59. 千曲川のほとりで
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長野県特有の厳しい冬が過ぎ、春が来て、敬と愛は二年に無事進級した。
冬の間ずっと、そして春が来ても、登下校という名の、片道5kmに及ぶ谷下りと急坂上りのハードトレーニングは、毎日続けていた。
その成果は敬に如実に現れて、両太腿は筋肉でパッツンパッツンに膨れ上がっている。
120km/hなかったストレートも、ひと冬で130km/hを超えるようになった。
しかも女神から貰った「お礼」の効果も顕著で、身体能力が飛躍的に向上し、愛による肉体強化の補助はほとんど必要がなくなり、最近では外傷防止に『祝福』を必要最小限掛ける程度である。
「寒くなくなってきたなあ」
千曲川のほとりで、敬は愛の到着を待っていた。
野球の練習を終え、学校からここまでの約3kmを、かなりのハイペースでインターバル走してきたばかりなので、かるく息を弾ませていて、うっすらと汗が滲んでいる。
まだ冷たい清涼な春の風が、心地良かった。
「はあっ、はあっ……お待たせ」
約10分ほどしてから、愛が倒れ込むようにして駆けて来て、敬は両腕で愛を抱き留める。
トレーニングの成果は愛にもあって、以前のような線の細さはすっかり姿を消しているが、その体型は野球選手としてはまだまだ華奢である。
毎日のトレーニングを積み重ねるにつれ、敬と愛の身体能力の差は、次第に開いていった。
――言うべき時が、来たかも知れない。
腕の中でヘロヘロになりながら『治癒』で回復している愛を、敬は見つめていた。
「これで良し、と――どうしたの、お兄ちゃん」
敬の視線に気付いた愛が、顔を上げる。
身体能力が上がっても敬の背は伸びず、この一年で1cmだけ伸びて166cmになった。
160cmの愛とほとんど身長差はない。
「うん、あのね……」
少し逡巡した敬であったが、やがて意を決して愛を見つめ返した。
「愛、野球やってて、楽しい? 野球とピアノ、どっちが好きかな」
「えっ、なんでいきなり、そんな事訊くの」
愛にとってピアノは相棒であり、生きる意味そのもの。
比較の対象になどなりようがないのは、ずっと一緒に居る敬なら、分かっている筈である。
質問の内容よりもむしろ、そんな問い掛けをしてきた敬の真意を、愛は測りかねていた。
「――そもそも愛が野球始めたのって、アランつまりドーセツに逢うためだよね」
「うん、そうだよ」
「で、逢えた。目標は達成した事になるよね」
あれ以来、道雪たちと兄妹は連絡を取り合っている。
ふたりが古諸を訪れたのは数回に過ぎないが、両方が休みの日には古諸城付近を案内したり、軽井沢まで足を伸ばした時には、亜蘭が眼を輝かせて喜んだ。
道雪と亜蘭がいつ来てもいいように、着替えも万全である。
「僕が言いたいのは、愛が今、何をモチベーションにして野球を続けてるのか、て事なんだ。もし野球のせいでピアノがおろそかになってるとしたら、その、ね……仮に愛がピアノ一本に絞ったとしても、誰も責めたりはしないよ……」
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「お兄ちゃんは、私が野球辞めた方が良い、と思ってるの?」
「そうは言わない。でもね、愛にはピアノという大きな存在が元々あるわけだし、そんなに好きでもない野球を、無理して続けなくても良いと、僕は思う」
敬は優しく、しかしきっぱりと応えた。
古諸高野球部の躍進は著しく、敬の活躍のお蔭もあって、有望な新人が複数名入ってくれた。
間もなく行われる春季東信大会でも、甲子園や北信越大会の常連である佐久長姫や上田南、古諸商といった強豪校と肩を並べる存在になった。
そして新二年生の敬は、エースナンバーの背番号1をゲット。
長野県内でも屈指の技巧派サウスポーとして注目を集めている。
一方、愛が公式戦出場の資格を得るには、来年の認定試験まで待たなければならない。
今度の春季大会も、新入生たちに混じってのスタンド応援が決定していた。
愛が野球を始めて、もうすぐ一年が経とうとしている。
元聖女としての身のこなしはさすがであるが、肉体強化のバフ無しでは、パワーもスピードも男子部員には到底叶わず、練習を滞りなく行えるレベルまで到達した、という程度。
ピアニストの命とも言うべき指や手首を毎日腫らして、こっそり『治癒』で回復させているのを、敬は知っている。
敬の腕をするりと抜けた愛は、真っ正面に向き直った。
「ひどいな、お兄ちゃん。私は野球選手としてダメダメで、野球部には必要ない、って事?」
「そんな事は言ってないよ、愛はセンスあるし、捕球の技術はチームでいちばん上手いと思う。正捕手の依田さんよりも、ね。このまま成長していけば認定試験は受かるだろうし、今だって優秀なブルペンキャッチャーとして、野球部には必要な存在だ。これが贔屓目なしの、僕の愛への評価」
「うん――それって逆に言えば、このままだとブルペンキャッチャーで終わる、って事だよね」
「そうだね。レギュラーを目指すには、まだ全然足りない」
口調こそ優しいが、敬ははっきりと断言した。
「改めて問おう。愛はこれから、どうしたい? レギュラーを狙うには今以上に野球に打ち込むべきだと僕は思う。それこそ、ピアノを忘れるくらいに」
「私にピアノ忘れろって言うのは、呼吸するな、て言ってるのと同じだよ」
「そうだね、悪かった。こう言い直そう、愛がレギュラーを狙うには、ピアノと同じくらい野球に夢中になってほしい。今年の古諸は選手層も厚くなって、本気で甲子園を目指せるチームになった。個々の意識も高くなってきて、要求されるレベルだって去年とは比べものにならない。それは愛も感じてると思うけど」
「あっ、うん……」
先輩捕手たちの依田さんと土屋の交わす言葉は、愛にとって難しすぎる事が多々あるのだが、進んでも進んでも追いつけない実感が、どんどん強くなっている。
「野球が楽しい、それだけじゃダメなのかな……」
「愛……」
「正直な事言うね、私、お兄ちゃんほど野球は好きじゃないし、好きですって断言できるほど知ってもいない。でもみんなと一緒に野球するのは楽しいんだ――あのね、ピアノって……ピアノに向き合う時って、世界に私とピアノしか居なくなるの。私にとっては生活の一部なんだけど、それは孤独そのものでもあるの。お母さんが死んでからは、ほんとにふたりぼっちになった……」
「僕がそばに居たとしても、かな」
「たとえお兄ちゃんでも、私とピアノの間には入って来れないわ――だけど野球部に入って、みんなと一緒に何かをやり遂げる、それは私には新鮮だったし、ピアノでは果たせない、別の喜びだった。私、野球は続けたい。みんなの一員として、私に出来る事をやって行きたい。そりゃあ試合に出たいし、お兄ちゃんのボールを捕るのは私だ、って胸を張って言いたいけど」
「だから、それが出来るようになるには、今のチームだと、相当努力しなくちゃ……」
「その答えは少し待って。今、頭ん中ぐちゃぐちゃだし、それに……ごめん、もう限界……」
今まで我慢していた涙が、ドッと溢れ出てきた。
泣いた処で、何の解決にもならない。
そんな経験は聖女時代に散々してきた筈なのに、どうしても涙が止まってくれなかった。
「ごめん、ごめんね……こんな話するの、お兄ちゃんだってつらいのに、私だけ泣いて……」
「いいよ。たまにはお兄ちゃんらしい事、させてもらうから」
そう言うと敬は愛を抱き寄せ、しばらく胸を貸してあげた。
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翌朝、串馬。
「ドーセツぅ、携帯鳴っとる、誰からか見て」
朝食の支度で忙しい亜蘭の声が響き、半分寝ぼけ眼の道雪が、ひょっこり顔を出す。
「お、敬から。取っど」
「任せたぁ」
「なんね、こげん朝っぱらから……愛? うんにゃ、こけにゃ来とらんど……おう、おう……いっちゃが、いっちゃが、愛んメンタルは弱くなか……そんならアーレンんとこ、来たんじゃなかか……敬はそんまま普通に学校行ってよかが……おう、おう……こっち来たら連絡する……気にすんな、愛なら大丈夫やっど、妹をもっと信用せんか……じゃあまたな」
「なんかあったと、ドーセツ?」
制服に引っ掛けたエプロンで両手を拭きながら、亜蘭が小首を傾げる。
「愛が、家出した」
祥倫寺のルーチン修業である空手の早朝稽古に、愛は顔を出さず、家出は早晩発覚した。
自室には『三日したら必ず戻ります 探しても無駄なので絶対に探さないでください』と書き置きがあったそうだ。
状況的にはどうやら、自ら転移魔法を使い、異世界は『最果ての村』、リトとアーレンの元へ向かったと思われる。
「なんね、愛も水臭か。相談ならあたしにすれば良かのに」
「亜蘭じゃあ、相談にならんとじゃなかか」
「心は癒せるよぉ」
可愛い膨れっ面で亜蘭が応える。
「女子の悩みって、たいていは初めに結論ついとると。あとは一歩踏み出す勇気だけだから、そんならあたし、力になれるもん」
「ピアノあんな凄くて、野球も出来て、えらしくて。あたしから見れば才能いっぱいで、羨ましくって仕方なか子なんやけどねぇ」
朝食の支度を終えた亜蘭は、そう言ってわずかに微笑んだ。




