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二
次の日の朝。
十兵衛は見知っている長屋を歩いていた。長屋に住んでいる人間も、だいたいの顔は知っている程度に彼はここを歩いたことがある。
そして、大抵この長屋に行く理由はたった一つしかなかった。
長屋のうちの一番奥の部屋、そこに向かって扉を開ける。
「よう、先生。起きているかい?」
「……君がやってくるということは何か厄介なものを持ち込んだ、ということかね?」
眼鏡をかけた長身の男がすぐに出てきた。
男の顔を見て十兵衛は首を傾げる。
「先生、とても眠そうだぞ。きちんと睡眠時間は確保しているのか?」
「朝早くから君のような人間にたたき起こされて、私はとても不機嫌だよ」
「まあ、そう言うなって。きちんとお金は払っているだろう? ……今回もちょっと面白そうなものを見てもらいたいんだよ。鑑定、とでも言えばいいかな」
「それは医者じゃなくて、もっと見合った職業の人間が居るのではないか?」
「ダメだ、医者であるアンタじゃないと」
そう言いながら、十兵衛は紙包みを先生といった男に差し出した。
先生は疑問符を浮かべつつもそれを受け取り、開けていく。
「……何だよ、これは」
「なあ、言っただろう?」
「言っただろう、ではない。これは、どこからどう見ても……腐った人間の肉だ」
「やはり、予想通りだったか」
その言葉を聞いて、先生は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、
「まさか……噂の死体人間に出会ったのか?」
「その、まさかだよ」
十兵衛はニヒルな笑みを浮かべて、頷いた。
先生は目を丸くしたまま、その肉を見つめる。
「いやはや……私も噂では聞いたことがあるけれど、まさか本物を目の当たりにするとは思いもしなかった。これをどこで?」
「大通りに酒場があるだろう。あのすぐ裏道だ」
「となると敷島先生の屋敷か……。ははあ、成程。彼を疑うつもりは毛頭ないが、はっきり言ってあのあたりなら死体人間のような珍妙なものが現れてもおかしくはないな」
「敷島?」
十兵衛は小首を傾げる。
その名前には聞き覚えが無い様子だった。
「敷島敬之助。西洋医学の情報を取り入れている医学者だよ。……勿論、あくまでも非公式で、だけれどね。それがお上にばれてしまったら、どうなるかは明瞭だろう?」
それを聞いて、十兵衛は漸く思い出したようだった。
敷島敬之助と言えばこの辺りでは名の知れた医学者――だが、どちらかといえば学者で名が通っているのではなく、医者として名が通っているといえばいいだろう。
しかしながら、その認識はあくまでも一般庶民だけ。
同じ学者の目線から見ると、幕府に逆らって西洋医学を取り入れている命知らずという意見に統一されている。
「敷島敬之助、か……。そいつがもしかしたら死体人間の鍵を握っている、ということか?」
「可能性は有る。しかし……」
「しかし? ……いったいどうしたというのだ」
「敷島先生はここしばらく医者の仕事を休んでいる。どうしてそうなっているのかは我々同業者も知る由もないが……うむ、ここは気になるな。私もついていっていいか?」
「ついていく、とは」
「言わなくても、分かるだろう?」
先生はそれ以上言うことはなかった。
しかし十兵衛もまたそれ以上聞くことも無く、
「しかし……何かあったら守り切れんぞ? あの死体人間、それなりに強かった。まあ、一度しか剣戟を交わしていないとはいえ……その強さは理解できる」
十兵衛の言葉に、先生はうきうきとした表情で答える。
「死体人間に出会って、研究が出来るのならば」
それを聞いて十兵衛は溜息を吐いた。
よくよく考えれば、先生という男はリスクよりも好奇心を重要視する男だったことを、十兵衛は思い出していた。
もうここまでくると断り切れない――そう思った彼は先生が屋敷へと向かうことを了承した。