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2017年/短編まとめ

その傷口を撫でて塞ぐ

作者: 文崎 美生

「最悪」


バタァン、と勢い良く扉を閉めて室内に入ってきた彼女は、珍しく感情がそのまま表に出ていた。

硬い表情筋が動き、まるで苦虫を噛み潰したような顔を作っている。


長く伸ばされた髪が、彼女の後ろで跳ねるように動くのを見ながら、ソファーに横たえていた体を起こす。

今にも舌打ちをしそうな彼女は、前髪を掻き上げ、リビングに置いてある人をダメにするソファーに沈んだ。


「機種変しに行ったんじゃなかったっけ?」

「……しに行ったよ。ほら」


ガラステーブルの上に滑らされたスマートフォンには、既に新しいカバーが付けられていた。

手帳の形をした、猫と足跡が描かれたシンプルな可愛いもの。


「りんご?」

「まさか。泥」


スマートフォンを手に取りながら問いかければ、ソファーに見を沈めたまま答える彼女。

ぐったりとした様子で、眼鏡も外す。

外された眼鏡は、スマートフォン同様に、ガラステーブルの上で滑る。


スマートフォンの機種変更はしているが、基本形式の変更はしなかったようだ。

慣れている方が操作もしやすいのだろう。

無防備にも一度のタップで開くロックしか掛かっていないスマートフォンを、テーブルの上に置き直す。


「……機種変じゃなくて」

「じゃなくて」

「それが終わったから、お昼何食べようかなと考えてて」

「あ、何食べよっか。さっき冷蔵庫見たら、もうほとんど何もないんだけど」

「それはボクも冷蔵庫見てから考える」

「でもたまには外でもいいよね」

「そうだね。……いや、そうじゃなくて」


体を起こす彼女。

長い前髪の隙間から覗く黒目が揺れ、血色の悪い唇からか細い溜息が吐き出された。

逸れる話を戻すためにもう一度「そうじゃなくて」と言った彼女は、眉間にシワを寄せる。

今日は本当に良くない方向で表情豊かだ。


「それで車停めようと思ったら、目測誤って擦った」

「あー……」


頭痛がする時のように額に手を当てて放たれた言葉に、内心で合掌。

それから苦笑を漏らす。

本人は意気消沈というか、濁点の付いた「あ」で唸り声を上げている。


そこまで運転が下手じゃないはずの彼女――もちろん、そこまで運転が上手なわけでもないが――今日は珍しいことばかりだ。

テーブルに置かれた眼鏡を手に取り、そっとレンズを覗き込むが、俺の視力では鮮明な視界が逆に歪んでしまう。

ぐらりと体を傾けたところで、横から伸びてきた手が眼鏡を奪い取っていく。


「今まで大切に乗ってきたし、一ヶ月に一回は洗車してたし」

「別に改造とか好きじゃないのにね」

「汚いのが嫌なの。それなのに、フロント黄色移ったし、完全に剥げた所は灰色見えてるし。最低、最悪」


彼女の細指が持つ眼鏡がミシリと音を立てた。

細腕に細指で、血管の青さも目立つその手のどこにそんな力があるのか。

「落ち着いて、落ち着いて」どうどう、と両手を揺らしながら、そっと彼女の手から眼鏡を抜き取り、テーブルの上に戻す。


彼女の視力はなかなかに悪く、本来ならば裸眼で生活するのは不便に思うレベルだ。

フレームはともかく、レンズは度数が高く薄型にするために値段は釣り上がる。

そんなものを壊したとなれば、余計な出費が増えるだろう。


母音で唸る彼女の髪を梳くように撫で、ソファーに置きっぱなしにしていた俺のスマートフォンを手に取る。

テーブルの上にあった彼女のスマートフォンも取り、彼女の傍らに置いてあるショルダーバッグに入れておく。


「はい、立って」


ソファーにダメにされている彼女の腕を取り、はい、と引き上げる。

華奢な体の割に抵抗するつもりなのか、唸り声を大きくした彼女。

ほーら、と二の腕に持ち変えれば直ぐに起こすことが出来た。


「もう無理、死んだ。そうだ、死のう」

「またすぐそういうこと言う」


彼女の服の胸元に眼鏡を差し込み、リビングの片隅に置いておいたトートバッグに財布が入っていることを確認して持つ。

ついでにスマートフォンを滑り込ませ、中から眼鏡ケースを取り出せば、彼女が背筋を折り曲げるようにして立ちながら首を捻る。


「ご飯、食べに行こう。俺もお腹減ったし」

「……うーん」

「悩まないで行くの!」


どうしようかな、とでも言うように首を逆側に傾け直す彼女に、もう、と手を伸ばす。

細い指を掴んで「行くよ」リビングから引っ張り出し、玄関へ。

扉の開閉が乱暴だった割に、かかとの低いパンプスは綺麗に揃えられていた。


俺が靴を履けば、彼女も仕方なしに先程脱いだばかりのパンプスへと再度足を通す。

彼女が玄関を出たところで鍵を閉め、はいはい、彼女の背中を押してエレベーターへ。


エレベーターに身を任せながら、彼女は眼鏡をショルダーバッグの中に収めていた眼鏡ケースへ入れる。

逆に俺は眼鏡ケースから赤い縁眼鏡を取り出す。

度の入っていないレンズがはめ込まれた眼鏡は、所謂伊達眼鏡で、顔を見られるのが嫌だから印象を薄くするために使用している。

マスクと同じ様のものだ。


それを横目で見ていた彼女は、俺よりも先にエレベーターを降りてマンション脇の屋根付き平置き駐車場へ向かう。

癖のある黒髪が揺れるのを見ながら後を追えば、彼女の車が見えてくる。


四人乗りの軽自動車だ。

色は鮮やかは水色を基調にして白をアクセントに入れた明るいもの。

正直最初に見た時は、本当に彼女が自分で選んで自分で買ったのか疑った。


機能性重視だと公言していた彼女は、黒か白の二択だと思っていたのだ。

色とかどうでもいい、という言葉をイメージしていたのは、事実。

それでも最新のカーナビなどを搭載し、360度死角なしのドライブレコーダーも使っていた。

防犯意識が高過ぎるが、低いよりはいい。


そんな車よりも下手をしたら、補助機能の方にお金をかけている気がする彼女の愛車の前へ向かう。

昔の車よりも格段に曲線の増えた車体だが、確かにフロントには黄色と灰色。

鮮やかな水色が台無しだ。


「いやでも、これぐらいで済んでよかったんじゃない?廃車とかになった方が最悪だよ」

「それもう事故だよ」


確かに、と笑いながら車体の傷をなぞる。

指の腹でやわく撫でるのを見た彼女が僅かに前髪を揺らしたので、その奥では形のいい眉が歪められたのだろう。


浅く息を吐いた彼女が、着ていたジャケットのポケットから黒いキーケースを取り出す。

無地で、ボタンが二つ付いただけのシンプルなものだ。

それを投げ渡された俺は、飛び出していた車の電子キーを見下ろす。


「他人事だと思ってさ……」

「だって、俺の車じゃないもん」


笑い声を響かせながら、彼女が彼女の車の助手席に乗り込むのを見届ける。

最後にもう一度だけ車体の傷を撫でて、俺は彼女の車の運転席へ乗り込んだ。

隣では、彼女が「あーあ」という呟きと共に笑っていた。

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