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30. 長野県秋季大会準々決勝 (vs松本商2)



 先程から球場のどよめきが止まらない。

 それもその筈、勝って当たり前と思われていた松商が、野球ではほぼ無名の古諸にリードされて最終回を迎えるのだから、無理もなかった。

 しかも延べ27人で1エラー2四球の無安打と、完璧に抑えられてしまって、手も足も出ない状態に陥っている。


 あと3人で強豪相手のノーヒットノーランを達成しようかという立役者は背番号12、身長165cmの小柄な一年生ピッチャー、染矢敬。

 最速120km/h台の技巧派サウスポー、これまでの登板でも好投を続けているとはいえ、公式戦はこれで五試合めという、これまた無名の選手だった。




「すげえな、敬。松商相手にノーノーなんてやらかしたら、それこそ伝説だぞ――古諸限定だけど」

 冗談めかした口調に似合わず、清水さんの表情は真剣そのものである。

「愛もベンチに居られたら、良かったのになあ」

「それは無い物ねだりですよ」

 公式戦の出場資格がない愛は、選手としてベンチに入る事は出来ないし、記録員としてなら志乃さんの方が遥かに有能である。


「――俺たちゃ野球エリートじゃねえから、ノーノーやられた事はあっても、やった事なんか一度もねえのさ……だから見ろよ、監督含めて、敬に何て言葉掛けて良いのか分かんなくて、テンパってるだろ」

 折しもグラウンドでは九回表の攻撃が終わり、マウンドに上がろうとする敬の背中を、依田さんが腫れ物でも触るようにそっと撫でている。

 依田さん以外に、敬に寄って来る人は皆無で、無言の緊張感が古諸の選手たちには漂っていた。


 何しろわずか1点のリードではあるが、あとアウトみっつで、長野県的には超特大のジャイアントキリング達成である。




「野球始めたばっかの愛には、ノーヒットノーランがどんだけ凄いか、そんなに分かってねえだろ?」

「いえ、さすがに――そうですね、正直ピンと来ないです」

 それでも強豪松商をここまで追い詰めている、この事実は愛の胸に、否応もなく迫ってくる。


「もし、あの場に俺が居たとしても、あいつらと同じで、ピンと張り詰めた糸みたいになってると思う。でも愛なら、あの雰囲気を何とかしてくれる、そんな気がしたんだ」

「――そんな。買い被り過ぎですよ……」


 私だって、ドキドキしている。

 お兄ちゃんの背中、大きくないけど、カッコ良い。


 敬が九回裏のマウンドに上がると、珍しく大人数の古諸応援席から、大きな歓声と拍手が飛んで来た。

「お兄ちゃーん、頑張ってえーっ」

 感情の昂ぶりに思わず魔法が発動しそうになり、愛はもどかしく思いながら、それを静かに抑え込んだ。




 愛の応援は、マウンドの敬にも届いてきた。

 と言うよりそれは、満場の歓声、どよめき、ブラバンが奏でる音色の坩堝を貫いて、敬の耳にひときわ大きく響いてきた。

 ――珍しいな、愛が大声出すなんて。

 投球練習をしながら苦笑する敬だったが、胸の辺りでじんわりと、温かい何かが広がっていくのが分かった。

 一瞬、祝福ブレスの魔法が来たのかと思ったが、そうではないようだ。


 八回を終わって105球。

 疲れてないわけではないが、腕は振れているし、握力もまだまだ充分にある。

 得意のカーブも、そしてストレ-トも、まだまだキレはあるし、ほぼ思った通りのコースに来てくれた。


 四巡めにもなると、敬のボールだと単体での勝負は難しいだろうが、緩急とコースのコンビネーションで打ち捕るイメージは出来ているし、何といってもとっておきのシンカーもある。

 この局面で出し惜しみはしないつもりだ。




 ――ノーヒットノーラン、かぁ。

 本来、敬のような技巧派ピッチャーには縁遠い話である。

 そもそも中学までは、せいぜい五回くらい投げると交代させられたので、1ヵ月前の上田南戦が、敬の初めて完投した試合であった。


 ノーノーより欲しいのは、チームの勝利。


 敬は気を引き締めて、右打席に入ったバッターに、意識を集中した。




 松商九回裏の攻撃は、1番から。

 初球、カーブがインローいっぱいに決まり、古諸スタンドから大歓声と拍手が湧き起こる。

 ――一気に、行きますか。

 依田さんのサインに肯いて二球めは、真ん中寄りから外に逃げて落ちるシンカー。

 相手はバットを出して、目論見通りに空振りを奪う。


 ――よし、これでストライクは要らない。

 二球見逃された後に、五球めのカーブを引っ掛けてショートゴロ。

 ガチガチだったのかショートが前に落としてヒヤッとしたが、送球が何とか間に合い、1アウト。


 続く2番も要注意バッターだったが、今度は決め球にシンカーを使った。

 何とか当てた打球はファーストへ。

 敬はベースカバーに走って行き、ボールを受け捕る。

 ヘッドスライディングしてきた相手をジャンプして躱し、これで2アウト。




 2アウトランナー無し、あとひとりで勝利。

 しかも未だ被安打ゼロ、ノーヒットノーランのおまけも付いてくる。


 同じ一年ながら3番を打っている上田が、左打席に入った。




 ――いつも通り、今まで通り。

 マウンドで、敬は自分に言い聞かせていた。


 ボールのキレ、コントロール。

 これまでの中でも最高の出来である事は、自覚はしていた。

 しかし敬の実感としては、今まで通りのピッチングを丁寧に積み重ねていった結果、こうなったとしか言いようがない。

 成長する時とは、こんな感じかなのかも知れない。


 出来れば、ここで終わらせたいな。

 これが敬の、正直な気持ちだった。

 上田はミート長打ともに優れた、思いきりの良いスイングをする選手だが、次に控える4番の中島さんは別格である。

 前の打席では不意打ちとも言えるシンカーで料理したが、同じ手は効かないだろう。


 逆に上田としては、石にしがみ付いてでも中島さんに繋げたい、そんな気持ちだと思う。




 初球はシンカーから入ったが、見送られてしまった。ボール。

 打つ気満々に見えていた上田だったが、さすがこんな土壇場でも冷静だ。

 しかしカーブ、ストレート、チェンジアップのコンビネーションで2ストライクまで追い込み、五球めの決め球に、またシンカーを使ってみた。


 結果は――またも見送られ、ボール。

 一流のバッターに見送られてしまう理由が、何かあるのだろう。

 敬は今後の課題として、胸に刻み付けた。

 ともかくこれで3ボール2ストライク、フルカウント。


 くさいコースのカーブをファールで粘られ、最後はインコースにストレート。

 ゾーン内なので、上田は渾身のスイングで振り抜いた。


 やや強い当たりだが、セカンド真っ正面のゴロ。

 虎の子のスクイズを決めた小和田がグラブを出し、待ち構えている。


 ――ああ、勝ったな。

 そう思った瞬間だった。




 強い当たりのゴロが、小和田の股の間を潜って、ライトへとコロコロ転がっていった。

 絵に描いたようなトンネル。

 あとひとりという処で古諸、痛恨のエラー。

 2アウト一塁、松商としては首の皮一枚繋がった格好で、4番の中島さんに打順が回ってきた。




「すまん……ほんとに、すまん」

 タイムが掛かり、マウンドにやって来た小和田は、ほとんど泣きそうな顔をしていた。

「気にすんなよ」

 そう言いながら敬は、笑顔を作ってみせる。


 いつも通り、今まで通り。

 上田で試合を終わらせる目論見はあっさり崩れたが、これまでの敬の野球人生は、上手く行かなかった時の方が遥かに多かった。

 このくらいの逆境、またやり直せば良い。


「気にすんな、エラーだからまだノーノー続いてるし」

 依田さんが言った瞬間、しまったという顔をしている。

 敬に要らないプレッシャーを掛けたと思ったのだろう。


「ノーノー要らないですよ、ノーノーより、勝利です」

 ――みんな、少し浮き足立ってるかな……僕だって同じかも、知れない。


 伝令からは中島さんと勝負して良いという指示の後は、雑談に終始した。

 どうやら間を取って、みんなを落ち着かせるのが主眼だったらしい。




 プレー再開。

 カーブを見送って1ストライク、二球めにシンカーを投げたが、やはり見送られた。ボール。

 現時点で、敬のシンカーは中島さんには見極められていると思った方が良いだろう。


 依田さんのサインを覗き込む。

 外にシュート回転のストレート、ボール球。

 ここまでは、速い変化球の次はかなりの確率でカーブを投げていたので、読みを外す目的だろう。

 敬は肯き、投球モーションに入った。


 ほぼ狙い通りの、見送ればボールのコースだった。

 しかし中島さんは踏み込んできて、思い切り振ってきた。

 ――コースじゃなく、球種で狙ってたのか。

 ボール球を打たせるという、打ち捕るセオリーのひとつは果たした事になる。




 カキーン。

 少し詰まったような打球が、ライトへ飛んでいった。

 七回裏の守備からライトに回った土屋が、ほぼ定位置で捕球体勢に入っていたが、やがてじり、じりと少しずつ後退し始める。


「要っ! もっと後ろだっ!!」

 ――ヤバい。追い方が、悪過ぎる。


 土屋は本職がキャッチャーで、正捕手の座は依田さんに譲っているが、打撃の良さを買われて今大会は外野手に回っている。

 本職のポジションではない上に、この試合は代打が出た関係で一層不慣れなライトに回ってしまった弊害が、この土壇場で露呈してしまった。




 打球が土屋の頭上を越して、ワンバン、ツーバンと高くバウンドし、フェンスに跳ね返った。

 既にスタートを切っていた上田はホームイン、これで1対1、同点。

 全力疾走の土屋がボールに追い付いた時、中島さんは二塁ベースを蹴って三塁に向かう処だった。

 タイミング的には、暴走と言って良かった。


「舐めんな、よっ」

 土屋は強肩を活かして、三塁へレーザービームを試みた。

 矢のような送球がサード手前でバウンドする。


 土屋の送球はストライクだったと思うし、アウトに出来たと思う。

 しかし不運だったのは、バウンドした瞬間にボールがあらぬ方向にイレギュラーし、捕球するサードもそれに対応出来ず、後ろに逸らしてしまった。


 サードのカバーに行っていたレフトも、代ったばかりで位置取りが悪く、それを見て中島さんが三塁も蹴った。

 そして、中島さんがサヨナラのホームを踏むのを、敬は為すすべもなく見つめていた。




 2対1、松商奇跡のサヨナラ勝ち。

 古諸は被安打1、あとわずかの処で大魚を逃した。


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