22. 走って、捕って、投げて
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九月の新学期に入った早朝。
敬と愛、兄妹のランニング登校は続いていて、しかもその内容は、ただのインターバル走に留まらなくなっていた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
兄妹が肯き合っているのは、千曲川を渡って水力発電所を少し東、古諸城側に入った場所。
目の前には天然の要害である急峻な斜面が、森となってそそり立っている。
辺りに人が居ない事を確認して、愛が敬に両手を翳す。
愛の掌から生じた光芒が、滑らかに敬の全身を包んでいく。
内容は攻撃力増強、そして少々の防御力増強。
敬に魔法を掛け終えると、愛は自分自身にも手早く同様の魔法を掛ける。
ふたりとも魔法の加護に包まれたのを確認すると、再びふたりは肯き合った。
「レディ」
「ゴー」
控えめな掛け声とは裏腹に、魔法の掛かったふたりのダッシュは、常軌を逸していた。
目にも止まらぬ速さで森の入口に辿り着くと、敬が助走を付けて5メートルほどジャンプし、森の中を飛んでいった。
少し遅れて、同様のルートで愛がジャンプ。
深々と茂っている藪や灌木を楽々と飛び越え、木々の太い枝に着地すると、ノーステップで敬がまたもジャンプ、木々の枝を跳躍で飛び移っていく。
それに続き、愛も枝を蹴って空を駆けた。
こうして森の木々を次々と飛び跳ねて、ふたりはあっという間に斜面を登り切った。
普通に歩くと40分は掛かる道を、ものの数分で到着。
究極のショートカットであり、筋肉に掛かる負荷を考えれば、トレーニングとしてもかなり有効であった。
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夏の長野県大会二回戦負けの翌日から始動した、一二年合計22名の新チーム。
長野の秋は短く、春のセンバツを睨んだ秋季大会は、八月終わりから既に始まっている。
敬は背番号12をゲットし、堂々とベンチ入り。
東信地区予選の一回戦ではエース北沢さんの後を受けて公式戦デビューし、二回をノーヒット無失点と結果を出した。
公式戦出場資格のない愛は、スタンドからチームメイトたちを応援した。
現在野球部は、今週末に行われる二回戦に向けて、総仕上げの練習を行っている。
相手は上田南、今大会も優勝候補の一角を占める強豪校だ。
「ピッチャーが抑えて投手戦に持ち込む。これしか勝つチャンスは、ないと思うんだ」
ブルペンで敬は、正捕手となった二年の依田さん相手に、安定したストレートを投げていた。
愛は新チームで、第三捕手の扱いだった。
ブルペンだけでなく、少しずつ打撃練習や守備練習、そして実戦形式のシート打撃にも参加させてもらっている。
今はブルペンで背番号8、二年須坂さんのボールを受けている。
北沢さんに敬、須坂さん、一年の宮田くんがピッチングスタッフ。
愛は須坂さんと宮田くんのボールを受ける事が多くなっていた。
――やっぱりお兄ちゃんのボール、受けたいなあ。
しかし敬はこの夏で一回り成長を遂げていて、今や北沢さんとも肩を並べられるほどの存在になっていた。
ストレートは最速128km/hまで伸び、コントロール抜群のカーブとのコンビネーションが、さらに効果的になった。
特筆すべきは終盤になってもほとんどバテないタフネスぶりで、夏休み中ずっとランニングと跳躍の登下校を行ってきた賜物であろう。
つまり敬はもはや、古諸に欠かせない戦力であり、試合前の練習では依田さん、そして第二捕手の土屋くんがパートナー。
残念ながら愛の出番はなかった。
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「ほら、集中して受けろよ。キャッチングのフォーム、乱れてんぞ」
背後で声がして振り返ると、元主将の清水さんだった。
「清水さん、今日もいらしたんですか」
「ああ、今日も来たぞ」
親指を立ててニカッと笑う清水さん。
清水さんは引退後も、ほぼ毎日練習にやってきて、ほぼ一対一で愛のコーチングをしてくださっている。
ベンチ入りは100%出来ない、公式戦ではまったく戦力にならない筈の、愛の事を気に掛けている。
少しボディタッチが多めなのは気になるが、ほんとうに有難い話だった。
「まったく、呼ばれもしないのに毎日毎日グラウンドに出て、どんだけ暇人なのよ。呆れるわ」
腕組みをして言い放つのは、これまたマネージャーを引退した筈の宮沢さんだった。
「そう言う宮沢さんも、毎日来てるっスよねえ」
マネージャーの志乃さんがニヤニヤ笑っている。
「わっ、私はねえ、志乃がひとりで大変だから、引継ぎと手伝いを……」
「はぁーい。ヒジョーに助かってますよぉ」
志乃さんはニヤニヤしたまま、練習補助にグラウンドへ走って行った。
「誰が投げても、キャッチャーのやる事はひとつ。ピッチャーの能力を最大限に引き出す事だ」
「はい」
「愛は、ピッチャーの気持ちを掴むのが上手い。今は余計な事を考えず、ピッチャーがいちばん投げやすいと感じるフォームで、ひたすらキャッチングしろ」
「はい」
――だいぶ、形になってきたな。
清水さんは満足げに微笑んだ。
愛がピッチャーの気持ちを汲み取れるのは、元聖女の力で魂の色が見えるからなのだが、それについて清水さんは知る由もなかった。
まだまだ覚える事はたくさんあるが、キャッチングの技術に関しては、生まれ持ったセンスとしか言いようがないほど、上達の速度が半端じゃない。
おそらく来年の春くらいには、ここに居る誰よりも――主将だった自分を含めて――キャッチングは巧くなっているだろう。
――しかし、あまりにも身体の線が細過ぎる。
フォームの指導目的で愛の両肩に触った時、その華奢さに改めて驚いた。
細身の女子としては普通なのだろうが、少なくとも男子に混ざって野球をする体格ではない。
――茜が言った通り、10kgは体重、増えてほしいなあ。
女子に面と向かって『太れ』と言えない、心優しい清水さんであった。
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二回戦の前日、スタメンの発表があった。
「9番ピッチャー、染矢敬」
敬、公式戦初先発の大抜擢である。
この週、敬は正捕手の依田さんとほぼコンビを組んでいたので、予想の範囲内だったが、それでも軽いどよめきが起きた。
「やったね、お兄ちゃん」
「頼んだぞ、敬」
「――はい」
頬を紅潮させて微笑む敬。
コントロールと緩急でバッターを打たせて捕る敬のピッチングは、大崩れが少ない、そう言う計算があっての先発抜擢と思われた。
相手の上田南は夏ベスト4、攻守ともに隙のない強敵であるが、この一戦に勝てば準決勝、秋季大会本戦の出場が確定する。
ともかくも敬のピッチングが上田南打線に通用するかどうかが、試合の鍵となるだろう。
「打たせていきますんで、よろしくお願いします」
『おうっ』
深々とお辞儀をした敬に、部員たちは気合いのポーズで応えた。
「今日はゆっくり休め、て言われたのに、結局走って跳んで、帰って来ちゃったね」
帰宅した敬の部屋で、いつもより念入りに、愛が敬に治癒を掛けている。
「毎日の事だから、やらないと何だか物足りなくなっちゃったね」
苦笑混じりに敬は、愛に身体を任せている。
傍から見れば妹にマッサージを受ける仲睦まじい光景なのだが、愛の掌からは魔法の光芒がどうしようもなく漏れ出ている。
――肩も肘も、驚くほど軽い。
これなら明日は全力を出して戦える、敬は楽しみで仕方がなかった。
「アランくん捜し、どうなってるの?」
敬の問いに、愛がゆっくりと首を振る。
「トクさんは、あれからは何も」
夏休み中に、愛の元に松本のトクさんから連絡が入った。
アランという女の子を知っているか、という内容だ。
掛け替えのない大切な人だ、是非連絡を取ってほしいと、愛は即座に返信したのだが、間違いだった今のは忘れてくれと翌日には返信が来た。
それからは何度問い合わせても、トクさんは黙ったままであった。
「僕はアランくんが、女の子だった方が良いなあ。そしたら結婚は出来ないでしょ?」
「結婚は出来なくても、親友にはなれるもん――もしかしたら愛し合う事だって、出来るかも」
「愛ってそう言う趣味、あったの?」
「ない、ない」
即答で否定する愛だったが、魂が噛み合いさえすれば分からないかな、とも思う。
異世界では、ふたりの魂は密接に噛み合っていたように、感じていた。
しかし現し世では、どうなんだろう。
魂の本質は、きっと変わってないと思うんだけど……
魂といえば、福島での出来事は散々だった。
実は愛、わずかな練習の休養日を利用して、敬とふたりで福島の阿良木くんに、逢いに行ったのだ。
甲子園に出場した阿良木くんは学校に戻って練習中で、幸運にも対面する事が出来た。
阿良木くんがアランでない事は、魂を見ればすぐに分かってしまったが、突然現れた愛を彼のファンだと勘違いした阿良木くんは、兄の敬が居るのに、夜にふたりきりで逢おうと言い寄ってきた。
その時の魂が、剥き出しの欲望そのままで、彼がファンの女の子をどのように扱っているのか、図らずも分かってしまった。
予定があるのでとやんわり断ったが、シーナになる前の愛だったらきっと、恥ずかしくて身を縮ませてしまっただろう。
少し糸口が見つかったような気がしたが、アラン捜しの伸展は、依然としてない。
取りあえずは明日の秋季大会二回戦。
そして今月下旬に控えている愛の捕手デビュー、それに集中しようと思った。
古諸高は制服を撤廃していて、私服通学です。
特に音楽科は、制服禁止です(帰りが遅く女子が多いので防犯目的)。
敬と愛は、トレーニングウェアで登下校しています。




