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20. シーナを捜して



 八月、お盆。

 三日間の休みを利用して道雪と亜蘭は、都井の実家に戻って来ていた。

 と言っても橘ん家は民宿を営んでいるので、盆正月は平常営業というか、客が居る。

 毎年のように民宿を利用してくれる初老の夫婦は、綺麗になった亜蘭に眼を細め、そして歩けるようになった道雪には、涙を流して喜んでくれた。

 有難い話である。


 道雪は都井での三日間を、ほぼランニングと、それから素振りに費やした。

 守備走塁の練習はまだであるが、バットが振れるまでには下半身が回復してきたのである。

 

 やっと練習の大部分に参加出来るようになった道雪であるが、結果は散々だった。

 10年間勇者をやってきた道雪にとって、エースの投げるボールは遅過ぎ、そしてバットは軽過ぎた。

 つまり今まで野球をしていた感覚と、まるで違っていたのである。


 スイングスピードの速さには誰もが驚嘆したが、バッティング練習では空振りの連続だった。

 久しぶりにバットを持ったのだし、中学の軟球とは違うのだから、道雪だったらすぐに慣れると、みんな慰めてくれたが、実際の問題は少し違う処にあると、道雪はすぐに気付いた。


 すなわち現在の道雪の感覚としては、スローボールを、しっかりしたフォームで鋭く振り抜く。

 ミートの技術を付ける必要があるし、しかもボールを遠く飛ばすためには、ボールの少し下を、今までやった事のないアッパースイングで叩かなければならない。

 そんなわけで道雪は、新しいバッティングフォームを固めるために、まだ頼りなく感じる足腰と相談しつつ、来る日も来る日も素振りを続けていた。




「ドーセツぅ、また右肩が下がっとるよ」

「おう」

 亜蘭には実家の手伝いの傍ら、バッティングフォームを見てもらっている。

 現時点では、素振りが百を越える辺りから、スイング時に右肩が下がる悪癖が道雪には生じていて、こっから下に肩が下がったら教えてくれと、亜蘭に頼んであるのだ。


「今度は壁が作れてなーい」

「おう、サンキュ」

 ――まったく亜蘭のヤツ、眼が良かねっ。

 野球経験者でもないくせに、チェックが想像以上に的確である事に、道雪は少々驚いていた。

 しかしそのお蔭で、ずいぶんと助けられている。


 なにしろ亜蘭をひとりにしておくと、観光客とサーファーの多いこの地区では、道を歩いているだけで一時間に一度はナンパされるのだ。

 特に昨日、例のビキニで漁港公園に来た時は、ほんとうにひどかった。

 道雪が隣に居るのに、数分おきに『家聞かな名()らさね』のノリで声が掛かってきた。


 ナンパに応じる応じないは亜蘭の勝手ではあるが、実家に戻った手前、亜蘭を護る義務があるようにも感じ、道雪の目の届く処に居てもらうようにした。




「ドーセツ、そろそろ晩飯やかいよぉ」

「おう。じゃあ後10回振って終わりにすっが」

「手のひら血だらけにして、ようやるわぁ」


 道雪の素振りは何時間も続くので、バッティンググローブをしていても両掌はマメだらけで、破けた処から血が滲んでいる。

「最後の――ひと振りっ」

 ブンッッ。

「どうね? 今の」

「また右肩が下がったぁ。やり直しー」

「きびしかねっ」


 しかしこのスイングさえ固まれば、レギュラーは無理でも、代打の切り札として使ってもらえるかも知れない。

 道雪は再び右打席に立って、マウンドの向こうのエースをイメージしながら、バットを一閃させた。




 お盆休みも終わり、明日は福島の自宅に帰る日の夜、間もなく寝ようとする時間に、亜蘭が道雪の部屋を訪れた。

「ドーセツ、起きとるけ」

「亜蘭なんね、その恰好は。都井ではきちんとせい、言うたろ」

「だって暑いんだもーん」

 臍出しキャミにパンいちの亜蘭を咎める道雪だが、亜蘭は聞き入れる様子もなく、道雪が敷いた布団にデーンとうつ伏せに寝転がってしまう。


「こっち来んね、ドーセツ」

 両肘を着いて上体を起こし、スマホ片手に手招きする亜蘭。

 変な意味で誘っているわけではなさそうなので、道雪も黙って亜蘭と肩を並べて寝そべった。

 風呂上がりの良い匂いがする。




「シーナってさ、美人で、ピアノ上手いってドーセツ言っとったがね」

「じゃっど」

「じゃあ、こいはどんげかね」


 スマホで『シーナ ピアノ』と検索した結果が、ずらずらーっと並んでいる。

「ないごて、こげんたくさんあると」

「シーナっていう、プロのピアニストが居たとね。で、ドーセツに見て欲しい動画が、あるとよ」

 そう言って亜蘭は『シーナピアノトリオfeat.愛』と題された無料動画のページを開いた。




 東京の少し大きめなライブハイス。

 グランドピアノに座った女性が大写しになっている。

「こいがシーナ……? おばさんじゃなかがね」

「まあ、黙って聴きねや」

 母シーナがしっとりと、しかし力強く、メロディ提示のピアノを弾き始めた。


 音楽に疎い道雪も知っている曲だった。

「あ……こい、パラリンピックの閉会式で、歌ってたヤツやっが」

「うん」

 曲名は『What a wonderful world』。

 車椅子の男性歌手と、視覚障害の少女が歌っていたのを、道雪はテレビで観た記憶がある。


 メロディとリズムの展開が終わり、母シーナのピアノソロ、継いでベース、ドラムソロへと曲は動いていく。

 ドラムソロが終わりに近付いた時、場内に軽い拍手が起こり、母シーナに替わって、お揃いの白いワンピースを着た少女が、ピアノに座った。


「これが、愛ちゃん。3年前で12歳の中一やから、あたしたちと同い年」

「おお……」

 亜蘭の説明に、道雪がゴクリと喉を鳴らしたのが、分かった。




 ドラムのソロが終わり、拍手が鳴り止まぬうちに、愛のソロが始まった。

 静かな立ち上がり、始めはノーマルで端正な演奏。

 しかしそれはワンフレーズだけで、すぐに激しい左手の連打とともに、右手のメロディはテクニカルに細かいリズムで刻まれていく。

 幼い彼女なりの『素晴らしき世界』を表現しようとしている、その意気込みが、明らかに感じ取られた。


 母シーナとは似て異なる、愛だけの音がライブハウス内に響く。

 細く折れそうな身体を折り曲げ、全身を使ってピアノを弾く愛を、母シーナは傍らに立って、優しく微笑みながら見つめていた。


「3年前でこいやから、こん子今頃、てげ美人になっとるよ、きっと」

 亜蘭の呟きも耳に入らないのか、道雪は瞬きもせず、食い入るように画像を見つめていた。

 互いに頬がくっ付きそうなほどに顔が接近しているのも、気付かない風だった。




 激流と言っても良いほどだった愛のソロが終わり、大きな拍手とともにトリオ演奏が再開される。

 愛の激しいソロに触発されたのかそうでないのか、ベースとドラムも母シーナの時とは違って、激しくぶつかり合うようなプレーをしている。

 やや危なっかしいとも思えるような、スリリングなインプロヴィゼーションの応酬だった。


 この演奏は、終盤に母シーナが並んで座り、連弾の形になると、さらに曲が変容した。

 阿吽の呼吸で響いてくる、安定感のある低音パートが、トリオの演奏をがっしりと支えていった。

 さすが、歴戦のプロと言えるプレーである。


 母シーナの導きに促されて、愛の両指は踊るように鍵盤を駆け巡った。

 もはや楽譜とは遠く離れた即興である筈なのに、それを感じさせない、母娘の会話のような自然さがあった。

 舞台の真ん中で飛び回る小鳥と、それを見守る大木、可憐なプリマが踊り狂う微笑ましいパ・ド・ドゥ。

 見つめ合いながら並んでピアノを弾く母娘の、その顔は幸せと歓びに満ち溢れていた。




 そんな熱狂のステージの締めは、綺麗なユニゾンだった。

 ぴったり息の合ったふたりのピアノ、そしてベースの連打に、派手なドラムロールが華を添える。


 突然音が已み、静寂の中を、ゆっくりと母シーナが最後の一節を奏でた。

 “What a wonderful world” 豊かな低温の響きだ。


 少し遅れて、娘の愛が囀るように唄う。“What a wonderful world”


 そして最後に、ベースがユーモラスなピチカートで、別れを惜しんだ。

 “What a wonderful world”




「――こん娘の方の、愛って子がシーナじゃなかかと、あたし思っとよね。そいにしても、12歳でピアノ、てげ上手かよねえ……なん? ドーセツ泣いちょっと?」

 見ると道雪が、鼻汁をだあだあ垂らした途轍もなくみっともない顔で、おんおん号泣していた。


「おーん、おーん」

「泣いとったら分からん、この子がシーナけ?」

 亜蘭が少し起き上がって、道雪の顔を覗き込んだ、その時だった。


 道雪の太い腕がにゅっと伸びてきて、亜蘭を押し倒してきた。

「きゃっ」

 いきなりの強い力に亜蘭は為す術もなくひっくり返され、道雪の身体の下に組み敷かれてしまった。


「ドーセツ、ないすっとドーセツっ」

 道雪の下からぽかぽか背中を叩くが、肩を震わせて泣いてばかりで、ビクともしない。

 亜蘭は突然、自分がほとんど裸に近い恰好で居たのを思い出して、顔がかあっと熱くなった。

 短いキャミソールはかなりの高さまで捲れ上がっているし、道雪の大柄な身体が邪魔で、大きく開いてしまった股を閉じられない。

 ――あたし、アレする時みたいな恰好、しとるんじゃないけ。

 道雪の手が亜蘭のパンツに伸びて、最後の一枚をひん剥かれる想像までしてしまった。


 しかし道雪は感情を爆発させては居るが、そんな事は絶対しない。

 ――ドーセツって、まっこち重かとねえ。

 亜蘭は苦笑いしながら、辛うじて自由になっている両手で、道雪の背中を撫でて落ち着かせた。




「10年……あん10年は、嬉しか事、楽しか事ばかりじゃなか……辛か事、哀しか事も多かった……」

 やがて亜蘭の耳元で道雪が、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

「俺の目の前で人が、たくさんけしんだ(死んだ)……生き残ったのは俺たち4人だけ、ちゅー闘いもあった……先が見えん、あけんひ(翌日)けしんかも知れん、そげん旅やった……」

 亜蘭は無言のまま、道雪の背中を撫で続けている。 


「――シーナの弾くピアノはまっぽし、俺たちの救い、慰め、楽しみやった……俺だけじゃなか、あけんひ戦う新米兵士、結婚してすぐ未亡人になった娘、親を失った孤児、みんなシーナのピアノに癒やされ、涙を流し、生きていこうと決心した……」

 道雪が異世界の事をこれだけ、しかも自ら話してくれるのは、これが初めてだった。

 『大切な思い出』と言いながら、これまで訊かれた分しか話さなかったのを亜蘭は疑問に感じていたが、これで理由がはっきりした。


 道雪は異世界で、戦争をしてきたのだ。


 先日『道雪は変わった、大人になった』と女友達に言われたが、今なら亜蘭にも分かる。

 経験した哀しみの分だけ、道雪は愛情が深くなったのだ、と思う。




「間違いなか、こいはシーナのピアノ。音楽はひとっちょん知らんが、シーナのピアノだけは俺の心に沁み付いちょる……こん子が、シーナやっど。亜蘭、ありがと、ありがとなあ。良う見つけてくれた……」

「ドーセツ……」

 亜蘭を抱きしめる力が強くなったが、痛みはなく、むしろ気持ち良い。

 道雪の重みと温かさだけが強く感じられ、亜蘭は身体のすべてでそれを受け止めながら、しばらくふたりで抱きしめ合っていた。


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