21. 亜蘭の独白
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明くる日、福島の自宅に戻って来たその日から、野球部の練習は午前午後で再開された。
来月には新チームによる県の新人大会、そして十月には春のセンバツ大会に直結する秋季大会と、ゆっくりしている暇はあまりなかった。
「今日も亜蘭、練習見に来とるな」
柔軟運動の最中に、宙太が話し掛けてきた。
「おお。午前中はずっとおる、ちゅうてた」
眼が合うと亜蘭はにっこり笑って大きく手を振り、宙太がそれに手を振って応えた。
「あいだけ亜蘭、野球好いとるんなら、マネージャーになってくれんかね」
ここ最近、毎日のように繰り返される言葉を、またも宙太が口にする。
「じゃっど。えらしか女子がマネージャーんなったら、パワー100倍やっど」
「ドーセツんマネージャーより、1億倍良かが」
この遣り取りも、ほぼ毎日。
マネージャー時代の道雪、部には結構尽くしてきたつもりなのに、えらい言われようである。
マネージャーの件は亜蘭に打診してみたが、家事もあるし道雪の面倒もみるし、その上野球部の面倒見るなんてのさんでしょ、とにべもなかった。
「そいにしてもドーセツ、お前身体、柔らかかねえ」
180度開脚して尻をぺったり着いた道雪に、宙太が驚嘆の声を上げる。
「中学ん時は、そげん柔らかくなかったど」
「おう。きばったからな」
リハビリ中、道雪はただ漫然と筋肉を付けるだけの強化ではなく、柔軟性を上げるトレーニングも行ってきた。
その成果がようやく、お盆明け前後から顕れてきた、と言えよう。
「お前もきばれば、出来っようになっが」
「そっかねえ……」
ランニング、キャッチボールときて、打撃練習。
道雪はイメージ通りのスイングが出来るようになった。
「ドーセツ、手ぇ見せてみい、手ぇ」
バッティングケージから出てきた処で、泊里監督から声が掛かる。
「あっ、はい」
道雪はグローブを脱ぎ、両手を見せた。
「おおう、がっつい振り込んだなあ。手んひら、象のおケツみたいじゃ」
マメだらけ血だらけの道雪の掌を取り、監督がニカッと笑う。
「監督、象のおケツかかった事、あるんスか」
「おう、毎日かかっちょっが」
そう言って監督は、また笑った。
打撃練習の次は守備練で、足腰に不安のある道雪は練習から外れ、その間ずっと素振りをしている。
実戦形式のシート打撃には再び参加し、バッティングと練習補助、球拾いをするのが、道雪の最近の日課になっていた。
素振りを行うべく、バットを持ってグラウンド脇まで行くと、いつの間にか亜蘭がすぐ傍まで来ていて、持参したちいさな椅子にしゃがみ込んで道雪を見上げている。
「亜蘭、パンツ見えとるよ」
「えっ、うそっ」
慌ててスカートを直す亜蘭。
振り向いてみると、何人かの部員が白々しく視線を逸らしていた。
守備練が終わるまでの小一時間は、とにかく素振り、素振り。
ボールを遠く飛ばすイメージを、しっかり持って。
「ドーセツ、また右肩、下がっとる」
「おお、ありがとな」
亜蘭のチェックも健在である。
こうした練習が、夏休みが終わるまで、ずっと続いた。
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午前の練習が終わり、ドーセツと一緒に昼食を摂ったら、あたしの役目は終わり。
その足で夕食の買い物をして、自宅に戻る。
夏休みの時間を利用して、庭の草むしりは済んだ。
家の掃除をして、夕食の支度をして、さながらあたしは旦那の帰りを待つ、幼な妻だ。
家事がすべて終わっても陽はまだ高く、ドーセツが帰って来るまで、あと数時間はある。
遊びに行くと言っても、友達は予定が入ってたし、そもそもこんな田舎で、遊びに行く処なんてどこにもない。
海を見に行ったり、駅近くのカフェでスイーツを食べるくらいである。
「友達、かぁ……」
都井地区から福中に来たのはたったの3人、女子はあたしひとり。
友達作りには、当初から大きなハンデを背負っていた。
あたしを庇ったドーセツが事故に遭って、世話をするようになって、数少ない友達ともどんどん疎遠になってしまった。
ドーセツに人生を捧げる気か、そう言った友達の目付きは、忘れられないだろう。
のろのろと立ち上がって服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて汗を取る。
ちょっと考えて、箪笥の奥にある、お気に入りのパンツに穿き替える。
「ふぅー……」
冷えた麦茶をごくごくと飲み、しばらくは何もする気が起きず、パンツいっちょのまま団扇片手に座り込んでいた。
――どうしよう。
ひとりで居ると、どんどん気持ちが滅入っていく。
強力な恋仇になるだろう、愛ちゃんの顔ばかりが、脳裏に浮かんでしまう。
「愛ちゃんピアノ、すごかったなあ……」
大人しそうで上品な顔立ちだったが、芯が強くて、見かけに依らない激しさを秘めている、そんなオーラがガンガン溢れ出ていた。
異世界のドーセツも、愛ちゃんのそんな処に惚れたんだと思う。
あの演奏を思い出すと、自分がどんどんみじめになってくる。
愛ちゃんは、あんなにピアノが弾けて、笑顔が素敵で、きっと相当な努力を積んできたんだろう。
3年後の今はきっと美人で、おまけに元聖女。
ドーセツの仮説が正しいなら、愛ちゃんはこの世でも聖女の力を維持していて、強力な魔法が使えるスーパー少女になっている。
あたしには――何にもない。
周りから可愛いと言われたくらいでいい気になってる、中身空っぽの下らない女だ。
いやだ……いやだ……いやだ……
あたしは、ドーセツに愛される資格があるような、女なのか。
ほんとは愛ちゃんの方が、ずっとずっと、ドーセツにはふさわしいんじゃないか。
こんな、ドーセツに抱かれる妄想をして、毎晩布団の中でもぞもぞしてるような、薄汚れた嫌らしいあたし、なんて、いっそ、のこと……
いやだ。
ドーセツ無しの人生なんて、あたしには考えられない。
あたしは、ドーセツが好き。
それだけは、絶対に譲れない。
「服、着よ……」
このままずっと裸で、膝を抱えたままで居るわけにもいかない。
このままずっと泣いていたら、ドーセツは慰めてくれるだろうか。
慰めて、くれるんだよきっと。
ドーセツは馬鹿だけど、優しいから。
脱ぎ捨ててあったキャミソールを着て、クローゼットへ向かう。
手にしたのは、ライトブルーのワンピースドレス。
白くはないけど、愛ちゃんが着ていたみたいな、清楚な雰囲気のヤツだ。
あたしはそれをしばらく見つめて、乱暴に床に投げ捨てた。
*
取りあえず愛ちゃんについて、あたしが掴んでいる情報。
本名、椎名愛。ジャズピアニスト。
15歳か16歳、多分高校一年生。
多分というのは、現在消息不明だからだ。
お母さんは2年前に亡くなってしまい、そっち経由の情報は、まったく途切れてしまっている。
嘗ての所属事務所、画像にあったライブハウスにメールを送ったが、愛ちゃんの消息は分からないと返事をもらった。
ピアノトリノのメンバーだった人にもメールしてみた。
ドラムの人からは丁重な返事をもらい、やはり分からないとの事。
ベースの人は長野県でジャズ喫茶をやっていて、その掲示板にメッセージを入れたのだが、知らないと返信が来た。
その後程なくして、プライベートに関する事なのでという理由で、あたしのメッセージは削除された。
こうしてたったひとつのルートを残して、あたしの探索は暗礁に乗り上げた。
愛ちゃんの演奏がアップされている無料動画サイトであるが、メッセージ機能が付いている事は、ドーセツには話してない。
残されたルートとは、このメッセージ欄に書き込む事であったが、これまでここに手を出さなかったのには、理由がある。
まずこのサイトのコメント欄は完全オープンなので、個人情報は絶対に載せられない。
実家の民宿の名前を使って書き込むのは可能だが、宣伝と受け取られたらやはりNGだろう。
実家や他人を巻き込むのはやはり抵抗があったし、そもそも愛ちゃんがここを見てくれなければ、ただの空振りである。
しかし他の道が閉ざされた今、ここ以外に頼る術はない。
――愛ちゃんがここを、見てくれていますように。
あたしは、祈るような気持ちでメッセージを書き込んだ。
文面は既に、考えてあった。
“アランより
シーナさま リトさま アーレンさま
先日の旅行では大変お世話になり
楽しい時を過ごさせていただきました。
またお逢いする日を楽しみにしております
岬の宿 民宿たちばな
串馬観光協会(HPアドレス)”
書き込みが終わったと同時に玄関で音がして、ドーセツの低い声が響いた。
「ただいまぁ――なんね、電気も点けんで」
いつの間にか日が暮れていたらしい。
案の定ドーセツは、今日もボロボロになって帰って来た。
「お帰りぃ。さ、ドーセツ、横になって。マッサージすっから」
わざと元気な声であたしはスカートを脱ぎ、仁王立ちになって、お気に入りのパンツをドーセツに見せ付ける。
色仕掛けと軽蔑するなら、すれば良い。
ドーセツの気持ちを繋ぎ止めるためなら、あたしはなんだってやる。
「なあ亜蘭。いつも思っとるが、マッサージすっ時、いちいちパンいちになる必要あっとか?」
「あっとよ。ドーセツ汗臭いんだもん、服に臭い付くの、嫌やから」
嘘だよ。ドーセツのニオイ、いくらでもあたしに付けて欲しい。
あたしは鼻歌混じりでドーセツに跨がり、パンパンになった両脚を指で押し始めた。
これでアランside終了。
なかなか野球まで辿り着きませんね(汗
次話から再びシーナsideです。




