13-3. 肥えた土壌と災害の多い活断層プレートの近くだったこと
13-3. 肥えた土壌と災害の多い活断層プレートの近くだったこと
悲しいことに、日本は地震大国である。
「災害のない日本だったらどんなによいか」
地震や台風、震災は少ないほうが良い。自分もそう思う。もし、日本という島国が自身や津波のない平和な立地になったらどうなっていただろうか?
まず、敵国に狙われやすくなる。より安定して作物が育てられ、人類にとって住みやすい環境だとすると、ユーラシア大陸の弱った土地の民族が押し寄せてくる。その海外からの侵略で、国民は疲弊し、負けたらイギリス同様に奪われてしまう。その労力を外に向けることで、内部の労働や生産が減ってしまうのだ。
次に、協力して生き抜くという助けあいが生まれにくくなる。肥えた土地で災害が少ない西欧とアフリカの中間では、古代ローマのような急激な発展ができる。その代償として、その良い土地を奪うための戦争が多発する。
日本では、戦国時代に陸内の戦争はあったものの、震災や飢饉による被害も相当なもので、戦争するにも兵や武器の調達がままならない時期もあった。
一定サイクルで来るスクラップアンドビルド(壊して作る)によって、国民は助け合って家を建て直し、自然に畏怖するようになる。
ユーラシア大陸の暴力の源(遊牧民による破壊)の代わりに、自然による破壊が日本独自で存在した。2つの違いは、恐怖の対象が隣民族と自然であり、消耗の量が違うのだ。
暴力の源による破壊: 周期は地球の寒暖(長期)、飢饉による民族南下(長期)、解放まで長い
自然災害による破壊: 自身や台風による(短期)、飢饉による隣侵略(長期)、復興まで短い
ユーラシア、そこから移住したアメリカ大陸では地震が少なく安定していた。それらの民族の一番の敵は「隣接した別の民族」「別の言語」「別の宗教」に絞られる。日本では「隣接した同じ民族」であり、多少の宗教の違いはあれど、キリストイスラムカトリックプロテスタント等の価値観が違いすぎるものではなかった。
この時点で、文化的な成果物はユーラシアでは「ヒューマンドラマ」であり、日本では「人と自然」となる。人や民族の違い、移民、言語、宗教というジャンルについては日本よりも圧倒的に有利なのだ。
ヒストリエの「文化がちがーう!」というネタは、日本人が呼んだ印象とは全く異なるのだ。
最後に、恐怖の対象を擬人化するのだ。アマビエのような仮想の守護神を作ったり、コレラ等の流行病を一種の幽霊の仕業として絵にかいてみたり、自然災害もその精霊による物として生贄を捧げたりした。自然に対して、身を捧げる生贄の文化は日本やアフリカの一部に多く、自然災害のない西欧やアメリカでは
「なんで自然のために生贄なんてする?」
という感想が来るほど、摩訶不思議な現象に見えるのだ。日本では、自然を大切にして、虫にも機械に魂があり、食べ物と調理者に感謝して「いただきます」を言う。この死生観は、災害の多さから来た物と自分は考える。
もし日本が災害の少ない安定した国だったら、自然や災害の擬人化、助け合い文化、いただきます!がなかったかもしれない。
気づいた人もいるかもしれないが、この人以外の物に対する日本独自の解釈が、今のなろう小説やアニメ漫画に良い影響を与えている。ドラえもんのような機械の魂、みなしごハッチのような虫の魂、ヘタリアのような国の擬人化、刀剣乱舞のような刀の擬人化などなど。当初は何考えてんだ日本は!?と見ていた西欧欧米は、その独創性から今では受け入れられている。彼らの文化では考えられないことであるため、日本以外からは生まれにく文化と言える。
ミッキーやマイリトルポニーのような「生活に身近な哺乳類」の擬人化はあるが、虫や機械や災害の擬人化は日本独自である。
災害だけが多い地域なら独自の文化が生まれるかというとそうでもない。洪水や雨季が多いアフリカ大陸では、生贄文化はあれども、文化圏から離れすぎていて農耕に適さない土地である。
①のユーラシアから程よい位置の島、②災害が多いの2点が今のなろう小説漫画アニメの土台ができたと言える。
まとめ
1. もし災害が少ない日本だったら、侵略されやすく、自然への恐怖と感謝がなくなってた
2. 良く来る災害によって立て直しと助け合いが生まれる
3. ユーラシア文化圏と絶妙な距離感を持ち、災害が多いのは日本だけ




