旅の終わりに辿り着いた場所
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小高い緑の丘のてっぺんに立った、白亜の東屋。
シンプルな意匠ながら、その出で立ちは清らかで神々しい。
気持ちの良い風が周りの芝草を揺らし、透明な蒼空に浮かんだ雲を流していた。
ここは地上の、どこにもない場所。
天界と地上を繋ぐ女神の丘、女神が姿を具現化させ顕れる土地。
通称『女神の東屋』である。
爽やかな風に吹かれ、東屋に向かって丘を登っていく、ふたりの男女の姿があった。
しかしこのふたり、先程からずっと騒々しく言い合っていて、ここの雰囲気にそぐわない事この上ない。
「だからさぁ。私、アランが転生びとだったなんて、全然知らなかったよ?」
「俺だってそうさ。まさかシーナが別の世界からやって来てたなんて、夢にも思わなかった」
「ねえ、アラン。どうしてそんな大切な話、もっと早くしてくれなかったのっ」
「シーナもそうだろ。打ち明ける機会は、いくらでもあった筈だぜ」
しばらく睨み合っていたふたりだったが、やがてほぼ同時に、その顔は柔和な微笑みへと変わっていった。
「ふふっ」
「うふふ」
「そうだよ、機会はいくらでもあったのさ、俺たち10年も一緒に居たんだから」
「うん。辛い事も哀しい事も、たくさんあったけど――今は、何もかもが懐かしい……」
シーナがアランの腕を取り、そっと身体を預けていった。
「私たち、帰らなくちゃいけないのね……」
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東屋に入ったふたりの前に白い光が射したかと思うと、簡素な白いドレスに身を包んだ女性が顕れた。
アランとシーナの魂をこの世界に呼び寄せた女神、その人である。
「勇者アラン、聖女シーナ、魔王の討伐を成し遂げた事、心より感謝します――そして申し訳ありませんでした」
そう言うと女神は軽く眼差しを伏せた。
「異世界からのお力を借りなくてはならない程にまで、魔の浸食は進んでいました……あなた方のお蔭で、この世界は救われたのです」
「いえいえ、そんなそんなっ」
「私たちだけでは、魔王は倒せませんでした。それだけは断言出来ます」
アランとシーナは慌てたように否定した。
アラン必殺の雷光剣、シーナの魔を払う力に治癒魔法、それらが対魔王の切り札だった事は確かである。
しかしパーティーメンバーの協力なくしては魔王領、そして魔王城への到達すらままならなかっただろうし、何より名もなき人々の、生きたいと願う強い意志こそが、彼らの背中を大いに後押ししてくれた。
死線を何度も乗り越えてきた。
いくつもの出逢いと別れ、裏切り、そして死に直面してきた。
そして、そのすべてを分かち合ってきた仲間たちとの大切な、大切な思い出。
魔王討伐に要したこの10年間で、一生を何度も生きたくらいの経験をした。
シーナは思った。
この思い出の何もかもが、私の宝物。
けして、けして忘れたりはしない。
アランの手をしっかりと握り、銀色の髪をなびかせ、澄んだ蒼い瞳でアランを見つめる。
視線に気付いたアランも同じ思いなのか――実は聖女の能力で、アランの考えている事は大体分かるのだが――シーナの手を握り返し、金髪碧眼の美しい顔でにっこりと笑った。
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そんなふたりの様子をしばらく眺めていた女神は、やがて微笑み、おもむろに口を開いた。
「勇者アラン、聖女シーナ。それではお約束通り、元居た世界――現し世へとあなた方の魂を、お戻ししましょう……」
「失礼します、女神さま――その事なんですが」
意を決したようにアランが、女神の言葉に口を挟み込んだ。
「その――実は俺、元居た世界の記憶が、ほとんど消えてしまってるんです。多分ですが、シーナも同じだと思うんです……」
シーナも女神を見つめながら、無言で肯く。
そう、10年も一緒に居ながら、互いに転生びとである事を知らなかったのには、理由があった。
アランもシーナも、転生前の記憶がほとんど抜け落ちてしまっていたのだ。
さらに言えばこの世界では、転生びとの来訪は人類滅亡の予兆であるとまことしやかに噂され――実際に人類は魔王に侵食され存亡の危機であった――転生びとについて語る事は一種のタブーでさえあった。
前世界の記憶もなく、しかも軽々しく口にする事が憚られる雰囲気もあっては、打ち明けられなかったのも当然だろう。
黙してアランの言葉を待っている女神に、アランが重い口を開く。
「今の俺は、元居た現し世の事を、何も知りません。しかしみんな――シーナと過ごしたここでの10年間は、俺の胸に深々と刻み付けられています……」
女神は何も言わずアランを見つめ、そしてシーナに視線を移し、シーナが無言のまま肯くのを見届ける。
「その――元の世界に戻っても、10年も空白があると、正直どうやって生活していけるか不安ですし……もし出来る事ならこの世界で、シーナや仲間たちと今までのように、暮らしていければとも、思うのですが……シーナはどうだろう?」
「――私はアランと一緒だったら、どっちの世界でも良いの」
瞳を潤ませて、しかしシーナは迷いなく応えた。
「あらあら、お忘れでしたか? この世界と現し世では時の流れが違うのです。こちらでは10年の月日が流れましたが、現し世ではひと月と少ししか経っていません。さらに、この世界に居るのはあなた方の魂だけで、現し世ではあなた方の身体が、魂の帰還を待っているのです――お呼びする時に失われていた現し世の記憶も、戻ると同時にすべて甦るでしょう」
アランとシーナは、顔を見合わせる――おそらく召喚された直後に、そんな説明を受けたのだろうが、ふたりとも覚えていない。
口にこそ出さないが、ふたりは薄々勘付いていた。
おそらく女神はふたりの記憶を消したか、または都合の良いように改竄している。
それと10年という年月、苛酷な旅の道程が、ふたりの記憶をさらにあやふやなものにしていた。
「いまそこに居るあなた方は、いわば魂だけの存在。それを神の業によって、今のわたくしのように具現化させたのが、アランとシーナ、あなた方の正体です。あなた方はこの世界では、半分神のような存在――だからこそ魔王を討つ事が叶ったのです」
女神は言葉を繋いでいった。
「とはいえ、あなた方はこの世界を救った功があります。地上に戻る事は出来ませんが、その功、大にして、神々の末席に加わる事を良しとしましょう。あなた方はこの先、天界に居を構え、この世界を見届け祝福する存在になります」
「――その場合、現し世に居る俺たちの、元の身体はどうなりますか?」
「現在は現し世のマナを充填させて、健やかな状態に保たせつつ眠っています。あなた方がこの世界の神になるのならば、マナを抜き取るので、やがて朽ち果てていくでしょう」
アランとシーナは顔を見合わせた。
「ねえ、アラン……あなた、神さまになりたいの?」
「いや正直ピンと来ねえし……どんどん話が斜め上にズレてってる気がするし」
「私、覚えてなくても、自分の身体が朽ち果てていくのは、嫌だな……」
「ああ、俺も嫌だ」
この闘いで死んでいった者、魔からの攻撃で生きながら朽ちていった者、それらをアランもシーナも、思い出したくないほどに見てきたのだった。
*
「ねえ、アラン――現し世に戻ろうよ……」
「今、それを俺も考えてた。現し世に戻って、俺はまたシーナに逢いたい」
「うん。どんなに遠くても、姿形がどんなに違ってても、私はアランに逢いに行く」
「なあ、その、なんだ……現し世に戻ったら、一緒に暮らさないか?」
「一緒に……って、えっ? それ、プロポーズ? 現し世の私は、こんな美人じゃないと思うよ」
「構うもんか、俺はシーナの魂を愛している、姿形なんか関係ない――その……俺じゃあ、ダメか?」
涙をいっぱいに溜めたシーナの瞳を、心配そうにアランが覗き込む。
「シーナ。俺と結婚してくれ」
「ううん……はい……嬉しいっ!!」
そう言うとシーナは、ガバッとアランに抱きついた。
「シーナ、愛してるよ……」
「アラン、愛してる……私、あなたのお嫁さんになるわ……」
そしてふたりは女神の御前である事も構わず、長い口づけを交わした。
そんなふたりの様子を、女神は微笑をたたえたまま見つめていた。
「アラン、シーナ、それでは現し世にお戻ししますが、よろしいでしょうか……」
「女神さま、今ひとつお願いしたい事があるのですが」
またもアランが口を挟むが、女神は表情を変えない。
「現し世に戻っても、ここでの記憶を持ち続けていたいんです。俺にとってシーナと過ごした10年間は、掛け替えのない宝物なんです――どうか、お願いします」
「わっ、私からも、お願いしますっ」
間を置かずシーナも声を上げる。
「――いいでしょう」
そう言うと女神は、サッと右手をふたりに向かってかざした。
次の瞬間、アランとシーナの身体は眩い光の粒に包まれ、次第に輪郭がぼやけてきた。
――ああ、こうやって現し世に戻って行くんだな……
ふたりは見つめ合い、最後の思い出にと、互いの姿を目に焼き付けようとした。
同時に、頭の中に押し寄せてくる奔流のようなものが感じられてきた。
――記憶だ。
これが現し世の記憶に、違いない。
「シーナ、何か思い出せた?」
「うん……少しずつ思い出してきた……私、15歳……こうこう、いちねんせい……山の中、のお寺、お兄ちゃん、と、暮らして……」
「俺も思い出してきた……高校一年、シーナと同じだ……海があって山があって……や、きゅう……俺、野球してた……」
「やきゅう? お兄ちゃんも、野球してる……アランと同じよ……」
「意外に共通点あるな、海はあるか?」
「海、じゃない……川が流れているわ……ああ、もどかしいな、少しずつしか思い出せない……」
「そう、だ……こう、しえん……俺、甲子園行くって、みんなと約束して……」
「こうしえん? そこに行けば、アランに逢える?」
「ああ、そうだ。甲子園、間違いない。俺はそこで、シーナを待ってる」
「分かった、甲子園ね。私も、行く」
「甲子園で逢おう」
会話を交わしている間にも、光の粒はどんどん眩しくなり、互いの姿は朧になっていく。
「私の名前……名前が思い出せたら……」
「俺、たった今思い出した……高校の、名前、ふ、くしま……」
視界のすべてを光が覆い尽くし、もう何も見えず、アランの声だけがシーナの意識に響いていた。
いきなりファンタジー色が強いですが、高校野球ものです。
よろしくお願いします。