19-4. 霊界から見た人は車である。今までにない感覚が来たなら、それは魂の反応だ。正しいからそれに従え。
19-4. 霊界から見た人は車である。今までにない感覚が来たなら、それは魂の反応だ。正しいからそれに従え。
自分の直感では、人は器で魂が精神であると思った。その一つの例えとして、人間界の車で言える。
魂が運転手で、車が今の人間である。乗り手のいない車はなく、人間界では実質死産となってしまう。逆に、生きることができる人間の器に魂が入る形になるだろう。
車には燃料という寿命が決まっている。老衰死し大往生した人は、ガソリンが尽きて動けなくなった車である。燃料の補給はなく、そのまま次の新車に乗り換える。
車は時代や地域によって特性が変わる。サーキットで最速が出せる車や、荒地でもスイスイ進める車、海を走る車、燃費が良い車、様々である。この性能は、器である車に依存する。
実際の車には遺伝子というものは無いが、例えの車であれば親2つの設計図から半々貰って組み立てられる。性能は、2つの親にほぼ依存している。
しかし、設計書の分離とコピーの段階で、一部コピーミスがあり、部品の食い違いが発生する。これが遺伝子異常である。
この異常発生と修復により、2つの両親にはない欠陥車が生まれる。その欠陥車は「大半は」従来よりも性能が悪くなるが、ごくまれにその狂った修復が良い方向になる場合がある。
時代や地域による、適材適所の進化である。
キリンの進化は、草木の高い荒野ではより長い欠陥種が生き延び、異常のない正常種が滅びた。
草木が低く、土に埋もれているアマゾンでは、首が短く地面が掘れる欠陥種が生き延び、異常のない正常種が滅びた。
中途半端な正常なキリンはどちらの地域にも適応できずに滅び、遺伝子異常で長く伸びすぎた種は荒野で生存し、アマゾンでは短い首の種が生き延びる。これが進化である。
同じように、例えの車でも遺伝子異常という名の「歩留り」「不良率」が存在する。実際は10万人に対して一人の割合と言われていて、不良率は0.001%のごく少数である。
しかし、世代交代(=その種の寿命)を何千回と大量に行うことで、1000万年単位で多くの欠陥種が生まれて淘汰された。
西暦2021年であり、紀元前5000年から人類の発展があったとすると、それまでで人類は大きく遺伝子異常で変化してきたが、直近産業革命後の400年では大きな変化は難しい。
例えの車であれば、短時間で遺伝子異常と復元による進化は難しいということになる。
では、人類という名の車の発展において重要なのは何かを考える。それは乗り手の進化である。
魂と人間の関係は、乗り手と車の関係にある。魂の進化というのは乗り手の進化であり、車の進化は影響を受けないのだ。
つまり、魂にとって人間界の大成=名誉や金持ちはそれほど重要ではなく、運転している魂がその車を操縦して何を得たかが魂の進化につながる。
それは、運転による景色と感動である。
若い魂が運転したランボルギーニでイタリアを走れば、その爽快感と格好良さで感動し、地方の写真を収めることができる。同じ魂で次に乗り換えた車は、本田のシビックである。
日本の山道をスイスイ上り下りして、山の写真を収めていく。良い空気と自然の川、前の車とは別の感動を持ち帰った。
このように、車である我々の本質は、稼ぐことではなく「魂に良い景色を見せること」である。7
人を幸せにすることはできない。諭すことはできる。
そして、自分の魂を幸せにできない人は、相手の魂を幸せにはできない。
魂は自己中である。乱暴な運転だってする。車は運転手の操作に忠実であるべきだ。今の中の欲望に従うのは、車がAIで勝手に操作を切り替えて運転してしまうことである。
肉体の欲望に操られることなく、魂の呼応に気づきそれに従うことで初めて「感動」を覚える。
これは、運転手=魂が操縦している車が、乗り手に気づき、乗り手の意図=魂の進化をくみ取って走ってくれる反応である。
今までに感じた事のない、景色が鮮明になって「今までずっと見てきた風景がこんなにきれいだったんだ」と思ったことは人生で1度だけある。
外の日の光、鳥のさえずり、風の感触。それを急に感じたのは34歳の頃。それまではそんな感覚はなかった。
当時の自分は不思議だった。なぜそのタイミングなのか、そしてそれまでに経験がなかったことへの不思議さがあった。
でも今になって確信した。それが魂の進化のきっかけであり、自分の肉体に与えられた「魂のカルマ=宿命」であると。
なんだかカルトっぽいが、言いたいことは一つだ。
今までにない感覚が来たなら、それは魂の反応だ。正しいからそれに従え。




