せてくれるっとが、嬉しかのよ……だからあたし、なーんも隠さん。あたしはドーセツにすべてを見せるし、見てもらいたかもん」
リーファの一件があって以来、亜蘭は態度だけでなく、はっきりと言葉に出して『ドーセツが好き』と話すようになった。
もちろん学校などでも、公言して憚らない。
だからと言ってすっぽんぽんを全肯定するわけではないが、あらん限りの情熱をぶつけてくるような亜蘭の愛情表現に、道雪はややもすると押され気味であった。
「とにかく、はよ服を着れ」
慣れた手つきで着替えを投げて寄こし、亜蘭も素直に服を着始める。
先日ふざけて『なーん、パンツ穿かせて』をやってみたら道雪が本気で怒ったので、そこが越えてはいけない一線だと、肝に銘じていた。
「明日、敬と愛が串馬ん遊びに来るって」
「そうか。泊まるっと?」
「うん。野球あっから一泊だけど。あー楽しみ」
亜蘭が転移魔法でふたりを連れてくれば良いので、移動時間はほとんどゼロ、これが大きい。
愛たちが来たら都井岬を回って、実家の民宿で盛大にご馳走する予定である。
「敬は落ち込んじょらんかったか?」
「見た目はいつも通りやったよ。野球の話はせんかったから、ほんとのとこは知らん」
「俺たちはともかく、諸高は惜しかったからなぁ……」
今夏の甲子園予選長野県大会、古諸高エースの敬は躍動した。
最速130km/hのストレートながら、七色の変化球を武器に打たせて捕るピッチングを披露、バックの守備陣も敬を盛り立て、ロースコアでの接戦に持ち込んでいく。
ベスト4に勝ち上がった時点の5試合で、総失点はわずか1という快進撃だった。
しかし準決勝、0対0でタイブレークとなり、延長10回表の古諸は無得点。
10回裏、ふらふらと上がったフライがショートとセンター、レフトの間に落ち、サヨナラ負けを喫した。
一方の普久島高は、高速ナックルという魔球を手にした道雪が、エースナンバーの背番号1を付ける。
宮崎県大会の一回戦では何もかもがうまく行き、快勝。
しかし優勝候補相手の二回戦では、ボール球を見極められ、四球を連発。
それならばと投げたストレートを狙い打たれ、15点も取られての敗戦となった。
*
4人で楽しく観光して遊んで、獲れたての海の幸に舌鼓――という亜蘭のプランは、兄妹が来て早々、もろくも崩れ去った。
「ほら、ここ、ここなのよ。ドーセツのナックルと、ストレート投げる時で、フォームが微妙に違ってるの。腰の溜めが違ってるせいで、右脚の踏み出しがコンマ4、5秒、ストレートの方が早いの。それを気付かれて、あれだけ打たれたんだよ」
道雪が負けた二回戦のビデオを何度も再生しながら、愛が延々と解説を始めたのである。
「おう、おう――同じように投げとったつもりやったけどなあ」
「意識が同じじゃなかったよね。高速ナックルは、比較的コントロールを気にする必要がないから、えいやっと、ど真ん中目掛けて投げてたでしょ」
「おう」
「で、ね。多分ドーセツのピッチャースキルが上がったせいだと思うんだけど、ストレート、コーナー狙おうとしてるでしょ。だから少しだけ手投げ気味になってるの」
「たまげたなあ。愛、なんでんお見通しやっど」
「そのくらい分かるわよ、キャッチャーやってるんだもん」
ビデオに釘付け状態のふたりを尻目に、敬が何度も亜蘭にごめんなさいをしていた。
都井地区に行くバスはとっくに出てしまって、次の便は3時間後になる。
「今日の予定、いろいろ考えててくれてたんだよね……ごめん、ほんとごめん」
「いっちゃが、いっちゃが、どうせてげてげやったもん。やけど愛って、てげ雰囲気変わったよね」
「最近は野球の話始めると、止まらなくなるんだよ……」
野球に打ち込めと言ったのは敬だった手前、おいそれと注意も出来やしない。
敬から説教を受け、三日間の家出を経て、愛の出した結論は『ピアノと野球を両方頑張る』だった。
ピアノは今まで通り、ジャズピアニストとしての努力を怠らない。
最近はむしろピアノに座る時間が長くなった傾向さえある。
そして残りの時間、そのほぼすべてを、愛は野球に費やした。
野球をしている間はピアノを忘れ、ピアノを弾く時は野球を忘れ、その代わり全集中で臨む。
勉強はどうするのか訊いたら『授業時間だけでなんとかする』そうで、それで成績は落ちなかった。
串馬にはピアノがなく、野球をしているドーセツに逢ったために、野球のスイッチが入ってしまったらしい。
「それとね。高速ナックルがジャストミートされる時って、意外とあったでしょ」
「えーと、なあ……あんまり強いとことはやっとらんから、なんつぁならんけど……」
「強いとこと当たると、多分だけど結構打たれるよ」
「なんちなっ」
「ナックルの変化って、投げてる本人にもコントロール出来ないんだよね」
「じゃっど。俺もどこにボール飛んでくか、分からん」
「ドーセツの高速ナックルの最大の特徴ってさ、フォーシームとほとんど変わらない球速で、無回転で揺れるとこでしょ。でも球速があるせいで、しばしば風の抵抗を受けて、揺れ幅が極端に少ない時がある。その結果、カットボール程度の変化しか得られない時があるね――その結果、どうなると思う?」
「芯を外せっくらいは、あると思うど」
「うん。でも高校野球の金属バットじゃ、少々芯を外したくらいじゃ、効果ないのよ。強いスイングするスラッガー相手だと、振り抜いて持ってかれちゃう」
「――なら、どげんしたら良かと?」
「ドーセツの場合は球種が少ないから、せめてもうひとつ増やすか――でも結局は、ストレートに磨きを掛ける、これが基本だと思う。私たちキャッチャーは、ストレートを中心に配球を組み立てるし、その日の調子だってストレートの走りで見るから」
「球速を上ぐっと、コントロールが付かんのよ」
「球速は、そんな要らないよ。ドーセツのストレートってスピンがすっごい掛かってて重いから、それにさらに磨きを掛ける。理想は真ん中に投げても前に飛んでかない豪球、これをイメージしてみて」
「お、おう……」
「結果的にドーセツのためになっとる。いっちゃが、いっちゃが」
ふたりの会話を聴きながら、亜蘭が満足そうに腕組みをして、何度も肯く。
「ピッチャーってほんとは、もっと繊細なんだよね――あとでそれとなく、僕からもフォロー入れとくよ」
敬がそっと亜蘭に耳打ちする。
ところが愛の野球談議は、急に終わりを告げる羽目になった。
「あ、ごめんつい、話に夢中になっちゃった。そろそろ香奈さんの試合始まるから、テレビ点けない?」
夏の甲子園第一試合。
北北海道代表、栗川高校の初戦が始まる。
なんとこの時点で午前8時、どえらく特濃な朝の時間であった。
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昨年のセンバツ優勝投手、穂波加南さん、そして優勝メンバーのひとりだった女子選手、間柴香奈さん。
彼らが高校三年最後の夏に、甲子園に戻ってきた。
栗川高は夏の大会初出場、センバツ当時は部員7名で近隣4校の合同チームだったが、今回は部員15人、堂々の単独出場である。
チームの大黒柱はプロも注目のエース、穂波さん。
191cmの長身から繰り出す150km/hを越えるストレートと高速スライダーで三振の山を築き、北北海道大会では6試合で失点1。
5人の三年生がセンターラインを固め、守り勝つ野球で優勝を決めた。
そして香奈さんは、ある意味奇跡的な存在である。
身長146cmと規格外の小柄な体格ながら、豊富なスピードと類い稀な野球センスで、男子に混じって遜色のない活躍を続けてきた。
守備範囲の広いレフトであり、特にフェンス際ではその身軽さで塀によじ登り、ホームランボールを何度もキャッチしている。
盗塁技術も抜群で出塁すると非常にうるさく、打撃はセーフティバントの名手。
打率は平凡ながら、時折見せる思いきりの良いスイングで、試合を決める一打だって何度も決めた。
そして――先輩とは思えないくらい、顔も性格も可愛い。
昨年春、招待試合に飛び入り参加させてもらって以来、愛は香奈さんの大ファンになってしまった。
「香奈さーん、かっ飛ばせぇ」
一回表、栗高の攻撃、1番打者の香奈さんが左打席に入る。
昨年以来、愛は香奈さんと連絡を取り続けている。
野球に打ち込むに当たって、香奈さんからもらったアドバイスが、みっつあった。
まず、投げる、捕る、打つ、走るの基本動作を、けしておろそかにしない事。
身体能力に劣る女子がパフォーマンスを維持するためには、基本動作がしっかりしている事が最低条件である。
それを身に沁み付くまで叩き込んで、客観的にチェックを入れ、微調整を怠らない。
次に、よく視る事。
ピッチャーの投球、打者のスイング、打球の行方を、よく視る。
グラウンドのコンディション、風向き、敵味方の守備位置、試合の流れ。
刻々と変化する状況を広範囲に観察し、情報を収集し、常に考える。
最後に、正しい判断をし続ける事。
観察によって得た情報を、素早く判断し、正しく処理していく。
その際には迷いがあってはいけないし、常にベストを尽くす事を心掛ける。
「愛って、香奈さんとそんな事、やってたんだ……」
「香奈さんは遠野みづほさんから、そのアドバイスをもらったんだって。だから私はみづほさんの孫弟子ね」
遠野みづほさんは、日本初かつ唯一のプロ野球女子選手で、東京ドルフィンズ所属。
プロ3年めの今年は開幕から一軍帯同を果たし、セカンドの守備固めと右の代打で、普通に戦力になっている。
香奈さんが試合に使っている木製バットは、みづほさんのお下がりだそうだ。
1ボール2ストライクと追い込まれた四球め、香奈さんの膝が沈んでバットが寝かされた。
「おっ」
「やったっ」
三塁線へのセーフティバントはフェアゾーンを転がり、悠々セーフ。
「香奈さん、ほんとすごい……」
愛が羨望の声を上げる。
「追い込んだのに、これやられたら、ピッチャーがっくり来るよな……」
半ば呆れ顔で、敬が道雪と顔を見合わせた。
試合は2対0で栗川の勝利、穂波さんが前評判通りの投球で、4安打無四球の完封だった。
栗高の初戦突破を、串馬の4人はハイタッチで喜びあった。
試合終了時で時間は午前10時。
4人の休日は、まだまだこれからである。




