3. 祥倫寺の『家族』たち
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「ただいまぁー」
古諸の真ん中を流れる千曲川、その南側の山中、人里を避けるようにぽつりと建っているちいさな寺院、祥倫寺。
現在は敬と愛、ふたりの自宅でもある。
目覚めた翌日に行われた、病院での検査結果は当然ながら何も問題なく、目出度く退院となり、保護者である浩輔さんの運転する軽自動車で、一ヵ月ぶり――体感的には10年ぶり――の我が家へと、帰ってきたのだった。
車一台がやっと通れる山道を抜け、祥倫寺真下の駐車場へ。
ここからは徒歩、長い石段が待っている。
「荷物、これだけ? 持とうか」
爽やかな笑顔で申し出る浩輔さんに、愛も笑顔で応える。
「ううん、大丈夫。どうもありがとう」
染矢浩輔さんは31歳と、まだ若い祥倫寺の住職だ。
兄妹と同じく、早くに先代の両親を亡くし、寺の後を継いでいる。
生前の父とは親交が深かったようで、俺たちにもしもの事があったら頼む、的な事を言われていたらしい。
ここに住むにあたって敬と愛は浩輔さんの養子となり、姓も変わった。
だから浩輔さんは、年の離れた従兄でもあり、父親でもある。
「愛ちゃん、お帰り。心配したんだよ」
「ごめんなさい、清司さん。もう元気だよ」
長い石段を登り、寺と隣接した母屋に着くと、寺男の長良清司さんが心の底から嬉しそうに、愛を出迎えてくれた。
清司さんは28歳、寺を継ぐ時に浩輔さんが呼び寄せ、住み込みで働いている。
浩輔さん、清司さん、そして敬、愛。
これが祥倫寺での家族構成だ。
「あ、ピアノ――ねえ、弾いてみて良いかな?」
広い居間にデーンと置いてあるグランドピアノを見て、愛が華やいだ声を上げる。
愛にとって、幼い頃からレッスンを受けてきた懐かしいピアノであり、母の形見でもある――どうやってこの大きなピアノを、こんな山奥まで運んで来られたのか不思議だったが、訊いても浩輔さんはにっこり笑ったまま答えようとはしなかった。
「そりゃもちろん。愛が弾かなくて誰が弾くんだよ」
「良いけど――今、弾くの? 退院したばかりで疲れてるんじゃないか?」
浩輔さんの優しい言葉に、愛はにっこり微笑む。
「ううん、病院じゃ寝たっきりだったから、むしろ弾きたくてうずうずしてるの」
腰掛けようとする愛に、清司さんがスッと椅子を引いてくれた。
「どうもありがとう」
「どういたしまして。愛ちゃんが入院してる間に、このピアノ調律しといてもらったよ」
「うわあ、それは助かるなあ」
――我が家のピアノは10年ぶりだ。
愛は短いフレーズをぽろんぽろん弾きながら感触を確かめていた。
異世界でもピアノに似た楽器はあって、聖女という立場を利用して機会がある度に触らせてもらっていた。
現し世の記憶はない筈だったのに、指だけはしっかり覚えていて、アラン、リト、アーレンといった仲間たちは、愛――シーナが奏でるジャズピアノに酔いしれるという恩恵にあずかっていた。
それが出来たのも2年前まで、かな……
王都の近くには多数あったピアノやオルガンも、魔王領に近付くにつれその数を減らし、それでもシーナの演奏は、魔の恐怖に怯える人々の心に、ささやかながら希望の灯を点していたようだった。
そう、音楽は異世界でも共通の言語だった。
しかし魔との闘いが激化していくと、楽器に触れる事も叶わなくなっていって、愛がピアノを弾くのは実に2年ぶりである。
――今日は指が覚えてる範囲で、弾いてみよう。
慣らし演奏を終え、愛の指が曲を弾き始める。
*
「おっ」
「始まったな」
曲目は『オズの魔法使い』より『オーバーザレインボー』。
ジャズのスタンダードナンバーでもあり、親しみやすいメロディで、異世界でもしばしば弾いた曲だった。
まずはしっとりとピアノソロ。
ワンフレーズ弾き終わった処で、愛の左手が生き物のように動き始め、ビートを刻んでいく。
ピアノは面白い。
ピアノ特有の、音やリズムを奏でる事はもちろん、他の楽器をカバーする事も出来る。
愛は、ベースとドラムのパートを左手で弾きながら、右手を自由にしてメロディを踊らせてみた。
ピアノを弾きながら愛は、異世界での魔王討伐の旅を、思い出していた。
行く先々で涙を流しながら、愛の演奏を聴いてくれた人々の顔。
下半身が蒸発し、シーナの膝の上で事切れた若い兵士。
負傷者の呻き声の中を駆けずり回り、昏倒するまで治癒魔法を掛け続けた日々。
4人の勇者パーティ、そのチームワークと能力は抜群だったが、人数の少なさ故に魔の軍勢相手には、局地的な防衛に終始せざるを得なかった。
そういう意味ではすべての人々を救う事は不可能で、シーナは自分の微力を思い知らされる毎日だった。
魔王討伐という名声と栄誉の足元には、多数の犠牲者たちの亡骸が累々と横たわっている。
――みんな。私は虹の向こう側を、見たよ。
あの10年間は、虹の向こうを探しに行くような、ロマンチックな旅路では、けしてなかったけど。
魔王を討伐し、異世界のみんなに別れを告げ、私はアランと一緒に、虹のゲートを潜っていった。
そして『女神の東屋』へと、辿り着いた。
敬と浩輔さん、清司さんは瞬きもせず、愛の奏でるピアノを聴いていた。
小柄な愛のほっそりした背中を、食い入るように見つめていた。
ブランクのせいだろう、技術的な後退は隠せない。
特に左手の低音パートが不揃いでガチャガチャしている。
しかし――
「何だろう、この音の豊かさは……」
浩輔さんが半ば放心状態で呟く。
優しさに縁取られた哀愁、とでも表現すれば良いのだろうか、うっかりすると幼児のように身も世もなく泣き出してしまいそうな、清らかな温もり。
しかも揺るぎない信念が、根底に存在している。
「ふーーー……」
演奏の邪魔にならないよう、静かに嘆息を漏らす。
間違いない、これは愛にしか出せない、愛だけの音色だ。
曲が終わり、少し跳ねるようにして振り返り、礼をする愛に、男たち3人は惜しみない拍手を送った。
――これは既に達人の域だ……プロでもこれだけの音色を出せる奏者は、そうは居ないんじゃないか。
「これは畏れ入った。寝てた間に腕、上げたんじゃないか?」
「やあね、褒めすぎよぉ」
浩輔さんの思いを見透かしたかのように、愛が照れながら微笑んだ。
*
自室に戻った愛は、靴下を脱ぎ散らかして裸足になると、早速お尻からデーンとベッドに倒れ込んだ。
「んー」
少し捲れたスカートを直しもせず、そのまま仰向けになって、大の字に伸びをする。
やっぱり我が家は落ち着く――かと言えば、微妙である。
ここ古諸に愛が移り住んだのは、わずか2年前の事だったからだ。
両親と過ごした東京の実家はもちろん、異世界でアランたちと旅した月日よりも、はるかに短い。
「お父さん、お母さん……」
誰に語るともなく、そっと呟いてみる。
屈強だった父にも、ピアノの師匠でもあった母にも、もう逢えない。
それどころか、死体の損傷が激しいという理由で、敬と愛は、両親の死に顔さえ見る事も出来なかった。
両親の死と同時に、何故か親戚たちは潮が引くように兄妹から遠ざかり、保護者としてようやく手を挙げてくれたのが浩輔さんだった。
広いこの世で愛は、敬とふたりきりだった。
少し沈んだ気持ちで居た処に、ドアをノックする音がした。
「愛、いいかい」
入って来たのは、兄の敬だ。
少し作り笑いをしているが、敬が何を考えているか、元聖女の愛にはお見通しだった。
野球部に入ろうとしている愛を、止めさせるつもりだ。
「あのさ、愛。お前いったい、どういうつもりで野球やるなんて……」
「私は本気よ」
敬の言葉を遮るように、愛は強く言い放った。
愛が見つめるその眼差しの強さに、敬は少なからず驚いた。
――やっぱり目覚めてから、いつもの妹と何かが違う。
「ねえ、愛。お前ほんとに、愛?」
「何言ってんの、私は私よ。何だったらお兄ちゃんが好きな女子の名前、今ここで言ってみせようか?」
「――ごめん、兄ちゃんが悪かったよ……」
しかし愛のそんな決意も、野球経験者の敬にとっては、根拠のない自信にしか思えない。
「愛って、野球やった事、一度もないよね」
「ないよ」
「それがどーしていきなり、しかも硬式野球やろうって思うんだよ。いいか、硬式のボールって石みたいに硬いし、ボールのスピードもめちゃめちゃ速いんだぞ。おいそれと初心者が手を出せる代物じゃないんだ」
「そんなもん、やってみなけりゃ分かんないじゃない」
「やらなくても分かるから、言ってんだけどな……」
「だいたいさ、今まであれだけ弾いてたピアノは、どーすんの。辞めちゃうの?」
「ピアノはやめないよ? 練習量は半分――ううん、3分の1くらいになると思うけど、ピアノも弾きながら野球も始める」
「――野球を舐めんじゃ、ないよ……」
敬がいきなり怖い顔になって、声のトーンも低くなった。
「お兄ちゃんが怒っても、私は野球やる――やらなくちゃいけないの」
「だからどーしてなのさっ」
「…………やるの、野球……」
愛は典型的な内弁慶で、普段は大人しく無口だが、家族相手だと時折こうして強情な処もみせる。
――そんなわがままを受け止めてやるのも、唯一の肉親になった僕の、兄の役目なんだろうな……
「よし、分かった。明日の朝だ。早めに朝稽古切り上げさせてもらって、兄ちゃんと野球やってみよう」
「ほんと? お兄ちゃん、ありがとう」
「――手加減しないから、覚悟しとくんだよ」
現実の厳しさってヤツを見せてやらなくちゃ……少し心を痛めつつも、敬は決意した。




