14. 野球選手になるために
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「有意義な試合見学だったんだね、愛。ベンチどころかブルペンまで入ったなんて、驚きだよ」
かなり遅くなって着いた古諸駅には、敬が部活を終えたその足で、愛を出迎えてくれた。
松本で新しいグラブにミット、キャッチャーマスク、スパイクなどなど、いろいろと買い込んで荷物はかさばっていたので、ほんとうに助かった。
志乃さんと別れ、これから祥倫寺には徒歩で帰る事になる。
駅から祥倫寺まで、直線距離では2kmちょっとだが、普通に歩けば一時間は優に掛かる。
これは古諸という山間の地形が大いに関係していた。
古諸は古諸城を中心に栄えた城下町、宿場町で、古諸駅は城の敷地内にある。
駅の北側に城の入り口だった大手門と宿場本陣があり、本丸二の丸があった城址公園は線路を挟んだ南側、連絡通路を渡れば公園入口の三の門が見えるという、駅チカ城跡だ。
古諸の市街地は城(駅)の北側に広がっているが、実は市街地の方が城よりも標高が高く、城に向かって下り坂になっている。
だから城下町から城を見下ろすという、他に類を見ない特殊な地形となっている。
さらに古諸城は、大手門からさらに緩やかな下り坂になり、続く二の丸、そして本丸の標高が最も低い、日本でも唯一の『穴城』と呼ばれる形態である。
敬にとっては山本勘助や仙石秀久など、戦国時代を彩った武将ゆかりの城として興味があったし、城跡内に併設されている県内最古の動物園は、両親を喪った愛の傷心を癒やした。
城の南側、つまり本丸の奥はさらに様相が異なり、深い谷と断崖絶壁が天然の防壁となっていて、道とも言えない山道をうねうねと下っていくと、古諸を横断する千曲川に辿り着く。
そして千曲川を渡った向こう側の、これまた急峻な崖の上に、祥倫寺はあるのだった。
駅から我が家へ普通に帰ろうとすると、城跡の東側をぐるっと迂回して急坂を下り、川を渡って寺へ続く急坂を上っていく大回りの順路を辿る。
道のりは直線距離の約2倍、アップダウンもかなり激しい。
浩輔さんに連絡して車で迎えてもらう手もあったが、敬は愛を真っ直ぐ見据えて言った。
「愛、走って帰ろう。これもトレーニングの一環だね」
「うん、いいけど――お兄ちゃん、疲れてない?」
「疲れてるよ。だから愛、僕にも体力回復の魔法を掛けてくれないか」
敬の言葉に、愛は少なからず動揺する。
「あ……気付いてたんだ……」
野球部の練習はかなりキツいものではあったが、今の愛でも何とか付いていける内容ではあった。
祥倫寺での2年間、毎朝拳法の稽古を続けてきた成果だろう、愛の身体はひょろひょろではあるが、ある程度の基礎体力が培われていた。
それでも体力作りのメニューの時に、少しずつ治癒で体力回復をしていたのは、シーナだった頃の経験上、それがいちばん効率よく身体を鍛えられると知っていたからだ。
その判断は間違ってなかったようで、入部してからわずか二週間でも、ある程度の成果は既に出ていた。
「――私が魔法使ってる事、他の人たちも知ってるの?」
「大丈夫だと思うよ。僕だって初めは分からなかったくらいだから」
「そう……あのねお兄ちゃん、私、魔法使ってるのは体力作りの時だけで、野球してる時は――」
「うん。僕も愛がズルする意味で魔法使ってるわけじゃないのは、分かってるつもりだよ。でもひとつ疑問があるんだけど、どうして自分にしか魔法使わないの? 愛がやってるみたいに体力回復出来たら、みんなの体力だってアップするし、傷んでるとこだって治ると思うんだよ」
「それには、理由があるの……」
愛はそう言って、敬の胸に掌を当てた。
(治癒)
愛が心の中で念じると、暗がりの中で愛の手から、蒼白い光がボウッと透けて見えた。
「――想像以上だった……すごく気持ち良いし、疲れが全然、取れちゃったよ」
驚く敬を尻目に、愛がわずかに眼を伏せる。
「ね? 私が魔法使うと、掌から光が出るの。今、お兄ちゃんの身体に直接当てて、なるべく緩やかに光が出ないよう魔法を掛けたけど、それでもこれが精いっぱい。これじゃ私が魔法使えるって、バレちゃうのよ……」
*
そこから敬と愛は、インターバル走さながらに全力疾走に近いペースで急坂を駆け下り、それから祥倫寺への急坂を駆け上った。
愛が少しずつふたりに掛けた治癒のお蔭で、ペースはまったく落ちず、わずか30分ほどで我が家に到着した。
「はあ……はあ……ラストは治癒掛けないの……これが、身体を鍛えるコツなの……」
「そっか……結構鍛えられた感があるね……これ毎日やると、きっと体力付くなあ……」
最後のダッシュだけでも、結構息が上がったふたりであった。
汗だくになって帰ってきた兄妹を迎えた浩輔さんと清司さんは『へえ、駅から走ってきたの。やるじゃないか』と、眉ひとつ動かさず言った。
この人たちは暇があると、近辺の山中を走り回っているような体力の持ち主なので、駅からここまで走るくらいは造作もないのだろう。
夜の祥倫寺にピアノの音が微かに響く。
今日は招待試合でピアノをまだ弾いてなかったので、少しでも良いから触れておきたかった。
愛にとって、ピアノを弾く事は呼吸をする事と同じだった。
曲目はベートーベンのピアノソナタ『悲愴』より第2楽章。
ロマンチックなメロディで元々有名な曲であるが、ビリー・ジョエルがこれをオマージュして歌った事で、さらに全世界に広まった。
――今日は、ほんとに良い経験をした。
全国大会優勝チームの実力を間近で感じられたし、いろんなタイプの投手や捕手、彼らの考え方まで学ぶ事が出来た。
そんな事を考えていると、予定では夜らしくしっとりしたバラードでまとめるつもりだったのに、気付けば軽やかなスイングが曲を支配してしまったようだ。
「ご機嫌だね、愛」
曲を弾き終えた愛が振り返ると、そこには敬が微笑みながら立っていた。
「あ、分かる?」
「そりゃもちろん」
愛のピアノは歌や朗読と一緒だ、と敬は常々思っている。
その時の感情はほとんど直接、音に顕れるし、時には言語となって伝わってくる事さえある。
「愛が逢いたい、て言ってたアラン、て人の事だけど」
「あ、何か分かった?」
一瞬顔を輝かせた愛に、敬は微笑みながら肯いた。
「福島の高校で一年生、野球やってるって話だったよね」
「うん」
「じゃあこれなんか、どうだろう」
敬が示した高校野球の雑誌には、春季福島大会を制し、今夏も圧倒的な優勝候補である名門校の新星として、ひとりの一年生がちいさな写真付きで紹介されていた。
「阿良木くん、阿良木蓮くん、て言うんだ……」
「名前も似てるし、ひょっとしたらと思ってさ」
「そうだね、写真だけじゃ良く分かんないなあ……異世界じゃ私も、全然違う顔してたし」
雑誌に載っている阿良木くんは、身体が大きく精悍な顔つきをしていた。
「アランくんは異世界じゃ勇者だったから、聖女だった愛より凄いのかな?」
「始めはひどかったよ、普通に歩いててひっくり返るんだから。でも成長は誰よりも早かったし、最後は誰よりも強くなった」
「ふうん。勇者の力を持った野球選手かぁ……どれだけ凄いんだろ……」
「私、福島に行ってみようかなあ」
写真では分かる術もないが、実際に逢ってみればアランの魂かどうか、愛なら判別が付くだろう。
「やめとけ。福島は遠いし、野球部の練習どうすんだよ」
実は新幹線を乗り継げば、福島県には最短二時間半で着くので、同じ県内の木曽福島に行くよりもずっと近い。
しかし敬の言う通りで、休みをもらって松本まで試合見学に行ったばかりなのに、また休みをもらうというのも、どうかと思われた。
「うーん、じゃあ夏の大会が終わるまでは、我慢かなあ……」
「そうだよ。休みになったら兄ちゃんも一緒に行ってあげるからさ。それまではしっかり練習しよう」
「うん、そうだね――」
愛は頬を掌で擦りながら、苦笑いして応えた。
「で、さ。明日からはふたりで走って登下校しよう。今日のランニング、かなり良いトレーニングになったから、毎日走ればすっごい結果出せると思うんだよね」
「あ、そうね、治癒掛けながらだったら距離は充分持つし――でも人前でそれとなく魔法掛けるって、私自身にはともかく、お兄ちゃんにはちょっと無理だと思う」
「そしたら城跡の手前までなら、人通りも少ないし、良いんじゃないかな。坂が急なのはそこまでだから、その後学校まで歩けば、クールダウンにもなる」
「うん、分かった」
「よおっし、明日から頑張るぞぉ」
ガッツポーズで張り切る敬を、愛は静かに微笑んで見つめていた。
この章はこれで終わり。
次話からアランsideに移ります。




