4. 敬と愛のキャッチボール
*
祥倫寺の朝は、早い。
敬と愛の起床は午前五時だが、浩輔さんと清司さんはそれよりさらに早く起きて、読経やら清掃やら朝餉の支度やらを済ませている。
『しょうりん』寺という名前のせいで、拳法やってるんじゃない? としばしば訊かれるが、実は祥倫寺には道場が併設されている。
少林寺拳法ではないが、歴とした空手の道場で、浩輔さんも清司さんも黒帯の達人だ。
ちなみに兄妹の亡父も空手をやっていたので、浩輔さんとはその繋がりがあったのだろう。
2年前、祥倫寺に来てからというもの、毎朝の朝稽古は兄妹の日課となっていた。
敬は身体を鍛えるという明確な目的があったので、稽古に積極的に参加し、持ち前の運動神経も手伝ってそれなりに上達している。
愛はそれ程熱心ではなかったが、護身術だけは習得しなさいと浩輔さんにも清司さんにも口酸っぱく言われ、いやいやながらも毎日参加していた。
その護身術がシーナに転生した際、魔との闘いで役立ったのだから世の中は分からない。
平日は午前六時過ぎまで朝稽古をして、浩輔さんと清司さんが壮絶な乱取りを始めると敬と愛は先に稽古を終え、水浴びで汗を取り朝食を済ませ、学校行きのバス停まで浩輔さんの車で送ってもらうスケジュールだった。
「愛ちゃん、動きが見違えるくらいキレてるね」
清司さんにそう言われて、汗を撒き散らしながら、愛が顔を輝かせる。
「うれしい――事故に遭って、護身術の大切さが身に沁みたのかも」
「ああ、なるほど。トラックに轢かれても、体術のお蔭で身体は無傷だったのかもね」
正確には、事故に遭って転生して、大切さが非常に身に沁みた。
護身術を身体が覚えてなければ、命のひとつやふたつは無くなっていただろう。
浩輔さんは、いつになく稽古に身の入った愛の様子を、舌を巻きながら眺めていた。
――この子、こんなに出来てたっけ……?
身のこなしがとにかく実戦的で、まるで死線をいくつも潜り抜けてきたかのようだ。
とんでもない程に禍々しく、強い敵を相手に、しかも勝ってきた、そんな動き。
この動きとキレなら敬を上回るのはもちろん、拙僧とも手合わせ出来るんじゃないか……?
しかも、多分――三分七分くらいで、拙僧が負ける。
浩輔さんは信じられない思いであった。
「何つーか……今日の愛、すごいね。僕より強いんじゃない?」
「やあね、そんなわけないでしょ」
兄に対して謙遜する愛だったが、敬より多分、強いと思う。
今の愛にとって、敬の動きは緩慢で隙も多かった。
シーナに転生した愛は、いわば10年もの間、生きるか死ぬかの荒行をずっと続けていたようなもので、その上達たるや半端ではなかった。
――それにしても、ちょっと失敗しちゃったな。
シーナに比べて愛の身体は貧弱で、技や動きの強さに身体が耐えきれずに悲鳴を上げていた。
幸い昨夜の風呂で、治癒魔法が使える事は、点滴の刺し口を綺麗に治して確かめている。
予定通り早めに朝稽古を切り上げた愛は、気付かれないようちびちびと、自らの身体に治癒を掛けていた。
ちなみに風呂で、久しぶりに自分の裸を見た時の感想は『がりがり、おっぱいちっちゃ』だった。
しかし考えてみれば愛はまだ、15歳。
シーナのようなナイスバディになるのは、まだまだ先の事だろう。
*
道着のまま道場を出て、寺の境内で敬と愛が、距離を取って向かい合う。
「よし、キャッチボールから始めてみよう。昨日も言ったけど硬球は危険だから、今日はこの軟式ボールを使うからね」
「うん、分かった」
軟球でも愛の手には余るだろう、という敬の判断だったが、愛の思いはまったく別の処にあった。
――軟球なら思い切り投げても、お兄ちゃんケガしないで済むかな。
ボール投げに似た事は、シーナの時にもかなりやっていた。
魔の軍勢があまりにも多い時など、石礫に浄化魔法を掛け、魔に向かって投げるのだ。
投げた石礫は魔を浄化しながら貫通するので、多人数を相手にする闘いでは重宝した。
通常ならともかく、この場では敬を黙らせる必要がある。
愛は少しだけズルをした。
自らに攻撃力増強の魔法を掛けて、投げるボールの威力を増す事にしたのである。
1.5倍……ううん、2倍かな……加減が難しいけど、こんなもんでしょ。
「じゃあ、行くぞ」
左投げの敬が、綺麗なフォームで愛に向けてボールを投げる。
敬のストレートは最速120km/h前後。
高校球児が投げる球速の、平均値より遅い。
飛び交う矢や炎球を目測で躱してきたシーナ――愛にとっては、敬に悪いが蝿の止まるような遅さだった。
パシン。
事も無げにグラブでキャッチした。
「へえ、上手いじゃないか。初めてとは思えないな」
愛の身のこなしを見て、感心したように敬が首を揺らす。
「私、投げるからお兄ちゃん、しっかり捕ってね」
「ああ、バッチ来ーい」
この時点ではまだ、敬も余裕の表情だった。
「じゃあ、行くね」
見様見真似で右手にボールを持ち、腕を振り上げ、左足を大きく踏み出す。
「へえ、意外とサマになって……」
そして右腕をこれでもかと撓らせながら、敬の構えるグラブ目掛けてボールを投げた。
「――……?」
敬が声を上げる暇もなかった。
愛から放たれた豪速球が唸りを上げて、敬の元へやって来る。
「うわわわわっ」
敬も反射的にようやく身構え、グラブにボールを収めたが、その勢いを完全に殺しきれず、そのままの体勢で後ろへ大きく吹っ飛んだ。
「痛ってててて……」
境内の土の上に尻餅をしたたかに着き、苦悶の表情を浮かべる敬。
尻だけでなく、ボールをキャッチした右腕まで痛そうにしている。
「お兄ちゃん、大丈夫っ?!」
慌てて駆け寄ろうとする愛だったが、まず右腕がだらんとしたまま動かない。
それどころか、左脚を地面に着いた瞬間、激痛が走り、その場で崩れ落ちてしまった。
――いっけなーい、何もかもやり過ぎちゃった……
まず、兄を吹っ飛ばした豪速球は、完全なオーバーキルだった。
しかも愛の身体がそれに耐えきれず、右肩と肘を脱臼。
左脚も、盛大に踏ん張ったせいで、下腿骨が骨折している。
愛の身体って、相当にやわなのね……
これは同時に防御力増強を掛けるか、いやいやそれより、愛の身体を鍛えなくっちゃ……
治癒で脱臼と骨折を治しながら、愛はそんな事を考えていた。
――よし、これで治癒完了。
道着に付いた土を払い立ち上がろうとすると、目の前には敬が、これまでに見た事ないほど怖い顔をして、愛を見下ろしていた。
「あ、お兄ちゃん。腕、大丈夫――」
「触んな」
ぞっとするような冷えた声で、愛の伸ばした手を、敬が乱暴に振り払う。
「あ――えっ……?」
「お前――愛じゃないだろ? ほんとは何者だ? 愛をどこにやった」
愛がその時、敬に感じたのは、はっきりとした敵意であった。
「信じて、お兄ちゃん……私は、愛なの……」
自分でも気付かないうちに、愛の眼から涙がぽろぽろ零れていた。
*
「――転生……? 魔王討伐? で、愛は異世界でシーナ、ていう聖女だった……?」
敬にとって、遥か斜め上の事実であった、と顔に書いてある。
愛の説明を理解するのに、ちょっと時間が掛かりそうな感じだった。
「だから私は愛で間違いないの、お願い、信じてよぉ……」
愛は愛で、まだ少しベソをかいていた。
「うーん、まだよく分かんないけど……」
まだ思案げではあったが、敬の顔がいつものように再び優しくなると、愛の髪をぽんぽん撫でた。
「愛は、その――愛なんだね、信じるよ。お腹すいたからさ、ご飯食べに行こ」
「それにしてもさ、びっくりなんてもんじゃなかったよ。愛って運動神経、そんなに良い方じゃなかったろ」
お寺ならではの健康的な朝食を、兄妹ふたりで先に頂いている。
道場ではまだドッタンバッタン音がするので、浩輔さんと清司さんはまだ、度を越えた乱取りという名の死闘を繰り広げているのだろう。
「うーん、お兄ちゃんの妹だから、地の運動神経は意外に良かったみたい。それに死ぬ気で頑張んないと、ほんとに死んじゃうような旅だったから」
敬の右腕は、愛の治癒で既に治している。
初めて見る魔法に、愛が元聖女であることを信じざるを得ない敬であった。
「――愛は、頑張りやさんだからな」
幼い頃から、愛がどれだけピアノを頑張ってきたか、敬はつぶさに見ていた。
心からの褒め言葉である事が聖女の能力で読めてしまい、愛は頬を赤らめて少し俯く。
「で、どーしていったい野球なんだ? 兄ちゃん、理由教えてくれなきゃ、とても納得出来ないぞ」
「うん――」
少し言い淀んだ愛だったが、やがてキュッと眦を決して敬を見つめた。
「私、アランに逢いたいの」
「いっ、いいなずけぇぇぇ??」
あまりの展開に、敬の口がだらんと開いたままになる。
「お兄ちゃん、口の中のご飯見えてる――別れ際にね、プロポーズされて……もちろんOKして……きゃっ、恥ずかしい」
両手で頬を押さえて恥じらう愛だったが、敬はそれどころではない。
「あっ、愛はまだ15歳なんだぞっ。結婚なんて、結婚なんて……」
「そーなのよ、ねえ。何しろ自分が15歳のままなんだって思い出したのが、プロポーズの後だったから……でもアランには逢いたい。逢って互いにまだ愛し合ってるか、確かめたいの」
「でも、そのアランて奴が野球やってるからってさ、愛も野球やって甲子園行くってのは、話が飛躍し過ぎじゃないのか? フクシマナントカ高校が甲子園出たら、その中から見つけ出せば済む話で――」
あ、お兄ちゃん、すごい涙目になってる。可愛い。
「――上手く説明出来ないんだけど、フクシマ高校とアランだけじゃ、見つけらんない予感がするのよね……アランも私を探すの、大変だと思う。染矢愛とシーナじゃ、名前どこも被ってないし」
「シーナ、かぁ……旧姓が椎名だから、そこは被ってるんだけどなあ」
「でしょ? ひとまず軽音部には退部届出して、私、野球部に入ります。お兄ちゃん、よろしくお願いします」
「ああ……取りあえず理由も聞けたし……僕も野球部出るの、一ヵ月ぶりなんだよな、一緒に頑張ってみようか……」
少し苦笑い気味ではあるが、敬は愛に微笑んでみせた。
「愛は頑張りやさんだからな。僕も愛に負けないよう、頑張るよ」