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ケーキが好きだった。特に、真っ白な生クリームがたっぷり載った、苺のショートケーキが。
普段は食べられない特別な日の為のお祝いに食べるもの。甘くて、ふわふわと柔らかくて、食べるとみんなが笑顔になる。そんなケーキが大好きだった。
「司。誕生日のケーキは何がいい?」
「もちろん、苺のショートケーキ!」
11歳の誕生日、ツカサは両親に苺のショートケーキをねだった。両親もその日はツカサの誕生日を祝うために休みを取り、ケーキを買うために笑顔で出掛けて行った。
「お父さんとお母さんまだかなぁ」
学校から帰って来たツカサは隣にランドセルを置き、玄関に座り込んで両親の帰りをわくわくしながら待っていた。家の中で電話が鳴ったが、ツカサは無視した。知らない人からの電話はとってはいけないと言われているから。
ツカサは待った。電話が鳴った。よく電話が鳴る日だなぁと給食の残りの魚肉ソーセージを齧った。
電話が鳴った。日が沈んできて、お腹が鳴って。それでもずっとずっと待っていた。そのうちに今日何度目かの電話が鳴って、ツカサはとうとう受話器を取った。受話器の向こうから聞こえて来たのはこんな声だった。
「出雲さんのお宅のお子さんですか。お父さんとお母さんが事故に遭いました。病院に運ばれましたが、残念ながら……、……」
ツカサの手から受話器が滑り落ちた。
まるで血のように赤い太陽が空を染める、夕暮れ時のことだった。
自分が、ケーキを強請ったりしなければ。もっと早く電話に出ていれば。何度も何度も自分を責めて、もう何処にも居ない両親にごめんなさいと泣きながら謝った。あれは事故だから仕方がないと思い込まなければ正気を保ってなんていられなかった。
事故というのは防止は出来ても、人がそこに居る限りゼロにすることなんて絶対に出来ない。何万分の、或いは何千分、何百分の一の確率で起こる事故というありふれたものに、ただツカサの両親が巻き込まれただけのこと。たったそれだけのことで、優しかった両親は呆気なく天に昇ってしまったのだ。人の命とは儚いものなのだと、ツカサはそう思うようにした。
黒い煙が天に昇っていくのをぼうっと見つめている間、親戚達はツカサをどこの家が育てるかで揉めていた。中学校の入学を控え、進学などでまだまだお金の掛かるツカサを育てられると言う人は誰も居なかった。
たったひとり、祖父だけを除いて。
ツカサの祖父は変わり者で、いつも自宅の隣にある研究所で機械を弄ってはガラクタを発明していた。
そうして付いたあだ名はからくり屋敷の変人男。自宅まで改造して忍者屋敷のようにしていた祖父は表情が乏しく、あまり周りに人が居なかった。
だがツカサはそんな祖父が大好きだった。祖父は表情は変わらないが案外お喋りで、冗談も言う。研究の合間にひと昔もふた昔も前のおもちゃを作っては、遊びに来たツカサと一緒に遊んでくれた。
独楽。竹馬。だるま落とし。けん玉。竹とんぼ……。
ツカサは祖父の作るその温かみのある昔のおもちゃ達が大好きだった。
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「司は友達と遊びに行ったりしないの?」
祖父と暮らすようになって暫く経ったある日、縁側で祖父と並んで日向ぼっこしていると不意に祖父に尋ねられた。ツカサは首を振った。
「行かない。誰にも誘われないし。じいちゃんと遊んでる方が楽しい」
気が付くと、ツカサの周りからは人が居なくなっていた。遠巻きにされ、同情はされるけれど決して手を差し伸べてはくれない。四面楚歌と言っていいその状況は、王手をとられた将棋盤を連想させた。
祖父と一緒に暮らすうちに、ツカサは祖父以外に心を開かなくなった。家族を喪ったショックで、人に壁を作るようになった。ツカサは笑わなくなった。笑えなくなった。
ツカサはひとりになった。
「そう言って貰えるのは嬉しいけど、じいちゃんはすぐ死ぬよ。あと100年くらいで」
「めっちゃ長生きするじゃん」
「冗談冗談。このままだとあと数十年もしないうちにぽっくり逝っちゃうはずだから」
「不老不死になる機械は発明しなかったの?」
なんだかよく分からないガラクタばかりを発明しているのだから不老不死になる機械もありそうだな、なんて思って言ってみると。
「逆に生き物の成長を早める機械を作ろうとして失敗したことならあるなぁ」
「へぇ。爆発した?」
「爆発はしなかったけど、代わりに何をどう間違えたのか時空転移装置が出来たよ」
「なんでそんなおっかない物作ったの?」
「こっちが聞きたいよ。なんであんなのが出来たのか未だに分かんない」
どうやら偶然の産物でとんでもないものを生み出してしまったらしい。へー。
「黒船来航の場面も見たし、坂本龍馬さんとか小泉八雲さんと会って友達になったよ。楽しかったなぁ、あの頃は」
祖父は昔を懐かしむような顔をして遠くを見ていたが、そんなことが本当に出来るわけないのでツカサはじいちゃんボケ始めたんだなと納得した。そして話に合わせることにした。適当に。
「色んな人達と出会えてよかったね」
「そうだね。現代と過去を行き来して、色んな事があったんだ。嬉しい出会いもあれば悲しい別れもあった。あの時間は紛れもなくじいちゃんの青春だったと思うよ」
「ふーん。それで、その時空転移装置はどうしたの」
「じいちゃんの妹が勝手に使って帰って来なくなったから、破棄するわけにもいかなくて物置に放置してる」
「あそこ」と指さした先にあるのはただの物置だ。中身はじいちゃんの作ったガラクタだったり、おもちゃだったり、色々。でも祖父の妹がある時を境に消息不明になったという話はよく聞いていたのでツカサは僅かに身を乗り出した。
「誘拐されたんじゃないの。美人で可愛かったんでしょ」
「されてないよ。装置が使われた形跡があったから慌てて迎えに行ったら、時空飛び越えた先でなんか優しそ〜うで人の良さそ〜うな侯爵家の三男坊とかいう儚げ美少年と結婚して子どもまで作ってた」
「逞しい」
誘拐ではなかったけど相当神経が図太かったのだろう。
「幸せそうだったよ。俺はそれじゃそっちで元気でやりなって言ってそのままこっちに戻って来たんだ。でも明治時代に合わせてたはずの座標があいつが気に入ってた乙女ゲームの世界になってたのはなんでなんだろ。あいつが勝手に弄ったのかな……」
「ほほう、ゲームの世界に……」
髭を指先で弄りながら思案する祖父の横でゲームの世界に入れたら、とツカサも思案した。
「あ、今面白そうって思った?古くなってるから座標が狂って変な所に飛んだとしてもじいちゃん知らないからね。責任取りません。バーリア」
「バリア破った」
「あっ破られた。まぁ取り扱い注意ってことは覚えてて。マジヤバだから」
昔の流行語を使う、若いのか年寄りなのか分からない祖父。真顔でこんなおふざけをするのだから今の話も丸々嘘だろう。勿論、ゲームの世界に行けるという話も。
「じいちゃんの冗談は面白いなぁ」
「もしや今までの話全部冗談だと思ってる?」
「思ってる」
「うーん、これは冗談じゃないんだけどなぁ」
そう言いつつ、祖父はきびだんごを口に含んで茶を啜った。遠くの空を眺めて目を細める祖父がどこか自分と違う世界を生きている人のように見えて、ツカサはぎゅっと祖父に抱き着いた。
「じいちゃん」
「ん?どうし……」
「長生きしてね」
そう言うと祖父は一瞬目を丸くして、目元を優しく緩ませた。
「大丈夫。司が大人になるまでは、ずっと司の傍に居るよ」
祖父が亡くなったのは、ツカサが上京してすぐの事だった。
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「お笑いの養成所に入るために祖父の家を出てから暫くして、祖父が亡くなったという連絡が入ったんです」
クロエの腕の中でツカサは完全に身体を預け、ぽつりぽつりと話しては止まり、またぽつりと話して止まることを繰り返した。
「祖父が脚を悪くして動けなくなってから、自分は動物などの声真似をするようになりました。特に祖父が喜んだのは鳥の鳴き真似です。自由に空を飛び回る鳥の姿を想像すると気持ちが晴れる、と。そうして祖父に声真似を披露しているうちに、少し、欲が出てしまったんです。祖父がこんなに褒めてくれるのだから、これを大勢の人の前で披露すれば誰か1人は自分に興味を持ってくれるんじゃないかって。友達が……出来るんじゃないか、って」
「それが、おまえがものまね芸人になった理由か」
「はい。結局自分は鳴かず飛ばずで誰にも必要とされず、ずっとコンビニバイトでその日暮らしの生活をしていました。……友達なんか欲しがらず、じいちゃんの傍にずっと居ればよかった。自分は、自分の愚かさ故に、両親だけでなく愛する祖父の最期を看取ることさえ出来なかったんです」
「…………」
「これが、自分が今までクロエさんに話していなかった過去の過ちの全てです」
そうして、長い時間を掛けて話し終え、ツカサはようやく言葉を切った。クロエはツカサを膝に乗せて丸い頭に顎を置いて話を聞いていたが、ツカサの話が終わると共にもぞりと身体を動かした。
「……?クロエさん、何を……」
「辛かっただろう」
大きな手のひらがツカサの目蓋を覆った。
「苦しかっただろう」
「…………」
包み込まれる。
細いものの、ツカサより一回り大きな身体。長い手足がツカサを守るように包み込み、すっぽりと外の世界から覆い隠した。
時計の秒針の音も聞こえない。ただクロエが生きている音だけがツカサの中に響いていた。
「その苦しみを、俺が」
ツカサを抱き締める腕の力が強くなる。
「俺が、全て拭うことが出来たらいい」
全て預けた自分の重ささえ気にならないくらいに包み込まれて、ツカサは浅く息を吐いた。
「今や何も持たない俺に出来るかは分からないが、おまえが望むものを与えることが出来たらいい」
「クロエさん」
「お気遣いありがとうございます」と言いかけて、出来なかった。喉から嗚咽が漏れただけだった。
クロエは言った。
「おまえが寂しくないように出来たらいい」
『……ああ、そうか』
ツカサは気付いた。今までずっと自分の心の片隅に居たのに、見ない振りをし続けていた感情の正体に。
「自分は、寂しかったんですね」
大好きな人達が居なくなって寂しかった。家族が居なくなって、自分の周りに誰も居なくなって寂しかった。
罪悪感に呑まれて自分を責めるあまり、そんな当たり前の感情を口にすることも出来ず、自分の気持ちに蓋をして全てを諦めていた。
クロエはツカサ自身でも気付かなかったツカサの気持ちに気付いてくれた。
「おまえが望むものはなんだ。おまえが寂しくないように、俺に出来ることが何かあるはずだ。……教えてくれ」
「自分は」
不思議と気分は穏やかだ。凪いだ海の中に立って、遥か彼方まで続く地平線を眺めているような。
「家族が、欲しいです。ずっと自分の傍に居てくれる、温かい家族が」
「そうか」
クロエの、ツカサを抱き締める腕の力が緩んだ。ツカサの目蓋を覆っていた手も退かされ、ツカサは瞳を開く。
「ならば、俺がおまえの家族になろう」
くるりと振り向いた先で、クロエは笑っていた。
目じりは下がり、唇は弧を描いて。
まるで、やっと自分に出来る事を見付けて喜ぶような、そんな表情だった。
目蓋を開いて見た世界は、妙にチカチカと輝いて見えて。
ツカサは問い掛けた。
「家族に、なってくれるんですか。自分の」
「俺は歳を取らない。半永久的におまえの傍に居ると約束しよう」
「半永久的、ですか」
「ああ。半永久的だ」
「ふっ」
ツカサは笑った。
「ふふふ」
クロエの赤い瞳が見開かれる。長い睫毛はまるで幸せを閉じ込めるように伏せられ、ふにりと膨らんだ頬は丸く、無表情でいる時よりずっと幼く見える。
「嬉しい。嬉しいです」
ツカサはふにふにと笑って、驚きで声が出せなくなっているクロエを見つめた。
「約束ですよ。ずっと一緒です」
「……ああ」
「勝手に居なくなったりしたら怒ります」
「分かった」
「ふふふ」
「約束です」とツカサはふにふに笑いながら小指を差し出した。クロエも首を傾げつつ、同じように小指を差し出す。
ツカサはきゅっとその小指を自分の小指と結んだ。
遠い地平線の向こうで、両親や祖父が笑顔で手を振っている。ツカサはそれに駆け寄ることはせず、笑顔で手を振り返すのだ。
ふたりぼっちの世界から、魔王と一緒に。
これにて2章完結です。3章の構想も練っているので気が向いたら書きます。
お読み頂きありがとうございました(^ ^)