19-1. 「チ。」から考える現代転生 自己犠牲目標という名の感動
19. 日々思ったことを残す
19-1. 「チ。」から考える現代転生 自己犠牲目標という名の感動
魚豊さんの地動説漫画、「チ。」を3巻までアマゾンで購入した。何度読んでも面白い。
若干ネタバレするが、地動説を追い求める人は次の人に託して笑顔で死んでいく。託された人は、最初はなぜそんな笑顔なんだ?と疑問に思うが、親密になってお互いを知るとその笑顔の意味が分かってくるのだ。
自分は、一種のウイルス(感動の感化)だと思った。
それが世のため、自分のため、善か悪かは別にしてその思いや情熱が人に伝播していく。
この本でいえば「書物を残して精査し間違いを正す」という感じだ。一歩間違えば、託された人は資料を次に託せず、この本は終わってしまう。
というか、途中で完全に資料が託されずに途切れるのだが。石箱に残した手紙を、偶然観測者が良い場所の岩の印で発見するのだ。自殺で託せることすらできないのに、それで感動して残していく。
あれ、これって自分がやっている事と同じではないか?
そう。この漫画を読んで気づいたことは、「本人の感動は世の中の真偽に関係ない」のだ。
当時の天動説が間違いで地動説が正しいという真の確証(証明)ができない、知らない人でも、それを聞いて感じて託すことに感動できるならば世の中の真理ではなくても達成する。
例えるなら、地球人の血は青いと信じて研究し、託して亡くなったのなら、彼は無しえたことになる。実際は血は赤いが、彼はそれを完全に信じて研究した。世の中とは間違っていても、結果はOKだ。
同じように、自分が直感で提唱する祇霊学=死生観の証明は、実際にはそうじゃなくても良い。ズレていても、真逆でも良い。その直感を信じて、ワクワクし、託す事=誰かが見えるところに残す事が大事だ。
理想的には、次にその意思を継いでくれる人を探して引き渡せれば安心して死ぬことができる。しかし実際は、そうならない事が多い。自分が尊敬している亡き桑田二郎さんは、自分のことは全く知らない。仏教の本を出版しても、そう儲かるわけではないのに、自分で55歳から研究して重いを読者に託したのだ。
自分は偶然、図書館Zのサイトで出会い、読んで感動し、それをこのエッセイに託した。これが「チ。」の現代版である。恐らく、読者の中の一人が、影響を受けて人生が曲がるだろう。そうあっって欲しい。
もう一点似たことがある。それは前に説いた「自己犠牲目標」である。
このネーミングはあまり良いイメージではないので、何かかっこいい造語にしても良いかもしれない。
定義は: 殺されて全ての地位名誉を赤の他人に奪われても達成したい目標である
※殺される痛みや恐怖とかは除く。存在抹消という感じ
努力して新しい技術を開発して認められたとしよう。
数年後、その技術を使ったサービスが売れに売れて、人々の生活はよくなった。
開発者の労力は多大であっても、一銭も彼には入らない。wikiにも名前が残らず、家族も知らない。
赤の他人がその技術で数百億儲かった。
さて、この文章を読んだとき、どう思っただろうか?
全く報われないのに、やる努力は無駄だ (尊敬する専務はこの回答)
本人が本気でやりたいことが見つかって成し遂げて普及したのなら、満足だろう (自分の回答)
自己犠牲目標は、「チ。」における誰かに託して死ぬと同じではないかと気づいた。
本人が感動し、その目標のためなら自分の死を選ぶほど、ということだ。
もともと、最初の直感は1年以上前に振ってきた事であり、チ。の連載とは無関係である。しかし、死してもなお託す感動という点は、一種の「答え合わせ」ではないだろうか?
魂の観点でいうと、本人=人肉の器の成長は最終的にはどうでも良く、そこから得た経験によって霊的な進化=目標を達成する。世の中の成功=金持ちとは関係がないのだ。
御曹司の息子で金に何一つ不自由がなくても、不幸を感じて寿命で死ぬことがあるだろうし、
無一文で山奥のボロ家で自給自足する老夫婦は幸福のまま寿命で死ぬことがあるだろう。
本人の感じ方次第なのだ。
「チ。」を読んで、感動を残して託した人を見て、
山奥の老夫婦の笑顔が忘れられなかった。
当時社会人新人だった自分から見たら、ただの負け組であり、稼ぐことがステータスだと思っていた。でも、本人は選んで都会を離れて山奥を選んだ。
社会の歯車で苦しむ人より、よっぽど人らしい生活をしているではないか。
それに気づいた自分は、また一つ魂が進化したと思う。




