24-6. 墓を作らないチベットは異常か? ~常識という洗脳が解けない人たち~
24-6. 墓を作らないチベットは異常か? ~常識という洗脳が解けない人たち~
※現在の宗教や文化を批判するものでありません。一個人としての感想です
亡くなった人の弔い方は、国や宗教によってさまざま違う。
日本では、命日の後は火葬し、初七日、四十九日、初盆、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌・・・三十三回忌と弔う。
神道の場合は十日祭、五十日祭、百日祭、一年祭~十年祭の祖霊祭がある。
キリスト教では三日目と七日目に追悼ミサ、一か月と一年目に記念ミサを行い、万霊節の11月2日には全ての死者を追悼する。
自分は親が浄土真宗であったため、仏教と同じ回忌で弔う事が多かった。
NHKのチベット死者の書の本では、チベットの特有の弔い方が詳しく書かれていた。
それは、49日間で死者にバルド・トドゥルを読み聞かせ、鳥葬し、墓を作らないというもの。
鳥葬とは、遺体を切り刻み、野晒して鳥たちに食べさせたりする。
最初にそれを読んだとき、墓を作らないなんて死者に冷たい国だなと思った。
しかし死後の49日間の文化を読んだあと、これが転生の最前線の弔いだと感動した。
仕事や資産をなげうって、ここまで弔うのか!? と思うくらいの特大行事であったからだ。
人が死んだら墓を建てて弔う。当たり前の話だ。だが、墓が人類という生物において、必須なのかを疑問視した人はいるだろうか?
バレンタインの日はチョコを男性にあげる。土用の丑の日にはウナギを食べる。クリスマスにはケンタッキーを食べる。これらは企業が作った商売のためのイベントである。
日本人からすれば当たり前の常識だが、海外の人からすると「ナニコレ?」になる。
そういうものだ、と気にしていないだけで、よく考えたら何か違うと気づけるものだ。
お墓に関して冷静に考えれば、亡き人の霊や魂やその墓に残り続けたなら、のちに90億人以上の墓には霊たちが満杯で増えてづけてしまう。
良い墓を残し、子孫がその人を忘れないようにする、敬うという象徴としての墓の意味もあるだろう。だが、それであれば仏壇や遺品をしっかり残し管理すればよい。
墓の存在を疑問視する行為は、それ自体が罪や人でなしに思えるかもしれないが、自分はそうは思わない。
家族や親戚として、先代の墓参りは行くし、祖先を敬う。だが、自分が死ぬときには、別に墓は作らなくても良いかな、と思っている。
墓を作るのが愚かなのではなく、墓を作ることが「人類の当たり前なのか客観的に疑う事」が重要だということだ。
チベット死者の書では、命日から49日間を全力で弔う。ドン引きするぐらいにだ。
その全力の49日間があるからこそ、親族や家族は納得して亡き人を見送り、終わった後の遺骨や遺品はただの「モノ」として撒いたりオークションにかけたりする。
イメージとするなら、一般的なお墓の国は50年や100年まで長く弔うのに対して、49日に100年分を濃縮した感じであろう。
まとめ
①チベットの市民は墓を作らず、49日間の弔いで何も残さない
②墓文化は人類共通の常識ではなく、慣例や文化によって作られた
③人類の当たり前を疑う視点が重要




