15. 最悪にして最良の目覚め
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目覚めた時、俺は森の中に居た。
仔馬が一頭寄って来ていて、俺の顔をぺろぺろ舐めていたので、ここはまだ異世界なのかな、と一瞬思ってしまった。
下生えの草は露に濡れていて、俺の身体をじっとりと濡らしているし、そこに長々と横たわっていたらしく、あちこちが半端なく痛い。
しかも、目と鼻の先には馬糞がゴロゴロ転がっていて、臭過ぎて思わず吐きそうになった。
はっきり言って、最悪の目覚めだ。
異世界の森かと思った俺は、すぐにその間違いに気付いた。
いつの間にか俺を取り囲んでいた馬たちの体格は小柄でずんぐりむっくり、人を乗せるには少し厳しい。
さらには周囲の緑の、南国特有の濃さ。
そして自生しているソテツの木を見るに至って、ここがどこか、俺は確信した。
俺の故郷。
宮崎県串馬市、ここは野生馬の棲む都井岬。
宮崎の南端、そのまたいちばん南の、岬の近くで俺は暮らしていた。
現し世には戻って来たばかりで、時間の感覚がまだ掴めてないが、女神の言った通りであれば、一ヵ月前の事。
久しぶりに岬までやって来た俺は、岬の尖端部近く、断崖絶壁のちょっぺんから太平洋を眺めていた。
そして岬の丘から海に向かって吹いてきた突風に、俺は身体ごと海に投げ出され、そのまま異世界へ転生された――というのが、たった今甦った俺の記憶だ。
きっと現し世では、俺は一ヵ月もの間、行方不明になってたに違いない。
取りあえずここは野生馬しか居ない無人地帯。
助けを呼ぶにしても、ここから人の居る場所――少なくとも牧草地まで移動する必要がある。
「どんだけ這って行きゃ、良かとかねぇ……」
独り言を呟きながら、寝返りを打とうとした、その時だった。
「マジかよ――」
俺はとある事実に気付き、愕然とした。
「脚が、動いとる……」
今から1年半前、中二の秋。
激しい雷雨の日、倒木の下敷きになって、俺は腰から下の機能を失い、車椅子なしでは移動も出来ない身体になってしまった。
どんなに頑張ってリハビリしても、どれほど望んでも、ひとっちょん動かんかった俺の両脚。
見る影もなく痩せ細ってはいるが、それが普通に曲げ伸ばし出来ている。
足の指も動く。
太腿に手を伸ばし、つねってみる。
痛い。感覚も戻っている。
――こりゃいったい、どげんしたとかい。
現し世に戻る直前に言われた、女神の言葉を思い返してみる。
俺とシーナが異世界に行ってる間、魂の抜けた現し世の身体は、マナで充填させて健康な状態に保っておいた……と言ってた。
おそらくだが、俺の身体は一ヵ月もの間、この森の中で野晒しのままずっと横たわっていた。
それにしては身体のどこにも異常を感じないし、裸足である事を除けば着衣に乱れもない。
きっと体内のマナが俺の身体を護っていてくれていたのだろう。
そして――損傷していた俺の、脊髄の神経を、繋ぎ直してくれたんだ、と思う。
動く。
俺の脚、動いちょる。
夢でも、幻でもなかとよ。
これで――これでまた、野球が……諦めていた、野球が出来る。
そう思うと、自然と涙が零れてきた。
「女神さあーーん、ありがとう、ございましたぁーー!」
俺は泣きながら空に向かって、どこに居るか分からない女神に向かって叫んだ。
俺は立ち上がろうとして大きくバランスを崩し、馬糞混じりの泥に、頭から突っ伏してしまう。
「あいたぁ」
――くっせえ。そして調子ん乗り過ぎた。
1年半もの間、しとっちょん動かせんかった脚だから、すっかり萎えてしまって、体重を支える事が出来ない。
あー、まっこちやっせんなあ。
俺は意を決して、両腕と背筋の力を頼りに匍匐前進よろしく、森の向こうへ向かって這って行った。
ずり、ずりと泥の上を這い回る俺を、岬の馬たちが寄って来て見下ろしている。
きっと何をしているのかと、見物しているのだろう、そんな眼差しであった。
「おんまさーん、見晴らしの良かとこまで、乗せてってくれんかーい……ダメか」
馬たちは少し遠巻きにして、無言で俺を眺めているだけだった。
そうこうしているうちに、鼻先にぽつり、と冷たいものが落ちてきた。
――雨だ。
「うわぁ、のさーん」
ほとんど役に立たない下半身を必死に動かしながら、何とか少しでも速く移動しようとするが、気ばかり焦って思うように進まない。
そうこうしてるうちに雨脚はどんどん強くなり、やがて本降りになった。
ようやく森を抜け、牧草の生い茂る牧草の丘が広がる処までやって来た。
馬たちは雨にもほとんど動じず、やがて悠然と草を食み始める。
――こっから丘をひとつ、ふたつ……うんにゃ、いくつ越えんきゃならんのかな。
俺はずぶ濡れになりながらも、歯を食いしばって前へ、前へと、腕を交互に出して這って行った。
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その日あたしは、生まれ育った都井の岬に戻って、あいつが海へ落ちてしまった崖のちょっぺんに居た。
一ヵ月前、海が見たいと言ったあいつの車椅子を押して、ちょうどここから、海を一緒に眺めていた時だった。
ベンチに置いた飲み物を取りに行こうとして、あたしが少し離れたその時、突風が吹いて――次の瞬間、あいつの車椅子だけが残されていた。
岬のどこを探しても見つからず、三日後、恋ヶ浦にあいつの靴が流れ着き、海に落ちたのだろうとみんなは言った。
突風で身体だけがひっ飛んでいく筈がない、きっと自殺だろう、とも。
違う。
あいつが自殺なんかするわけない。
しかし状況は絶望的だった。
脊髄損傷で腰から下が動かないあいつが海に入ったらどうなるか、あたしでも容易に想像がつく。
物心ついた時からずっと一緒だった幼馴染の、あいつ。
過疎と高齢化で人口が最盛期の4割以下になった串馬の、さらに人口の極端に少ない都井地区では、小学時代の同窓生は4人。
それが中学では3人に減り、地元の高校に入ったのはふたりだけだった。
そしてとうとう、あたしひとり。
あいつの事を思うと、涙が止め処なく溢れ出てくる。
あたしの心を空に映したかのように、雲行きはずっと怪しかった。
そしてあたしが海を見ながらしくしく泣いてる間に雨がぽつり、ぽつりと降り始めた。
――帰ろう。
沈んだ気持ちのまま踵を返し、都井で民宿をやってる実家に戻ろうとした、その時だった。
「――え……」
遊歩道から外れた牧草地の、丘の向こう。
あいつの声が、聞こえてきた。
何だろう……ありがとう、と言ってるような……気のせいか。
うんにゃ、確かに聞こえた、あいつの声だ、あたしが間違える筈ない。
あたしは周りに人が居ないのを良い事に、ミニスカートの裾をパンツの中に押し込むと、声のした方向へ走って行った。
次第に雨は強くなり、やがて本降りになった。
あたしはそこかしこに転がっている馬糞を避けながら、ほぼ全力疾走で牧草地の丘を駆け上っていく。
あいつがここに居るような気がしたのは、これが初めてじゃない。
そうでなかったら、こんな遠い処まで何度も来たりはしない。
理由は分からなかったが、今日はあいつの気配を強く感じる。
時々ぬかるみに足を取られながらも、あたしは雨の中を走って行く。
草を食んでいた岬の馬たちが走るあたしに気付き、付き合うように少し並んで走り、やがてまた草を食むために戻っていった。
強い雨にびしょ濡れになろうが、スカートの裾がほどけようが、構わなかった。
あたしは走って、丘のちょっぺんから森の奥を見下ろした。
――人が、居る。
雨の中、腹這いになって腕の力だけで、ゆっくりと丘を登っている。
「ドーセツ……」
自分の声がくぐもって、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
間違いない、あたしの大切な――幼馴染。
高橋道雪、ドーセツだ。
「ドーセツ、ドーセツっ!!」
あたしは叫びながら、ほとんど転がるように丘を滑り降りた。
ゆっくりと這っていたドーセツの顔が次第に上がり、あたしと眼が合う。
懐かしい顔に、あたしの胸はいっぱいになった。
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時折くじけそうになりながらも丘を這い上っていた道雪は、自分の名前が確かに呼ばれたのを聞き、顔を上げた。
道雪の目に飛び込んできたのは、捲れ上がったスカートからほぼ丸見えになっている、女子のパンツだった。
白の花柄――いや、もっと上だ。
丘の上に立っていたのは、浅黒く日焼けした、ショートカットの少女。
道雪にとって10年ぶりの再会。
幼馴染の、橘亜蘭だった。
「ドーセツっ! ドーセツあんた、生きてたんだねっ!」
泣き叫びながら丘を滑り降りてくる亜蘭を見て、ああやっぱり俺は行方不明になっていたのだと、道雪は気付く。
「亜蘭、さひかぶいじゃ。こいからまた一緒に――うわっ」
ほとんど飛び掛かるようにして亜蘭が道雪に覆い被さると、道雪を仰向けにひっくり返し、腹の上に跨がる恰好で見下ろしてきた。
亜蘭の顔は、雨でずぶ濡れになっていてもそれと分かるくらい、涙でびしょびしょだった。
「ドーセツ、ドーセツぅ……あたし、あたし……」
これ以上は嗚咽で、まったく言葉にならない。
両肘を使って上体を起こそうとした道雪に、跨がったままの亜蘭がやがて、両方の拳で道雪の胸をドンドン叩き始めた。
「道雪の馬鹿ッ、バカッ……生きてるんならどうして、今まで連絡して来んかったとよ……あたしがどんだけ心配したか、どんだけ絶望したか……」
「ああ、悪かったなぁ。てげ元気そうで、安心したが」
「元気っち、ない言っちょっとよ、馬鹿ッ、バカッ……」
道雪の胸を叩いている亜蘭がだんだん俯き加減になり、ふたりの顔が近付いていく。
そしてまた道雪の胸をどん、と叩き、そこで亜蘭の両拳が止まった。
少しの間、そのままの体勢で固まっていた亜蘭だったが、やがて道雪の頭を抱きかかえるようにして、身体をそのまま預けてきた。
そうして亜蘭が道雪を押し倒し、ふたりはゆっくりと、牧草の上に再び横たわる。
「いっちゃが、いっちゃが。あんたが生きてた、それだけであたしは……」
降りしきる雨の中、道雪と亜蘭は身体を重ねたまま、しばらく抱きしめ合っていた。




