26. 愛、捕手デビュー (vs信州吉田)
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愛を試合に送り出す山本監督は、いつになくにこやかだった。
昨日まで盗塁みっつ許すか、パスボールみっつしたら即交代だぞと、強迫にも似た発破を掛けられていた事を考えると、嘘のような豹変ぶりだ。
「今の愛なら練習通りやれば、そんな恥ずかしい事にはなんねえ。いいか、思い切りやって来い」
「はい、ありがとうございます」
山本監督はそう言うと、先攻の攻撃に備えて三塁コーチャーズボックスまで走って行った。
高野連の公式戦では、監督はグラウンドに出られずベンチに居なくてはならないが、MIRAIリーグは逆で、グラウンドに立つどころか、試合中は三塁のベースコーチが義務付けられている。
監督も一緒に試合に参加する、というコンセプトだ。
第一試合と先攻後攻を交代し、一回表は古諸の攻撃。
打順が当分回ってこない愛はブルペンに行き、敬と一緒に試合前の最終チェックをした。
「じゃあこれから、ストレートを5球ずつ投げるよ」
キャッチボールの後、敬が妙な事を口走るが、打ち合わせは既に出来ているので、愛も違和感なく肯く。
「うん、いいよ。来て」
愛はちょこんとしゃがんで、ミットを構えた。
「まず、こっちから」
投球モーションに入った敬が、ストレートを投げる。
綺麗なスライダー回転の掛かったボールがやって来て、ベース手前でわずかに左へ曲がった。
パシッ。
愛のミットが、軽い乾いた音をたてる。
「ナイスボール」
右バッターの外角いっぱいに入る、ゾーン内のストレートだ。
「次、同じの行くよ」
淡々と告げて敬が投げたストレートは、今度は右バッターへのクロスファイア、インコースをぐいっと抉ってくるボールだった。
こうして敬は五球続けてスライダー回転のストレートを投げてきたが、コースやプレート位置、投げるタイミングなどを変えてきて、一球として同じボールはなかった。
「次のパターン、五球」
「オッケー」
次に敬が投げてきたストレートは、シュート回転の掛かったボールだった。
右バッターのゾーンから外へ逃げるボール、左バッターの胸元を抉るボール、敬はやはり一球毎に表情の変わるストレートを投げ分けてきた。
MIRAIリーグのルールでは、技巧派の敬といえども、75%以上はストレートを投げなくてはならない。
相手バッターは、ほぼ間違いなくストレートを待ってくるだろうから、そのストレートのヴァリエーションを増やす、という敬の考えであった。
それは取りも直さず、カーブに頼り過ぎた上田南戦の反省でもあった。
「そろそろ終わりかな――」
敬がグラウンドをちらっと見遣る。
立ち上がりに苦労した吉田くんは1ヒット1四球でランナーを出すも、5番はショートゴロで古諸無得点、チェンジ。
一回裏の守備、敬と愛の出番だ。
「投球練習はカーブとチェンジアップを二球ずつ、最後にストレート投げるよ」
「うん、分かった」
愛を先導する形でマウンドに向かう敬の背中は、ほんとうに頼もしく見えた。
*
グラウンドにちょこんと座った愛は、誰が見ても、野球の試合に不釣り合いなほど華奢であった。
大丈夫かいな、という視線を、主に吉田高側から感じる。
――大丈夫ですよ。試合壊さないよう、頑張ります。
投球練習で敬が二球めに投げたカーブが、珍しくホーム手前でワンバウンドした。
――おっと。
愛は少し腰を落とし、ミットを掬い上げてキャッチ。
捕球した瞬間、味方だけでなく、対戦相手である吉田高からもどよめきと『ナイスキャッチ』という声が飛んで来た。
敬を見ると、少し肯きながら微笑んでいる。
――わざとワンバンさせたね、お兄ちゃん。
愛は苦笑いしながら、敬に向かって少し強めに返球する。
最後のストレートは、やっぱりボールの伸びが良く、特にチェンジアップの直後なので速く感じた。
球速は120km/h出てるか、出てないかくらいなのに、不思議なものである。
――さあ、特訓の成果、見せるよ。
愛は立ち上がってマスクを撥ね上げると、二塁のベースカバーに入ったショートに向かって、ノーバンで送球した。
お世辞にも強肩とは言えないが、ほぼイメージ通りのまともな送球が出来て、愛は思わず微笑んだ。
――これで盗塁はフリーパスじゃないって、アピール出来たかな。
何しろこの一週間は、毎日居残りで二塁送球の特訓をしていたのだった。
愛の送球に、両軍ベンチから少なからぬ歓声と拍手が届いてきた。
試合前の打ち合わせ通り、敬の方から投げるボールのサインを出してきた。
初球、内角高めストレート、愛はコクンと肯く。
ボールはシュート回転して、右打席に居る1番打者の胸元を抉った。
判定はボール。
次もストレート、今度は外角低め。
スライダー回転のボールが低めいっぱいに決まって、ストライク。
お兄ちゃん、今日もコントロール、冴えてる。
マスクの下で愛はにっこり微笑んだ。
初回、敬は得意のカーブを一球も投げなかった。
二種のストレートを使い分けながら、プレートの立ち位置、さらにリリースのタイミングまで変えて、ピッチングが単調にならないよう心を砕いているのが、愛にも有り有りと分かった。
そして時折混ぜるチェンジアップが、その次のストレートを一層速く見せた。
一回裏は堂々の三者凡退。
愛もまた、初めての守備を順調に終える事が出来た。
愛の初打席は意外に早くやって来て、二回表。
2アウト一塁の局面で、サインはもちろん自由に打って良し。
マウンドの吉田くん、ストレートの最速は130km/hくらい。
カーブは苦手ではなさそうだが、当然ながら敬ほどのキレもコントロールもない。
チェンジアップは一球だけ投げたが、あまり変化しないので、タイミングを外すくらいにしか使えないと思われる。
――まあ、私にはあまり関係ないんだけど、ね。
愛の場合は、捕手として試合に出る準備が山ほどあって、ここしばらくはほぼ守備練習の一辺倒。
打撃練習は息抜き程度にしかさせてもらえなかった。
自宅に戻ってから素振りをすれば良かったのだが、あいにくピアノを弾く方が大事である。
つまりバッティングについては、愛は素人に毛が生えた程度の技量だった。
そういう情報が伝わっていたのか、あるいは素振りを数回した程度で見破られてしまったのか、吉田くんの吉田高バッテリーはストレート一本、しかもほぼど真ん中でポンポンとストライクを取ってきた。
一球め見逃し、二球めファールで2ストライク。
しかし元聖女の眼と身体能力は伊達ではなく、この二球である程度の球筋は掴めた。
三球め、やはりど真ん中ストレート。
――これなら。
腰を回転させながら、巧く芯に当たるよう、バットを出す。
少しボールの勢いに押されそうになったが、良い手応えの打球がセカンドの頭上を越そうとした。
「うおーっ」
「行くぞっ」
打った瞬間、マウンドの吉田くんが顔色を変えたのが、分かった。
しかしセカンドが少し余裕を持ってジャンプしたグラブの先に、ボールは収まった。
――うーん、球威に押し負けちゃったなあ。もっと振り抜くような感じで、インサイドアウトしっかりしなくちゃ……
愛の初打席は、セカンドライナー。
古諸は二回表も無得点だった。
*
「惜しい、惜しいっ」
「愛、ナイスバッチだぞ」
案に相違して、ベンチに戻った愛を待ち構えていたのは、みんなの笑顔と拍手喝采だった。
結果はアウトでも、その内容が予想を上回るものだったらしい。
土屋くんがキャッチャー用具一式を用意してくれていて、装着も手伝ってくれる。
「愛があれだけバッティング上手いなんて、マジ驚いたよ」
「だって三球連続、真ん中だったもん。少し振り負けたし、インサイドアウト出来てなかった」
「ああ、そうだな。体重移動はほぼ完璧だったから、スイングをしっかり固めれば、打てるようになるぞ」
――失敗が糧になる、優しい世界。
どんなに頑張って細心の注意を払っても、わずかな失敗や判断ミスが命取りになる、そんな戦争を、愛は異世界でしてきた。
逆に相手のわずかな隙を衝いたその瞬間から、命を刈り取るまで攻めたてる、そんな戦いもしてきた。
愛にとって、現し世の野球部は居心地が良かった。
相手のわずかな異変に気付いたのは、吉田高の打線がちょうど一巡した四回裏あたりからだった。
敬がチェンジアップのサインを出した瞬間、この回先頭で打席に立った2番打者の強い思いが、愛に伝わってきた。
――え。
愛が違和感を覚える暇もなく、敬のボールが投げられ、相手がチェンジアップのタイミングでスイングをする。
敬のチェンジアップは意外に変化が大きく、落ちるボールにわずかに芯を外されたのか、強い当たりのショートゴロとなった。
1アウト、傍から見ればナイスピッチングである。
「タイム、お願いします」
愛はタイムを取り、マウンドまで駆けて行った。
「お兄ちゃん、サイン、バレてる」
マウンドの敬に愛は開口一番、そう告げた。




