魔王と、近衛
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深夜
本殿・最奥の間-
―――シュ。
暗闇の中、格子窓の滑らかに滑る気配。
僅かに戸が開けられたと気づいたのは、ほのかに入り込んだ月灯りの為だった。
「っ、だ、誰…!」
「シッ」
ゆっくりと近づく影の塊。
御簾越しに見えるそれに、天使は怯えながらも視線を離せない。
影は足音も立てず、部屋の隅に置かれた几帳の裏に入り込む。
そこでようやく一息ついたように、蜀台の灯心に火を点した。
「あ… 近衛、様…」
「天使殿…ご無事であらせられるか」
穏やかに微笑む近衛を見て、天使もまた安堵する。
御簾の傍まで近づき、嬉しそうに翼を一振りしてそれに応える。
「近衛様のお気遣い、有難く思っております」
「……ですが今日は、申し訳ありませんでした」
「何を……?」
「若君を……魔王陛下を、止められなかった」
俯き、硬く握り締めた拳が目に入る。
不甲斐なさを悔やむその姿は見ているだけで痛ましい。
「近衛様の責ではありません…。どうかご自分をお責めにならないで」
「いいえ…。いいえ、天使殿。こうなったのは全て、自分のせいです」
「……」
―――回想―――
一月ほど前
本殿中央・奥殿(魔王の社殿)
「領内視察、だと?」
私室でくつろいでいた魔王は、不機嫌そうに問い返した。
「は。若君におかれましては、戴冠の覚えも目出度き時期。自国の領地と民をしっかりと把握せよと、院よりお言葉を預かっております」
院。
それが表すものは先代魔王のことであり、魔王の実父でもある。
「ちっ。つまらぬ。下賎の弱き民を見て何を学ぶというのだ」
「弱き者の、その弱さを。貧しき者の、その貧しさを」
「ふん。お前はいつの間に父君に躾けられたのだ、近衛」
「……そのような事は御座いません」
「それで。お前は俺に、何処へいって何を見よと申すのだ」
「若君がご覧になりたいものがあるならば、まずはそちらから」
「無いな」
「それでしたら、まずは清浄の森へ行かれてはいかがでしょう」
「清浄の森だと?」
「はい。魔国領内において、もっとも魔素の少ない土地。それゆえに問題者が逃げ込む事も非常に多い場所で御座います」
「なるほど、魔の世界に溶け込めぬ者共が隠れ住むには、うってつけというわけだな?」
「はい。今後、どのような事があるかわかりませぬ故、是非一度ご視察を…」
「成程、記憶には留めおこう。だが見に行く程に興味は無い」
「ご興味、ですか」
「くくく、いっそ色町のほうが余程面白そうではないか。それに…」
「……?」
「それに、そこはつまり 魔国におけるスラムのような場所。魔素を正とし、浄気を誤とするこの魔国において、そこほど穢れた場所はあるまい」
「その通りでございます。ですが――」
「俺が何故、そんな場所へ出向かねばならぬ」
魔王にとって、それは断るに充分すぎる理由であった。
高貴であることも魔王として必要な資質。穢れに触れるなど、もってのほか。
しかしながら、近衛は説得を諦めるわけにはいかなかった。
院より賜った、良き近衛としての在り方。
魔王を魔王として育てるのもまた、その任なのだと忠言を授かったばかりなのだ。
「―――……」
近衛は、頭の中に一人の人物の姿を思い描く。
院とよばれる男に、数日前に呼び出された晩のこと。
もはや年齢を問うこともないが、長い年月を生きたのだろうことは見える深い皺に、鈍くはないが緩やかな立ち居振る舞い。だが、座していたにもかかわらずそれにしてなお王たる威厳を失わせぬ雰囲気を待っとった男だ。
『“王に穢れあるべからず”。邸内に出入りするものならば誰しもが一番に聴く言葉だろう』
『はい。自分も一番に習いました』
『穢す者などあってはならない。穢す物など近づけてはならない。臣下ならばこれを心がけよ』
『は。正しく努めさせて頂きたく…』
『だがお前は、臣下であって臣下ではないのだろう?』
『……?』
『東の近衛。お前の仕事は側近えであり、教育係でもある』
『畏れ多くも、自分に若君の教育などは役者不足も極まれし事…』
『なに、教え諭すばかりが教育ではない。私は未だお前を好いてはおらぬが、適任だとは思っている』
『……自分が… 適任…?』
『うむ』
『あの魔王は自尊心と我儘ばかりが強い。平穏の中で育ち、飢餓を知らぬ。穢されないがゆえに穢れないなど、どこぞの姫君と代わらぬよ。王に必要なのは、“穢れに触れても穢れない強さ”である』
『王に穢れあるべからず…。王自身の為の戒言であらせられましたか…』
『東の近衛。お前は魔王に歯向かい、逆らい、乱し、穢すべき者だ』
『!!! 何をおっしゃるのです、院! 自分は若君にそのような事…!」
『お前などに穢されぬ強さこそが、魔王に必要なのだ。それとも、お前ならば本当にあれを穢し殺せてしまうか?』
『っ! そのような事…!』
『やはりお前に適任だよ、東の近衛――……』