第1章 -8-
その身からは想像できない早さでデイブスが海斗の懐に迫る。
たった一瞬のその光景が、不思議と海斗にはゆっくりと動くように感じられた。デイブスが踏み込んだ大きな右足も、剣を振りかぶる際の僅かな手元の隙も、全てが見える。
コンマ1秒の早さで近づく剣も、その木目がくっきりと見えるほどにしっかりと見える。
海斗は剣先が自分に振り下ろされる直前に、大きく後ろに跳ねた。視界に捉えているデイブスの身体が小さくなる。着地の衝撃が身体に伝わったときに、海斗は自身の身体能力が異常なほどに向上していることに気づいた。
「な、なんだこれ!?」
数秒前まで海斗が立っていた場所は3メートルほど先に見えた。そこには、今ではデイブスが剣を振り下ろした状態で立っている。デイブスの剣が海斗に触れる前に、大きく後ろへと跳んだのだ。
デイブスは海斗に考える隙を与えない内に、再び海斗に剣を向けた。先ほどよりも剣の振り幅は小さく、その隙は殆ど無い。海斗は無意識に右手を背に伸ばし、長剣を引き抜いてデイブスが剣を振り抜く向きの反対方向に力を込めて彼の剣を受け止める。
木と木のぶつかる鈍い音が海斗とデイブスの耳に響いた。
「へっ! 鈍臭そうに見えても、やっぱレベルMAXの勇者ってだけはあるんだな。」
「…口が臭ぇんだよ、このデブ野郎が!」
声を荒げるのと同時に、海斗はデイブスのまん丸とした横っ腹に大きく蹴りを入れた。足がデイブスの腹の脂肪にめり込む感覚が気持ち悪い。
デイブスは醜い呻き声を吐いて剣に込める力を斜め下へと落とし、大きく後ろへ飛躍した。
デイブスのせいで斜め下へと揺れた剣先を、ピタリと彼の方へ向ける。
デイブスは歪んだ細い目で海斗を捉えている。
「てめぇ、絶対に許さねぇ!」
デイブスは海斗の左側に大きく跳躍し、再度海斗に向かって剣を振るう。先程のように海斗は自身の持つ剣でそれを防ぐ。しかし、デイブスは左脇腹に刺した短刀を抜いた勢いでそのまま海斗のお腹を横に切った。
感じたことのない腹部への重みに海斗は目を細めた。しかし痛みは継続することなくすぐに収まり、大したダメージではないことを悟った。
海斗はいまだ至近距離にいるデイブスの脇腹に再度大きく蹴りを入れた。
鈍い音が夜の闇に響く。
「チッ!」
水分を含ませた音のする舌打ちをして、再び後ろへ逃げようとするデイブスを海斗は張り付くように追いかける。
デイブスは攻撃の後、油断するのか隙ができる。特に、攻撃によりダメージを与えた後は大きく隙が空く。だが、それ以上に隙が空くときがある。ダメージを食らって、逃げるときだ。後ろへ下がる瞬間、一瞬だけデイブスは無防備になる。
その瞬間を、決して見逃さない。
海斗は、隙だらけのデイブスのまん丸とした腹を目がけて横一文字に長剣を振った。
「ぅぐあぁぁっ!」
黄ばんだ歯を見せながら、デイブスは気持ちの悪い悲鳴を上げてしゃがみ込む。相当痛いらしい。剣を握ることも忘れてお腹を抱えながら、大きく身体を揺らしている。
「…勝負、あったようだな。」
大柄の男は小さく呟いた。彼は暫くデイブスを見つめていたが、小さく小首を振りながら溜め息をつき、海斗に視線を移した。彼の傷だらけの大きな手が上へ上がりきろうとする直前、耳障りな濁声がその動作を停止させた。
「待てっ!」
デイブスが立ち上がりながら叫んだ。その身体は少し、震えている。
直後、デイブスは海斗を睨むと一直線に突進した。その手には剣も何も握られていない。
「ぅうわあっ!」
デイブスの予想外の動きに、海斗の足は出遅れた。慌てて剣を横にして、デイブスの攻撃を防ぐ用意をする。
しかし、デイブスの突進はその剣ごと海斗を突き飛ばした。足元のバランスが崩れ、後ろに倒れ込む。尻餅をつくだなんて、何歳ぶりだろうか。
痛みでお尻に集中していた意識をデイブスに戻す。彼は、海斗の真上にいた。
デイブスは海斗を突き飛ばした後、大きく上に飛んだのだ。
海斗が避ける間も無く、重力がデイブスを落とす。
「ああああぁぁっ!」
ただでさえ図体が丸くでかいデイブスに、落下で加算された重力がかかり海斗の腹が押しつぶされる。
過去に味わったことのない痛みに視界が歪む。ニタリと気持ち悪く頰を歪めて嗤うデイブスと目が合う。このままだと負けてしまう。負けるわけには、いかないんだ。
「これで終わりだな、勇者ぁ。」
デイブスは、いつの間にか手にしていた短刀を海斗に振り下ろした。
しかし、その剣先は海斗に触れていない。と言うよりも、触れさせなかった。その剣先を海斗が握り、身体に触れることをさせなかったのだ。
海斗は剣先を握った手を身体の外側に引っ張った。剣先に体重をかけていたデイブスの身体の重心が崩れ、体制を立て直そうと視線が海斗から逸れる。
この瞬間を、待っていた。
海斗の握り拳が、デイブスの左頬を直撃した。
既にバランスを崩していたデイブスの身体は、そのまま海斗の左側へ転がっていく。デイブスの身体が地に着くことを確認する間もなく、海斗はデイブスの下から抜け出して長剣を構えた。長剣の先にいるデイブスは、頰を押さえて地面の上で丸まったままだ。
先ほど判決を下そうとした大柄の男は、デイブスに視線を落としている。デイブスは先ほどとは違い、ピクリとも動かない。大柄の男は息を漏らして頷くと、視線を海斗に移して右手を上げ切った。
「勝者、勇者様也!」
おおぉぉ!っと野太い歓声が辺りを包む。右手に残るデイブスの頬の感触が気持ち悪く、腰元で手の甲を拭った。
「流石は勇者様です。」
「私は勇者様が負けるなど思いもしておりませんでした。」
遠方から見ていた村人達がゾロゾロと近づいてくる。ふとデイブスの方を見ると、先ほど海斗の勝ちを叫んだ大柄の男がデイブスがの肩を担いでいる。
「皆んな、勇者様から離れろ!」
突如聞こえた声に、その場にいる人すべてが動きを止めた。声のした方に視線を向けると、黒縁の眼鏡をかけた一人の村人が海斗を見つめていた。
海斗に近づいていた村人達が、一歩ずつ後退していく。
「こんなことって…。」
海斗に一番近い村人が、同様に黒縁の眼鏡——SCGを掛けて海斗を見つめた。そして、目玉が飛び出しそうなほど驚いた表情で呟いた。
「勇者様のレベルが…下がっている…!」