55. さよなら、リーファ
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「なんて顔してんだい、シーナ」
沈鬱な表情を隠そうともしないシーナに、やれやれといった感じでリーファが苦笑した。
「だってリーファが、殺してくれ、なんて言うから……」
「相手はこの、あたしだよ? それが分からんお前でもないだろうに、さ」
シーナは難しい顔をして、黙り込んでしまう。
「じゃあ、こう言い直そうかね。シーナ、お前の『浄化』であたしを解放してくれ。そのまま消えたら消えたで全然構わないし、魂が残ってしまうようなら――アラン、次はお前に頼んだよ」
リーファがアランに向き直った。
「お前の雷撃で、あたしの魂を宇宙まで打ち上げておくれ」
「おう、頼まれた」
「だぁれも居ないとこで、しばらく頭を冷やしてみるさ。汚れた魂だってそりゃあ1000年もすれば、ちょっとは見られた代物になるだろうし……元の世界に戻るかどうかは、その時にでも考えるとするよ」
「1000年後、かぁ……元気でね、リーファ」
元神さまのリーファは軽々しく口にするが、千年という月日は人間のシーナにとって、永遠の別れを意味した。
「やだねえ。だから敵のあたしに、そんな顔するんじゃないってば」
リーファは照れ隠しに笑顔を作った。
事情を知った浩輔さんは、旅立つリーファのために、死に装束一式を用意してくれた。
祥倫寺の宗派には厳密な死出の旅は存在せず、白い経帷子と草履だけの簡素な出で立ちであったが、仏教一般の説明を受けたリーファはそれでも、感銘を受けた風であった。
「いやこれは、なかなか見事なものだな。葬送の儀が確立されている……世話になり申した、さぞ高名な僧侶とお見受けする」
「いえ若輩者で、未だ道は遠く、修行中の身なりますれば」
ふたりは一礼して合掌した。
外に出ると結界はまだ健在で、薄暮の明るさと少し暖かいくらいの陽気だった。
しかし一同は、これまでとは違った異変に気付いていた。
天球の頂点が少しだけ薄くなって、そこから晩秋の夜空が、少しだけ顔を覗かせている。
「こりゃあ……女神さまの仕業だろうなあ」
リトが天を仰いで、頭をぽりぽりと掻く。
これは明らかに『結界に穴開けといたから、ここ通してリーファ姉さんの魂打ち上げなさいよーん』というメッセージであり、これが出来るのは女神以外には考えられないだろう。
「ええぇー……女神さま、あたしたちの一部始終、ずっと覗いてたってわけ?」
アーレンが眉を顰めたが、それについてリーファは肯定も否定もしなかった。
「ひとつ分かったのはあの子、あたしを死なせるつもり、さらさらない、ってことだねえ……」
リーファはぽっかりと開いた夜空を見上げながら、何とも言えない表情をしていた。
「いやなかなか、楽しい一生だったよ? 穢れ神の仕事はちょっとばかりキツかったけど、みんなから祈ってもらえて、意外と癒やされてたのさ。魔族のみんなには、ほんと良くしてもらったよねえ……みんな死んじまったから、そうだねえ――せめてあいつらの事は、あたしが覚えててやんなくっちゃ」
そう言って再びシーナを見つめたリーファは、屈託なく笑っていた。
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予想していた事ではあったが、リーファの肉体を消滅させるには、シーナの浄化をほぼ最大出力まで上げる必要があった。
抵抗する様子もなく、浄化魔法の直撃を受けたリーファは、一瞬だけ苦悶の表情を浮かべたが、やがて優しく微笑むと、シーナに向かって短く何やら呟き、そして――消えた。
リーファの着ていた経帷子が、はらりと地面に落ちた。
傍目からは、リーファはすっかり消滅したように見えていたが、何もない虚空にシーナが両手を差し伸べたので、そこに魂が残っているのだと分かった。
「そうか、シーナには魂が見えるんだよな」
「うん……」
シーナの両手が、空間にある「何か」を愛おしそうに撫で回している。
「リーファの魂、可愛い……」
それは元女神とは思えないほど慎ましやかな佇まいで、長年の穢れ仕事で真っ黒に汚れ切っていたが、わずかに残った目映いまでのきらめきに、シーナは目を奪われていた。
リーファはきっと、元々は綺麗な魂の女神さまで、むしろそれだからこそ、自らを削って穢れ神の役割を担っていたのだろう。
――こんなになるまで、頑張っちゃって。
思わず抱きしめたくなるような衝動にシーナは襲われた。
くるくると虚空を撫でまわすシーナの両手から、浄化の魔法が再び射出される。
それはそこにあった「何か」をコーティングして、やがて蒼白いちいさな球体が、ぼおっと姿を顕した。
「おお」
「こいが、リーファの魂ね」
ようやく可視化された魂に、一同は口々に呟いた。
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「じゃあアラン、あとは頼んだ」
「おう、頼まれた」
金属バットを持っていたアランは、残された左手でリーファの魂を受け取った。
それは拍子抜けするほど軽々としていたが、ちょうど野球のボールくらいの大きさで、不思議と手に良く馴染んでいた。
掌の上で二度三度ポンポーンと放り投げると、重量に見合わぬ自由落下に近い速度で戻ってきた。
「そんな雑に扱っちゃ駄目よ、アラン」
「雑じゃなか、どげんして打ち上げっか、考えとる」
美しいアランの碧眼が、真正面からシーナを捉える。
ふたりはしばらく、無言で見つめ合っていた。
『――じゃあ』
同時に声を発したのがおかしくて、ふたりしてわずかに頬を染めながら、肩を揺らして笑う。
「じゃあ、シーナも手伝ってくれんか」
「あ、いいよ。私どうすればいい?」
返事の代わりにアランは魂をシーナに渡すと、もの凄いアッパースイングで素振りを何度か行った。
そして金属バットを天に向かって高く掲げる。
すかさず天球に空いた穴から稲妻が降りてきてバットに命中し、一本の長く光る、アラン必殺の雷光剣となった。
「トスバッティングの要領で、俺に向かって魂を投げてくれ。ホームランかっ飛ばして、宇宙に打ち上げっから」
「うん」
「真上に飛ばすっから、普通じゃなかからな――俺のデコくらいん高さに放ってくれ」
「――分かった。一発勝負、だよね」
顔を引き締めてシーナが肯いた。
雷光剣となってもなお、フォームを確かめるように素振りを繰り返すアラン。
そのたびにバチバチっと凄い音を立てて、稲光の飛沫が周囲に飛んでくる。
そして右打席でバットを構えた。
「いつでも、良かど」
「うん」
シーナはアランの正面にしゃがみ込む事にした。
通常のトスバッティングなら、打球の直撃を食らってしまうので考えられない位置であるが、おそらくここが、雷光剣を振り回した時のダメージを最も受けにくい。
道雪つまりアランのバッティングを見るのは初めてだったが、勇者アランの力量をシーナは熟知していた。
自分さえしっかりサポートすれば、アランがしくじる事は万にひとつもないだろう。
*
「じゃあ、行くよ」
「おう、来いっ」
シーナが指示通りに、魂を高く放り投げる。
「ふんぬっ」
アランは身体を思いっきり反らすと、膝のバネを使ってバットの雷光剣に魂を乗せ、ほぼ垂直に勢い良く振り上げた。
「おりゃあああああ!」
インパクトの瞬間、バットを覆っていた稲妻が魂の部位に集中していくのが、シーナにはありありと見えた。
稲妻はリーファの魂を乗せ、天空を一気に駆け上っていく。
『行けえええっ!』
稲妻は天球に空いた穴を一瞬で通り抜け――さらに彼方へと消えていった。
それは一瞬の出来事だった。
「無事に成層圏まで来れたかねぇ」
空を見上げて魂の行方を確かめていたアランは、すっと肩の力を抜いた。
成層圏まで到達すれば、あとは慣性で宇宙へ行ってくれるだろう。
「アラン」
声がして向き直ると、シーナがアランに向けて、右の拳を差し出していた。
「ナイスバッチ」
「おう」
アランもバットを持ち替え、右手を握って差し出した。
そしてコツン、とグータッチを交わす。
そう言えばシーナとの投球練習がわずか一球で終わってしまった事を、アランは思い出した。
道雪のナックルボールを初めて見たシーナが無邪気に喜んでいた処でリーファたちが攻めてきて、あえなく中断となったのだった。
アランは改めて、右手の指を見つめた。
力強さはあるものの、道雪の時に付いていた指先のタコが、きれいさっぱり無くなっている。
――こん指じゃ、ナックルは投げられん。
道雪に戻ったら、愛に戻ったシーナにナックルを受けてもらおうか、そんな事を考えていた、その時だった。
アランの胸にストン、と柔らかな感触が伝わってくる。
シーナが倒れ掛かるようにして、身体を預けてきたのだった。
「――シーナ?」
アランは両腕でシーナの身体を受け止める。
手から離れた金属バットがコロン、と地面に転がった。
シーナは顔をアランの胸に埋めたまま、こっちを見ようとしない。
「お願い……少しだけこのままで、いさせてくれるかな……」
そうしてシーナはアランの腕の中で、しばらく泣きじゃくっていた。




