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27. 愛、捕手デビュー2 (vs信州吉田2)



「お兄ちゃん、サイン、バレてる」

 愛としては一大事のつもりで告げたのだが、敬は冷静そのものだった。

「ああ、だからチェンジアップに手を出したのか。意外に早かったね、ありがとう、愛」

 そう言うと敬は手招きで、野手陣をマウンドに呼び寄せた。


「僕のサインは相手から丸見えだし、愛のために分かり易いサインにしておいたから、遅かれ早かれバレるのは分かってたよ。球種が丸分かりでも抑えられる自信はあるんだけど、せっかく愛がアドバイスしてくれたから――」

 敬は愛に耳打ちすると、マウンドに集まってきた野手陣の方を振り向いた。


「僕のサイン、バレてるそうです」

「ああ、そうだろうな」

「分かり易かったもんな、敬のサイン」

 どうやら愛以外の選手たちには想定内の問題だったらしい。


「なのでサイン、少し変えます。二番めのモーションにダミー入れます。この回だけなら、それで凌げるかな、と」

「次の回から、どうする?」

「愛からサイン、出してもらいます」

 敬は即答した。




「えっ、私?」

 愛にとっては、寝耳に水の話だった。

「あっはっはぁ、ぶっつけ本番かよ。ずいぶん思い切ったなあ」

「いいんじゃねえの。そういう事だ、勉強だと思って頑張れよ、愛」

 なぜか野手陣の反応は、好意的であった。


「だって私、リードの事なんか何も知らな――」

「愛がキャッチャーやりたいなら、いずれ進む道だよ。僕の投球パターンは、大体覚えてるよね」


 覚えているも何も、敬のピッチングはほぼ一球一球、愛の心に刻み付けられている。


「今日は緩急を使えないから、コースで勝負。相手の打ち気はボール球か変化球で逸らす、だよね」

「今までなら正解だけど、打順が一巡すれば眼の良いバッターは、ボール球はもう振ってくれない。ゾーン内のぎりぎりを狙って行こう」

「カーブは使って、いい?」

「うん。バッターひとりに二球までの制限、忘れないように」

「分かった」




 タイムが解け、試合再開。

 さっきまでの会話を体現するかのように、敬はアウトローいっぱいのストレートから入っていった。

 ゾーン内を狙ったボールだったが、わずかに外れ、判定ボール。

 ――なるほど、3番のクリーンアップになると、ボール球は振らないね。


 それでもインコースのストレートでファールを奪うと、三球めはカットボール系のチェンジアップでカウントを取った。

 うん。変化球はあまり投げてないから、目がまだ付いて行ってない。


 決め球は、この試合初めて投げるカーブだった。

 今までのサインならストレートと間違うように上手く偽装したので、相手は完全にタイミングを狂わされ、空振り三振。

 ――相変わらず、すっごいキレだよね。

 右バッターの膝元に曲がって落ちるカーブで、後ろに逸らさないよう股を少し閉じ、下からミットを出して受け止める。

 ボールは愛の手前でバウンドし、ミットに収まった。



 次の瞬間、バッターが走り出したのを見てはいたが、愛には何の事か分からず、立ち上がって敬に返球しようとした。

「ナイスピッ――」

「何やってんだっ」

「ひとつっ。ファーストっ!!」


「えっ」

 周りの声にようやく気付き、ファーストに送球するも間に合わず、セーフ。

 振り逃げ成立、1アウト一塁。

 苦笑いしながら敬がタイムを申請し、愛をマウンドに呼び寄せた。




「お兄ちゃん、今の、何? 私ボール捕ったんだけど」

「愛。振り逃げの条件って、覚えてるかい」

「もちろん」


 無死または一死で走者が一塁に居ない時、または二死の時。

 3ストライクの場面でキャッチャーが完全捕球出来なかった時に、バッターは一塁への進塁を試みる事が出来る。


「完全捕球というより、正規の捕球って言い方が正しいな。正規の捕球ってのはさ、ノーバンで捕るのが条件だから、愛がボールを零すだけじゃなく、今みたいにショートバウンドでボールを捕るのも、正規の捕球には当たらないんだよ。つまり振り逃げが成立する」

「あ――そしたら私は、ボール捕った後で……」

「そ。バッターにタッチして、アウトにしなくちゃいけなかったんだ」


「お兄ちゃん、ごめんなさい……」

「いいんだ。愛を呼んだのは、ミスを責めるためじゃなくて、愛に落ち着いてもらうためだよ。野球ってのは、ランナーを出したその後の方が、よっぽど重要なんだ。いいかい、しっかり守っていこう」

「うん、ありがとう」




 ランナーが動いたのは、初球だった。

 敬がきちんとケアしてくれたお蔭で、一塁走者のリードは大きくなかったが、ミスしたばかりの愛の動揺を誘おうとしたのだろう。

 敬の投球の瞬間、ランナーが走った。


 外角高めに外れるストレート。

 愛は中腰になって、それをキャッチする。

 すぐに送球体勢に入った愛は、栗夕月奈のカナさんほどダイナミックではないが、足腰を使い細腕を撓らせて、二塁への送球を試みた。


 ボールはしゃがんだ敬の頭上を越して、ほぼ一直線に二塁へ向かって行く。

 ベースカバーに入ったセカンドが、二塁ベースの真上でグラブを構えていて、そこにほぼストライクでボールが入っていった。

 ランナーはグラブに向かってスライディングする形になり、もちろんアウト。


「うおーーっ!!」

「やるじゃないかっ、愛っ!!」

 愛、初めての盗塁阻止成功。

 これには相手の吉田高ベンチからも、スタンディングオベーションが送られた。




 ランナーを出しながらも四回を1失点と踏ん張っていた吉田高の先発、吉田くんだが、五回表にとうとう捕まった。

 先頭打者の愛はまたも凡退だったが、三巡めに入った1番からヒットの五連打で、古諸が3点を奪う。

 4対0と引き離した場面でのリード開始となり、愛は少し気が楽になった。

 援護に感謝、である。


 五回裏。

 投球練習の段階から、予行練習を兼ねて愛はサインを出した。

 ストレート、ストレート、カーブ、チェンジアップ、ストレート。

 しゃがみ込んだ股の間で、愛の指が動く。

 コースの指定もしっかり出来た。


 プレー開始、先頭打者は6番からで、これから下位打線に入っていく。

 サインを出しながら、愛はセカンドとショートの視線に気付いた。

 彼らもまた、愛のサインを見ながら、飛んで来る打球を想定して微妙に守備位置を変えていくのだ。

 ――私、見られてる。

 わずかな気恥ずかしさを感じたが、それ以上に身の引き締まる思いであった。


 サインは、外から内に切れ込んでくるカーブ。

 敬はかるく肯くと、キレッキレのカーブで空振りを奪った。




 敬は、愛のサインに一度も首を振らなかった。

 五回裏は3人の打者に、合計12球。

 三振、三振、セカンドゴロの三者凡退に斬って落とした。


「愛、頑張ったね」

 マウンドからベンチに戻りながら、敬が先に声を掛けてきた。

「お兄ちゃん、ありがとう。ナイスピッチ」

 敬のコントロールは驚くべきで、ほぼ愛の指示したコースにボールがやって来て、思い描いた通りの結果を出せた。


 ――この調子で、出来れば最後まで。

 愛は心秘かに、自分を元気付けた。




 しかし六回表、愛の打順で監督が代打をコールする。

 愛に代って、土屋くん。

 事実上のお役御免である。


「愛。依田んとこ行って、指導を仰いで来い」

 山本監督はほとんど表情を変える事なく、愛に告げた。




「へえ、監督が……」

 ブルペンで待機していた依田さんが、納得したように肯いた。

「愛。どうしていきなり交代させられたか、理由は分かるか?」


「えっと……バッティングで、結果出せなかったから、でしょうか……」

「いやいや、違うな。愛のリードが、監督にとって不満だったんだよ」


 愛はスッと顔を上げ、上目遣いに依田さんを見つめる。

「私の、リードが、ですか?」

 五回裏は三者凡退、球数だってそんなに使わせなかった。

 愛としては上々の結果だ、そう思っていた。


 しかし依田さんは腕組みをしながら、何度も深々と肯いた。




「試合の流れを整理してみよう。試合は中盤、五回裏」

「はい」

「ここまで敬は被安打2本、無失点。ストレートは走ってたし、コントロールも良かった。上田南相手の好投はフロックじゃなくて、これはもう、敬の実力だろうな」

「はい」

 敬の事を褒められて、愛の頬が少し緩む。


「序盤はボール球を上手く使って打ち気を逸らしていたが、上位打線に関しては、もうボール球は振ってはくれない。二巡めからカーブを使い始めたのは、それの対策だろうな」

「はい、お兄ちゃんもそう言ってました」

 敬とはひと言も喋っていないのに、ほぼ同じ事を話しているのはさすがだと思った。


「で――五回裏の、愛のリードを振り返ってみよう。6番から8番の3人に、ストレート7球、カーブ4球、チェンジアップ1球。どれもこれも打てなさそうな、ぎりぎりのコースを狙っていた。見た目には完璧だね」

「はい」

 敬のピッチングに、相手バッターは手も足も出なかった。

 それのどこが、いけないのだろう。




「それってさ。もう一巡先の終盤、ピンチでクリーンアップ相手にするリードなんだよ。愛、お前のリードは、奥の手を出し過ぎたんだ」

 依田さんの分析では、吉田高の打線で注意すべきは、1番から5番の上位打線。

 そこから下位は、打力が極端に落ちるし、選球眼だってそんなに良くはない。


「俺がリードするんだったら、ほとんどストレート。ボール球を使っても良いが、内外のゾーン内で充分打ち捕れただろうな。カーブの緩急は敬の生命線なんだから、ここだけは抑えたい、って場面まで我慢して取っておくんだ――それが試合の流れってヤツだ」


「は――い……」

 これにはぐうの音も出なかった。

 つまり愛は、試合の流れや、敬と相手バッターの力関係を無視して、フルスロットルのリードをしてしまった、そういう事になる。


「つまり私のリードが、試合の流れを切ってしまった事に、なるんですね……」

「そこまでは言わないさ。でも敬だけじゃなく、ピッチャーの事、もっと信用してやれ。今日の敬の調子なら、なおさらだよ」

「はい」


 結果を出して、叱られる事もある。

 試合は7対1の完勝で、リーグ開幕を連勝で飾った古諸高であるが、愛にとってはほろ苦いデビュー戦となった。


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