18. 久しぶりの高校、そして野球部復帰
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宮崎県立普久島高校。
串馬市内唯一の高校であり、生徒数は600人弱。
レスリング部は県トップクラスの強豪校で、強化推進の指定も受けている。
実はこの高校、甲子園の出場経験がある。
今から40年以上前、串馬の名誉市民にもなった仁志村選手を擁し、夏の県大会を制した。
仁志村さんはその後、プロ野球の川崎ヘラクレス(現・千葉シーガルズ)で長らく1番打者として活躍し、シーガルズの監督にもなって、日本シリーズ優勝も果たした。
現在の野球部は少子化と過疎のあおりで部員数も20人前後と少なくなり、2年前の夏にベスト8まで勝ち進んだのが話題に上った程度だった。
「さあ、行っど甲子園っ」
「はいはい、そげん事は杖なしで歩けるようになってから、言いねや」
元気な声とは裏腹に、両手でよちよちと杖を突きながら、亜蘭に左腕を支えてもらい、やっとかっとで登校する道雪である。
1年半の車椅子生活は、やはり道雪の身体、特に下半身に深い影響を及ぼしていた。腰から下の筋肉は萎縮して上半身を支えきれず、足の裏も長く歩くとズキズキ痛む。
それでも道雪にとって、また歩ける事の喜びは大きかった。
「いやぁー、あゆんかたは楽しかねっ」
「はいはい痩せ我慢、痩せ我慢」
自宅から学校までの徒歩10分、すっかりふらふらになっている道雪の身体を、亜蘭はしっかりと支えている。
弱音のひとつ吐かず休憩も固辞し、脂汗をかきながらも、道雪は一ヵ月ぶりの普久高に到着した。
久しぶりの教室、用意された席に座って早々、道雪はクラスメイトたちに取り囲まれた。
「おはよ、ドーセツ」
「さひかぶいじゃあ」
「歩けるようになったとねえ、おめでと」
一時的な人気者になった道雪を、一歩下がった処から見ている亜蘭は、少し面白くなさそうな顔をしている。
そんな亜蘭の肩に後ろからぽん、と置かれた手があった。
「なんね――あ、宙太か、おはよ」
チュウと呼ばれた図体の大きな男子は、野球部の一年でただひとり、ショートのレギュラーポジションを獲得した、酒井宙太。
野球部三年の兄貴が翔太で、弟が宙太、ショウとチュウで、あわせて『焼酎』。
苗字通りに無類の酒好きである酒井父が名付けた、と噂されている。
「ドーセツ帰ってきたと、亜蘭」
「うん」
そんなもん見れば分かるだろうに、わざわざ訊いてくる。
「――良かったなあ」
「うん、ほんと良かった」
可愛らしく微笑む亜蘭に、ポッと頬を染めた宙太は、座っている道雪の処まで、つかつかと歩み寄っていった。
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「ドーセツっ」
「おう、チュウか。さひかぶい――ぐえっ」
道雪が車に轢かれた蛙のような声を出したのは、宙太が道雪の脳天にドゴン、と拳固を振り下ろしたからだった。
「ないすっか、チュウーっ」
すかさず右フックを繰り出す道雪。
そして何故か、拳を受け止めるように顔を動かし、左頬にめり込ませる宙太。
よほど痛かったのだろう、少し涙目になっている。
「勝手に行方不明になりよっせ、亜蘭を哀しませちょんな」
宙太がそう言って、またもボディブローを道雪にかます。
身動きの出来ない道雪は、それをモロに食らうしかない。
「ぐおっ。行方不明は、俺のせいじゃなかっ」
道雪の左がレバーを的確に捉え、宙太の身体が折れ曲がった。
「ぐはっ。ちんがら抜かしちょんな」
宙太の右ストレートが道雪の顎をひん曲げ、続いて道雪のアッパーが炸裂――と、パンチの応酬は延々と続いた。
「うわあ……朝っぱらから、また始まった……」
「くらさんと会話も出来ん特殊な種族じゃから、仕方なか」
クラスメイトたちは止める様子もなく、呆れ気味にふたりの殴り合いを見ていた。
道雪と宙太は福島中学野球部のチームメイトで、中二の夏にはふたりともレギュラーどころか、チームの中心選手になっていた。
宙太が3番ショート、道雪が4番サード。
ふたりの活躍で、福中は県大会のベスト4まで行き、来年は優勝も夢ではないと言われた――道雪が事故に遭って、下半身不随になるまでは。
車椅子になった道雪を、亜蘭に次いで面倒をみていたのも宙太だったし、普久高野球部にマネージャーとして入部出来るよう、あちこちに頼み込んだのも宙太だった。
道雪が行方不明だった時に、捜索の船を出すと言って聞かない亜蘭を、船に乗れるよう口利きしたのも、宙太経由だった。
つまり道雪と宙太は無二の親友と言って良い間柄で、そんなふたりが再会早々、どうして本気の殴り合いをしているのか、誰にも理解出来なかった。
「亜蘭、いい加減止めてくれん?」
どこからともなく声が掛かる。
仲が良い『ので』大喧嘩する、この救いようのないあんぽんたんどもを、止められるのは亜蘭しか居なかった。
「はいはーい、まっこちよだきぃねえ……」
亜蘭は心底面倒臭そうに、鼻血を出してもパンチを止めない馬鹿どもの元へ、ぷらぷらーっと寄って行った。
「ドーセツこん馬鹿がっ、ほらチュウも、やめんねっ」
そう言って亜蘭は宙太の背後に回り込み、左の太腿を宙太の股ぐらに、グイッと挿し込む。
「うほほほーっ」
股間に女子の柔らかいモノを感じ、動きが止まった宙太の脇が甘くなった処を、背中にぴとっとくっ付き、後ろから羽交い締めにした。
普通に考えれば屈強な男子の乱暴を、女子である亜蘭が抑えられる筈もないのだが、こうするときっちり止まってくれるのだから不思議である。
で、ここからがちょっとひと仕事。
宙太の腰のちょっと上に両腕を回してぎゅっと掴み、すっかり固まってしまった宙太の身体を持ち上げて、道雪から引き離す。
「よっこいせ、っと」
この時、股ぐらに挟んだ太腿も同時にグイッと上げなければ、重たい宙太は移動してくれない。
はい、これでいっちょ上がり。
「さすがは亜蘭」
「名人芸やっど」
周囲から声が飛んでくる。
なお一連の動作でスカートが盛大に捲れ、健康的な太腿が露わになっていたが、それについては誰も何も言わない。
「ないしちょっとね、チュウ」
「じゃっどん、はあ、ドーセツが……」
「先に手ぇ出したんは、あ・ん・た。あたしは、見とった」
おでこをくっ付けんばかりにして、宙太に詰め寄る亜蘭。
「ああ、じゃっど、悪かったな……」
宙太はしばらく、顔を真っ赤にしながら亜蘭を見つめていたが、やがて汗だらだらになって視線を逸らした。
傍から見ても宙太が亜蘭に惚れているのはバレバレだったし、それは亜蘭に原因がある事も、周囲の誰もが知っていた。
中三のバレンタインデー、『あんたは特別だから』のひと言とともに、亜蘭が宙太にド本命っぽい手作りチョコを贈った辺りから、宙太の態度がおかしくなった。
亜蘭にとっては、日頃から道雪の面倒を一緒に看てくれるお礼の意味で『特別』だったようだが、憎からず思っていた女子からこんな事をされたら、誤解するなと言われても無理な話だ。
可愛い顔をしていてスタイルの良い亜蘭には、宙太だけでなく男子の隠れファンがかなり多い。
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選手として復帰宣言した道雪を、泊里監督を始め野球部のみんなは温かく受け入れ、応援もしてくれたが、当然のように練習は参加させてもらえなかった。
プレーするどころか歩くのもやっとなのだから、まずはしっかり杖なしで歩くリハビリと、下半身強化の筋トレである。
というわけで、ベンチ前で簡単な挨拶をして、監督やみんなから激励の言葉を受け、『まっっこち、よかったがねえ』と涙ぐむ者まで居たが、円陣の掛け声を出した直後には、みんなグラウンドに散って何事もなかったかのように練習を始め、道雪は早々にグラウンドを追い出された。
見事なオンオフの切り替えである。
「なんね、みんな意外に冷たかね」
少し憤慨しながら亜蘭が出迎えてくれた。
「うんにゃ。みんな喜んでくれたど」
あと一ヵ月もすれば三年最後の、夏の甲子園県大会。
本番前の大事な時期に加え、学校の都合で練習時間は二時間しかないので、野球部的には当然の対応であった。
取りあえず今日の道雪がやるべき事は、いつもの病院通い。
『もう来んで良か』と言われるまで、歩行リハビリをほぼ毎日行う。
立位保持は既に出来ているので、最近は平行棒になるべく掴まらず歩く、歩行訓練が主体だった。
リハビリが終わったら再び学校に戻って、下半身の筋トレをする、筈だったのだが――
「あれえ、ドーセツくん。ずいぶんふらついとるよぉー。久かぶいの学校で、疲れたかなあ」
少し歩いては平行棒に掴まる道雪に、リハビリの先生が声を掛けた。
「いえっ、そんな事はっ、なかです」
脂汗をかいてふうふう言いながら強がりを吐いても、まったく説得力はない。
結局リハビリ後の筋トレは中止となり、そのまま帰宅となってしまった。
「うー、筋トレー、筋トレぇー」
「筋トレは明日やれば良かでしょ、学校であんだけ歩けば筋トレに充分なっとるって、センセも言っちょった」
半べそをかきながらとぼとぼ杖を突く道雪を支えながら、亜蘭が慰める。
自宅に帰って靴下を脱いでみたら、道雪の足裏はマメだらけだった。
ところどころでマメが潰れて、ひどい事になっている。
「あー。今日も一緒に風呂に入らな、ならんねえ。足洗ったら薬塗って、包帯ぐるぐるにしよ」
足裏を見ながら、亜蘭がニヤニヤしている。
「だからそげんこつ、俺ひとりで出来るっち」
「まあ、そんげ言わんの。背中流しっこ、しよね」
亜蘭は優しく微笑み、難色を示す道雪をぎゅっと抱きしめた。




