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24-5. 天才哲学者集団が理論こねくり回しても労力の無駄。生と死の淵を統計するしかない

24-5. 天才哲学者集団が理論こねくり回しても労力の無駄。生と死の淵を統計するしかない


 様々な哲学者を本などで読んできた。


 色々読んでいくうちにわかったのが、いくら哲学を本人が深堀してもそれ自体に解決策はないということだ。



 自分の結論としては、粛ラマで前世と転生の影響を明確化すること、唯物論を否定すること、彼らから声をきくことである。


 彼らとは、出生から3才くらいまでで前世や過去情報を記憶する幼児のことだ。

 何故かはわからないが、自我を持つ7歳以降は大半はその有用な記憶が消されてしまう。

 だから、それを忘れぬうちに聞き取ってまとめるという人海戦術が後々に必要になる。


 今それをやろうとすると、ただただオカルトでやべぇ宗教になってしまうので40年後になるとは思うが。




 何故7歳から35歳位まで前世と直感の情報が鈍るのか、これは200年以上前の平均寿命が関係しているのではないかと思っている。織田信長が言った人生50年を考えれば、35歳は後半下り坂の時期。つまりは死の淵に近いから、能力を再び授けて環境を変えるのだと思った。

 鉄拳のレイジシステムのようなもので、瀕死=寿命でもうしぬ状態になると火力が上がったり特殊スキルが使えるようになるのだ。


 死の淵のもう一つは、臨死体験だ。これ自体は今までの経験談が調べれば多数あるのでそれを見てほしい。基本臨死体験している人は、もれなく生きているので(死んでたら語れない)、直後は様々な奇妙な経験をしているはずだ。

 これもまた、宗教とかオカルトとかの先入観で聞き入れてもらえないし、仮に事実を伝えたとしても、いくらでも嘘や妄想をつくことができる。そしてその真偽を確認する術はない。

 だから今でもオカルトとして宙に浮いている状態だ。個々で状況が違うので再現だって出来ない。


 そうこうしているうちに、もう21世紀になったわけだが、そろそろ解明していいよ!という声が聞こえたのだ。


 だから、魚豊氏の「チ。」のように無関係な住人が、情熱直感の呪いにランダムで指定されて地動説を追うようになる。

 同じように、現代で日本国民がライトノベルからなろう小説に派生し、一般人が参加した特大ブームが発生した。

 自分がこんなエッセイを書き始めたきっかけは、このなろうブームと海外評価が「前兆」だと確信したからだ。


 なろう流行のずいぶん前、ゼロの使い魔のリアルタイムアニメを見ていたフルメタとかに、既に何か転生に関するよくわからん妄想が夢に出ていた。


 当然だが、それは中二病の一環として封印した。荒唐無稽な妄想であり、誰にも話せるわけがない。

 だが、なろう流行で何かおかしいことに気づき、哲学を勉強し始まる。そして、魚豊の「チ。」で、動き出した感が非常に強くなった。


その頃はチベットや死者の書、般若心経、ブッダや釈迦の文化を全く知らなかった。

そこで出会ったのが桑田二郎氏の般若心経。マンガ図書館Zという無料読書できるサイトに偶然出会い、観音経も読んで新しい世界を見た。


 https://www.mangaz.com/authors/detail/4417


 すばらしい解釈だ! 是非この方と会いたい! せめてメールだけでも! と調べてみたら、2020年、半年ほど前にもう亡くなっていた。

 そこからくうとは何か、かるまとは何かなどを調べ、チベットにたどり着く。

 それまでは、フリーチベット!中国酷い!くらいのイメージしかなかったが、ダライ・ラマ氏や相方の歴代継承を知り、バルド・トドゥルを知り、インドで仏教が滅びた事を知った。


 自分はそれまで、なろう転生たぐいのモノは日本が最先端を行ってると驕りがあった。だが、400年以上も前から、チベットでは転生を国是として継承した実績を知って愕然とした。

 そして、なぜチベットではそれだけの歴史を持ちながら、その前世や転生を人々に普及させて生かさないのかについても考えた。

 自分の答えは、各自で修行し解脱するものであり、それを売り込む商売にすることではない、ということだ。


 並行して哲学と自己啓発の本をAmazonで買いあさり読みまくった。天才を殺す凡人、日本国旗、シンニホン、心を磨く、反日種族主義などなど。


 これらを取り込むうちに思ったことは、心や自我の哲学は結局観測できないから無駄では? ということだ。


 2000年以上前のアリストテレスで始まった哲学フィロソフィーから何も変わっていないじゃないか。科学や物理や宇宙は、ここ200年で物凄い進歩を遂げた。工業製品の精度が上がり、大規模な実験ができるようになったことは大きい。


 だが、哲学や心理学は一切の物質と干渉しない。モノを必要としない無料の学問は、誰でも参加できるハードルの低さゆえに今は「それっぽく共感されやすい説」をするだけになっていると感じた。


 おそらく、生と死の観測統計という禁断の果実を食べない限り、哲学は進歩しないだろう。

 本人が偶発的に事故に巻き込まれてギリギリ死の淵を彷徨うか、意図的に死の淵に追い込むか、

 死の淵を体験する人を直接観測するか、前世を記憶する幼児を徹底的に集めて調査するのだ。






 何度も言うが、机の上で数式を弄っても心の哲学は進まない。生と死の淵を統計観測せよ。

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