その者、天使なり
本殿・最奥の間――
カタ。
木組みの格子窓が音を立てる。
ひたり、ギシ と 冷たい床を踏みしめる足音。
がらんどうとした広い奥座の前で、それは止まった。
部屋を分け隔てるのは、大きく鮮やかな赤い御簾――
宵闇の中でほんのりと薄紫がかったそれは、元が布なのか植物なのかもわからない。
かすかに室内に入り込む冷気にさえ、柔らかく揺れていた。
「……っ」
御簾を挟んだ向こうで、息を呑む気配がする。
黒い人影はそれを感じ取りながら、またヒタリ、と歩を進める。
御簾の端にある 狐の尾のような房を引くと、ゆっくりと御簾が上がっていった。
伴って、格子から差し込む月灯りも 御簾の奥へと侵入していく。
静かに、隠されていたものが姿を現す。
「…何を怯えている、天使? まだ俺を見慣れぬか?」
「……っ 魔王…!」
漆黒の角を生やし、見下ろして微笑む魔王。
純白の羽を震わせ、怯えて見上げる天使。
部屋の中で対峙したのは、両極の存在だった。
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「っ! こ、こないで」
「もう、数十と月が昇ったというのに……。どうすれば慣れるのか」
開かれた御簾の中には、薄い膜のような結界が未だ張られている。
シャボンの玉か、あるいは巨大な水滴。
けれどもそれは蜃気楼のように霞んで、実体を持つものではない。
その中に囚われているのもまた、実体とは思えぬほどに儚げな天使だった。
「もう、やめてください! お願いです、私を天に帰して!」
「それは出来ない。言っているだろう? 俺はお前を愛しているよ」
「そんな…。そんな、こと…」
「ああ。小刻みに揺れるその羽……。今にも純白の粉雪を舞い散らせそうだ」
魔王が手を伸ばすと、伸ばした手の形に添って 結界は陥没する。
決して触れることは無い壁。だけれど限りなく“無い”に等しい障害物。
「っ」
「怯えているのでなければ、なお美しいだろうに…」
そんな“檻”の中に閉じ込められた天使が 決死の悲鳴を上げようとした時
格子窓の向こうから声が掛けられた。
「若君」
魔王が差し出していた手を引くと、結界もまた球状へと戻っていく。
ほっと息をつく気配には苦笑を禁じえない。
だが今は、邪魔者をどうにかするべきだろう。
魔王は格子窓へと近づき、階に跪く若者をつまらなそうに一瞥した。
「ああ…… 近衛か。なんだ」
「あまりその天使には、お近づきにならぬのが御身の為かと……」
「ちっ。無粋な事を」
近衛と呼ばれた若者は、魔王に睨まれても臆することはなく進言を続ける。
「差し出がましい事とは存じております。ですが、どうか」
「問題ない、この御簾の中には結界が機能している。こいつは無力だ」
「しかし、若君…」
「ああ…、それよりも、見てみろ近衛。天使というのはなんと美しい生き物だろう」
「……はい。まことに、仰るとおりで御座います」
「くく。まさかこのような拾いものをするとはな」
「……若君」
主君である魔王の瞳に愉悦の色を感じ、近衛は言葉をなくした。
魔王からこぼれる微かな嗤いの気配だけが空間を支配する。
それに耐え切れなくなった天使は、細い指で顔を覆い、譫言をくりかえす。
「どうして、どうして……。う、うぅ…」
「ほう……? 泣いているのか」
「ひっく……。うぅ…神様…」
「ははははは!! これは滑稽な」
「神様… 神様…っ」
「この魔王殿で助けを請うた所で、俺以外に誰が助けられるというのか。……どれ、よく見せてみろ」
銀色の鈴のついた錫杖が突き出され、
薄い結界越しに 天使の顎を持ち上げた。
「んぅ!!」
「……ああ。涙ですらも美しいものだな」
「いやっ、やめて!! 私に触れないで!!」バシッ!
「っ天使!」
コロン、と鈴の鳴る音
強く振り払ったはずの錫杖は、軽やかに音を立てるのみだ。
振り払う衝撃も、転がり落ちるほどの勢いも すべてが結界に吸収されて力を失っている。
「ああ、よい。近衛、よいのだ。この程度の無礼、赦さぬこともない」
「……はっ」
「泣き濡れる姿も良いが、やはりこれくらい気丈な娘のほうが扱いやすい…咎めは不要だ。クク」
「……御意に。 ですが、若君。そろそろ御簾をお下げになってはいかがでしょう…」
「ああ、そうだな。……まったく。この俺を魅せるとは、天使というのはたいしたものだな」
魔王に代わり、近衛が御簾へと歩み寄り 房を手にする。
「~~っ」ガクガク…
「……」
「どうかしたか」
「……いえ」
近衛は 身体を縮めて怯える天使の姿を視線の端に捉えながら……
ゆっくりと御簾を下げ、その姿を覆い隠した。