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2. シーナ『故郷』に還る



 ここは、長野県佐久にある病院のナースステーション。

 夕方になって、そこを訪れる少年の姿があった。

「あら、けいくん。毎日ご苦労様です」

 すっかり顔見知りになった看護師が、にこやかに声を掛ける。


 本来なら面会時間をとうに過ぎている時刻だが、高校の授業を終えて隣市の古諸こもろから毎日見舞いにやって来る兄に、病院のスタッフは寛容であった。

「いつもありがとうございます。あいの――妹の具合は、どうですか?」

「熱もないし、呼吸脈拍正常。今日も特に、問題ないわね」

「あのぉ、で、意識は……」

「それも同じ。後は目が覚めるのを待つだけ、なんだけどね」

「そう、ですか……」

 敬は明らかに落胆した様子で、頭を垂らした。




 四月生まれの染矢(そめや)敬と三月生まれの愛は、兄妹であるが同学年で、県立古諸高校の一年生。

 ふたりとも地元の人間ではなく、二年前までは東京の裕福な家庭で育った。

 『不幸な事件』で両親を失い、紆余曲折を経て、従兄の浩輔こうすけさんが兄妹を引き取ってくれた。

 名字も椎名(しいな)から染矢に変わり、現在は浩輔さんが住職をしている祥倫しょうりん寺で、息を殺すように暮らしている。


 ところが高校に入学したばかりの一カ月前、たったひとりきりの肉親、愛が暴走トラックに轢かれて、昏睡状態になってしまった。

 それ以来、敬は野球部に退部届を出し、学校が終わってから隣市の病院まで、愛を見舞う毎日だった。


 とっくの昔に一般病室に移った愛は、事故の前と変わらない可愛らしい顔をして、今日もベットの上で眠っている。

 目撃者の話では、相当派手な事故だったそうだが、愛の身体は傷ひとつなく健康体で、ただ意識だけが戻らない。

 さらに奇妙な話であるが、一カ月間寝たきりで、栄養は左鎖骨からの点滴だけなのに、一向に痩せる様子もなく肌もつやつやとしていて、主治医の先生も頭をひねっていた。




 奇妙といえば、愛をこのような状態にした事故も、相当奇妙なものであった。

 事故の直前、何かに引き寄せられたかのように突然、愛がふらふらと車道の真ん中に歩いて行ったかと思うと、次の瞬間にはトラックが愛を撥ね飛ばした。

 そのまま走り去っていったトラックは正体不明で、目撃者が多かったにも関わらず、未だに手掛かりすら掴めていないそうだ。


 二年前、ふたつの訃報が敬と愛の兄妹にほぼ同時に訪れ、ふたりの人生は激変した。

 俺に何かあったらこれを浩輔に渡してくれ、と敬にアタッシュケースを託し、翌日変死体で発見された、大企業勤めだった父。

 日を置かずして海外の演奏旅行中、麻薬中毒の暴漢に襲われ命を落とした、ジャズピアニストの母。

 それと同じような陰謀めいた後ろ暗さを、愛の事故にも感じてしまう。


「愛……僕に出来る事は、何もないのかよぉ……」

 眠っている愛の顔を見つめながら、敬はベッド脇に腰掛け、愛の右手をさすり続ける。

 ――生きている状態なのだから当たり前だが、その手は温かく、細いがしなやかで強靭であった。

 古諸高校は県内唯一の音楽科を持つ県立高校で、愛の弾くジャズピアノは亡母の血を受け継ぎ、畑違いながら音楽科の誰にも引けを取らないと評判だった。


 兄の敬は、身長165㎝。

 野球選手としては小柄であるが、左腕から投げるカーブは良くコントロールされていて、ピッチャーとして周囲からの評価は悪くなかった。

 愛の事故で退部届を提出した敬だったが、事情を知った監督は敬を励まし、休部扱いに留めてくれた。




「愛、お願いだから目を覚ましてくれ……」

 手を撫で付ける敬の両肩が小刻みに震え、やがて両眼から涙が零れてきた。

 その涙が頬を伝い、顎の縁から涙の粒が、愛の右手の上にぽとりと落ちた。


 その時まさに、シーナの魂が病室にやって来た。

 ――これが私……

 ベッドの上で眠ったままの自分の顔を見下ろしている。

 髪は銀髪ではなく真っ黒だし、顔立ちはいささか地味ではあるが、整っている。

 ――うん、私ほど美人じゃないけど、そこそこ可愛いわね。

 自分の事をそんな風に考えるのは初めてなので、シーナの魂はくすくす笑った。


 ――あ、お兄ちゃん……泣いてるの?

 眠っている愛の手を取って涙を流す敬を、シーナの魂はまじまじと眺める。

 ――お願い、お兄ちゃん、泣かないで。私はここに居るから。

 頬を伝う涙を拭いてあげようとするが、魂の存在では上手く行かない。


 ――涙、落ちる。

 愛の手の甲に落ちた涙を見届けようと、前屈みになった瞬間、シーナの魂は愛の身体の中に吸い込まれていった。




 ――さよなら、シーナ。ただいま……なのかな、愛。




 敬の涙が愛の手に触れた瞬間、手の甲がぼおっと光を帯び始めた。

「え……何だ、これ……」

 予想外の出来事に敬が呆然としていると、気付けば愛の身体全体が、眩しい光彩を放っていた。


「うわっ」

 あまりの眩しさにいったん閉じた目を、敬がおそるおそる、再び開けると――


「お兄ちゃん……」

 愛が微笑みながら、敬を見つめていた。




「あ、い……」

 敬はそれ以上、言葉が出て来なかった。

 何か言おうとするが、その度に嗚咽が口を突いてしまい、言葉にならない。

 両眼からはぼろぼろと、涙がいくらでも溢れ出してしまう。


 ――ああ、お兄ちゃん、もっと泣いちゃった。

 敬を見つめた愛は、その向こうに敬の嘘偽りない愛情を感じ取り、それだけでも還ってきて良かった、と思った。

 ……いや、感じ取っただけじゃない。

 敬の魂の色――と言ったら語弊があるが、敬が何を思っているのか、ダイレクトにそれが分かってしまった。


 ――あれれっ、聖女の力って、現し世でも残ってるんだ。

 聖女だったシーナは、他人の感情をある程度読み取る事が出来たので、初対面の相手とも良好なコミュニケーションが取れたのだった。

 ――退院したら、魔法も使えるかどうか、試してみよう。

 退魔の魔法はさすがに必要ないだろうが、攻撃力防御力増強に治癒魔法、祝福の魔法などは、きっと現し世でも有用に違いない。




「お兄ちゃん、ただいま。長い間心配かけて、ごめんね」

 敬がようやく泣きやむのを待って、愛が声を掛ける。

 それを聴いた敬は再び泣きそうになったが、さすがに堪えた。

「愛、お帰り……具合はどうだい? 気分悪いとか、どっか痛いとこはないかい?」


 敬に訊かれるまでもなく、愛の身体はぴんぴんしている。

 身体の隅々までマナが充填されていたのが、愛には感じ取られた。

 どうやら10年の長きに渡って――現し世の時間では一ヵ月だが――女神は愛のメンテを滞りなく行ってくれていたようである。


「特に何ともない、かな。長い夢から覚めたような、気分」

 何しろ10年分である。

 しかしこうして聖女の力が残っているのだから、聖女シーナ、そしてアランたちとの魔王討伐の旅はけして夢ではなく、リアルだという事も分かっていた。


 ――向こうの世界で10年生きたから、お兄ちゃんは9歳年下になるのかな。

 その事実がおかしくて笑みが少しこぼれると、敬もまた笑いながら、眼に溜まった涙をごしごし拭いた。




「愛。何か欲しいものはないか? して欲しい事とか」

 敬の問い掛けが、水が飲みたいとか起こしてとか、そういう反応を期待していたのは、愛には分かっている。

 だが愛の応えは、ただひとつだった。


「お兄ちゃん。私、甲子園行きたい」




「……へっ?」

 予想外の応えに、敬の目が点になる。

「甲子園、って――あの、甲子園球場のこと?」

「うん、甲子園球場」

 何故ならそこに、愛するアランが待っているのだから。


 敬が何やら、目を泳がせている。

 愛の応えの内容を理解するのに、考えを巡らせていたのだった。


「分かった――大阪レパーズのチケット、兄ちゃんが何とかして手に入れてみるから」

「ううん、違うの」

「違うって、何がさ」


「高校野球で、甲子園に出たいの」


「分かった。兄ちゃんが連れてってやる……」

 そういう敬の瞳から色が失われていくのを、愛は分かってしまった。

 甲子園には行きたいが、行けるとも思っていない。

 そんな感情の変化さえ分かってしまう聖女の力を、愛もこの時ばかりは疎ましく感じた。




 古諸高校野球部は東信州地区では中堅校で、弱くはないが強豪ではない。

 地区では佐久や上田、県レベルでは長野や松本の名門校に後れを取っているのが実情だった。

 甲子園出場経験も未だ嘗てなかった。


 敬自身も周囲から注目されるような選手ではなく、言ってみれば県立高校にどこにでも居る高校一年の野球部員、しかも入学早々休部中。

 『甲子園に連れて行く』と軽々しく言えるような立場ではなかった。

 ――お兄ちゃん、そんな嘘つかせて、ごめんね。

 愛は心の中で詫びた。


「違うの。私が甲子園のグラウンドに立ちたいの、出来れば選手として」

 アランはフクシマ高校の野球部で甲子園に行く、と言っていた。

 それならばシーナ――愛も甲子園に出場して、グラウンドでアランに再会する。

 それがいちばん確実な方法だ、愛はそう思った。


「ちょっと待った。愛、自分が今、何言ってるか分かってんの?」

「うん。私も野球部に入るから、お兄ちゃん、一緒に甲子園、行こ」


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