31. 『魔』との遭遇
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準々決勝で完投した翌日も、敬は愛と一緒に、空手の朝稽古もきっちりこなしたし、学校までの道もいつも通り、走って跳んで登校した。
一昨日、昨日と合計で200球以上投げていても、これだけのハードトレーニングが出来るのだから、愛の治癒様々である。
「敬くーん、居る?」
敬の教室に志乃さんがひょっこり顔を出したのは、クールダウンも終わって自席でゆっくりまったりしている時だった。
志乃さんは敬の顔を見るなり、にっこりと笑った。
「良かった、元気そうね」
「元気と言うより、ボーッとしてただけですけどね」
今朝はどうしたんだろう、僕が昨日の敗戦で落ち込んでいるんじゃないかと心配して、励ましに来てくれたのだろうか。
悔しい気持ちは確かにあるが、周囲に気遣ってもらうほどのダメージはない。
昨日の僕は野球人生最高の出来で、しかももっと良くなるという、確信に近い手応えもあった。
当座の課題は、シンカーを見極められていた理由を探る事だが、ある程度の見当は既についている。
チェンジアップはもっと磨きを掛けたいし、ストレートも130km/hくらいは出したいし、新しい変化球だって試してみたい。
とにかくやりたい事、やるべき事、対戦したい相手が多過ぎて、落ち込んでいる暇など有りはしなかった。
「疲れ? まったくないですよ。早く投げたくて、うずうずしてます」
「だぁめ。敬くんはあんだけ投げたんだから、今日と明日はノースローだからね――そうそう、敬くんにこれ、見せたかったの」
志乃さんが敬の机に、スポーツ新聞を開いてみせる。
十月中旬はプロ野球の優勝争いが佳境に入っていて、一面からプロ野球一色で高校野球の扱いは大きくなかったが、それでも『松商、薄氷の勝利』と題されて、古諸との準々決勝がピックアップされていた。
少しちいさめの文字で『ノーノー目前、古諸染矢守備の乱れに泣く』と小見出しがあり、力投する敬の写真が載っかっている。
「別に泣いちゃいないですけど、ね」
「こういうのは、モノの例えだから」
苦笑しながら記事を読み進めていくと、きちんと試合を観ていた人が書いたのだろう、比較的詳細なピッチング評価にインタビューされた内容などが書かれてあった。
「で、こっちの方がもっとすごいんだよね――」
そう言いながら志乃さんが開いたのは、大手新聞の県版だった。
こちらは二面ある内の一面をまるまる高校野球に割いていて、敬の記事がいちばん大きかった。
「敬くん、長野じゃスターだね」
「いいピッチングしただけなのに、なんだか恥ずかしいですよ」
新聞を読んでいた敬の目が、死んだ両親について書かれた部分で止まり、わずかに顔を曇らせた。
――また、だ……
母は暴漢に襲われ死亡した、これは正しい。
アメリカの事件なので詳しくは知らないが、目撃者が居たし、犯人も逮捕された。
それなりに有名なジャズピアニストだったので、その死を悼んでくれる人も多い。
しかし父は、まったく違う。
表向きには仕事先の汚職事件に巻き込まれて自殺した事になっているが、敬が幼い頃には父は、警察の仕事をしていた筈だった。
それがいつの間にか、それまでの経歴は無かった事になって大企業勤めになっていたし、父の遺体は爪が全部剥がされ、手足の骨が粉々に砕かれていたと、清司さんが以前口を滑らせた。
そんな自殺は、ない。
父の死には明らかに別の真相が存在するが、事情を知っている筈の浩輔さんは、頑として口を閉ざしている。
高校を卒業したらふたりに話す、浩輔さんは敬に、そう約束した。
「どうしたの、敬くん? 難しい顔して」
ふと我に返ると、志乃さんが訝しげに、敬の顔を覗き込んでいた。
「いやその、考え事していて……」
記事をよく読んでみると、愛の名前まで出ていて、新聞を全部寄せ集めれば敬のプロフィールが完成してしまうのではないか、そんな事まで思ってしまった。
*
十一月に入ると、古諸の夜は冬の冷え込みになる。
事件が起きたのはそんな夜、MIRAIリーグ最終戦、佐久長姫との試合を控えた平日だった。
古諸は秋季大会同様にMIRAIリーグも好調で、今週末のダブルヘッダーで連勝すればグループ1位、1勝1敗なら得失点差で1~3位まであるという、まさに天王山である。
野球部の練習を終えた敬と愛はいつものように、走りながら下校をしている最中だった。
今や体力お化けとなった敬は元より、それに付いて行けている愛も、周囲からは驚異の眼差しを投げ掛けられていたが、ふたりともほとんど気にしていなかった。
市街地を過ぎて千曲川を渡るまでは下り坂で、そこまでは普通のランニングである。
と言っても全力疾走のダッシュを挟んだ、かなりハードなものではあったが。
坂を下りきって千曲川の畔に出た頃には、日はすっかり暮れていて、辺りも閑散としていた。
ふたりの体力を愛が魔法で回復させる都合もあり、人家の少ない処を選んで走っているので、なおさらだった。
「はあっ……はあっ……」
敬の背後から、荒い息をした愛の声が聞こえてくる。
この辺は真っ暗なので、出来る限り伴走という形で走っているのだが、トレーニングに熱が入るとつい、愛を置いてけぼりにしてしまう。
それでもそれほど離されずに付いて行けているのだから、愛の身体能力は見かけに依らず高い。
ヘロヘロになって倒れ込むように駆け込んできた愛を、敬が抱き留める。
「毎度の事だけど、あんまり無理しちゃダメだよ、愛」
「はあっ……ううん、女だって事は……理由になんなかったから……」
それは異世界での、魔との闘いの話だろう。
敬の腕の中で、愛が掌を自らに当てて治癒を掛ける。
暗闇にぼおっと魔法の光が溢れ、敬はそれを漏らさないよう、身体で受け止めた。
継いで敬に治癒を掛けている途中、愛の顔色が変わったのが、暗闇の中でも分かった。
「どうしたの? 愛」
「お兄ちゃん、下がって」
敬を庇うように手で制した愛の、視線の先を見ると、5、6人ほどの人影が暗闇に浮かび上がり、橋の向こうからじわじわと近付いてきた。
姿格好を見るとヤクザもの風の男たちで、何やらわけの分からない呻き声まで漏らしていて、さすがに敬もただならぬ気配を感じた。
「うう……」
「ううう……」
何だろう、薬物でもキメているのだろうか。
シャキーンと音がして、男たちが特殊警棒のような武器まで手にしたのが分かった。
「こいつらヤバいよ。愛の方こそ、下がって……」
ここは何とか、日頃から鍛錬している空手で逃れるしかないだろう。
前に出ようとする敬を、愛がまたも押し留める。
「ううん、ダメ。普通の人間じゃ敵わない――どうして、現し世に、こんな……」
男たちを凝視している愛は、明らかに戸惑いを隠せていない。
「あの人たちから、魔の臭いがするの――」
*
「魔、って、いったい……」
「説明は、あとで。『祝福』」
愛が魔法を唱え、辺りが一瞬光に包まれたと同時に、男たちは一斉に襲いかかってきた。
「愛っ」
迎え撃つ愛の腕が、そして脚が光芒を放ち、男たちは愛の突きと蹴りに撥ね飛ばされ、尻餅を突く。
このわずかな間に愛は、自らに筋力増強と防御強化を掛けたのだった。
「すげえ……」
予想外の戦闘に、敬は目を白黒させるばかりだった。
「『浄化』」
愛の両手が聖なる光に包まれ、暗闇に浮かび上がる。
なおも立ち上がって特殊警棒を振り下ろしてくる男たちの攻撃を躱しながら、愛は男の胸に掌底を当てた。
「やあっ」
「ぎゃあああっ」
有り得ない距離を吹っ飛ばされた男は、胸を抑えながらしばらくのたうち回っていたが、やがて憑き物が落ちたように辺りを見回した。
「アニキ? 俺は何やってんスか、こんなとこで……」
「うるせえ。とっとと拉致しろ」
「よかった。この人たちの魔は、浄化で消せるヤツだったわ――あと、5人」
愛はそう言うと、両手だけでなく両脚も浄化で光らせ、今度は逆に、男たちに向かって行った。
「ぎゃあああっ」
「あうううっ」
それは見事な手捌き、脚捌きであった。
愛の掌底、そして回し蹴りが次々と、男たちの胸辺りを貫いていく。
聖女が放つ浄化の力は強力で、ガードの上からでも男たちを文字通り貫いて、吹っ飛ばされた男たちは我に返ったように辺りを見回していた。
「残り、ひとりね」
愛を直接襲った男たちは全員、体内の魔を浄化され、それでも身体ダメージは少ないのか、再び立ち上がる。
「作戦変更だ――お前らは妹の動きを、止めろ。3秒だけでいい」
後ろに控えていた『アニキ』と呼ばれた男が、顎で指示をする。
拒否する事は、出来ない関係なのだろう。
「おらああっ」
「なめんじゃねええっ」
男たちは叫び声を上げながら、愛に向かって絶望的な突進を敢行した。
「無駄よ――手加減、やめるからね」
愛の回し蹴りが一閃し、まずふたり、顎を砕かれて昏倒する。
続くひとりには踏み込んで鳩尾に鋭い突きを入れ、男の背中が折れ曲がった。
そして最後のふたりを相手にしようとしたその矢先、数秒ほどの隙を衝いてアニキが愛の脇を擦り抜け、後ろに居た敬の方へ向かって行った。
「しまっ――」
愛が残りの男たちを片付けた時には、アニキは敬の目前に立ちはだかっていた。
突然目の前に現れたアニキに対して、敬は空手の構えを見せ、応戦しようとした。
しかし、身体が動かない。
アニキの放つ、異様で禍々しい雰囲気が、敬の心と身体を縮こまらせてしまった。
――これが、愛の言ってた『魔』ってヤツか。
それでも勇気を振り絞って相手の攻撃に対応しようとしたその瞬間、敬はいつの間にか、アニキに両肩をがっちり掴まれていた。
まったく、反応出来なかった。
アニキはケケケケ、と嫌な笑いをしながら敬を見つめ、そして抱きついてきた。
「染矢敬くん、だねえ。妹さんの不思議な力、ゆっくり訊かせてもらうからねえ」
「お兄ちゃああああんっ!!」
愛の叫び声を聞きながら、敬は次第に気が遠くなっていった。
駆け付けようとした愛は間に合わないと判断したのか、敬に抱きついたアニキに向かって、浄化のビームを掌から発射する。
しかしビームがアニキに届く寸前、アニキと敬のふたりは、この場からスッと消え失せてしまった。
「転移魔法、まで使うの……あの魔の臭いは、もしかして……」
その場に膝を付いて呆然とする愛の前には、アニキと敬の着ていた服が転がっているだけだった。
超難産でした。




