第1章 -4-
女性は目線を海斗にずらした。彼女の口はポッカリと開き、肩の力も抜けたままだ。目も瞬きをしていないのではないかと思うほどに真ん丸と開いたままになっている。
「勇者様、紹介します。私の母です。」
ユフィルは女性の方に掌を出しながら言った。そういえば、こちらに来てからユフィル以外の人を紹介されたのは初めてだ。ここにくるまでに声をかけてきた村人達は、異界の者という奇異なものを見るような目で海斗を見るのみで、自己紹介という人と人との対話はされなかった。彼らにとって、海斗はサーカスに出てくる奇形の獣のようなものなのだろう。
ユフィルの声にハッとした女性はあわあわしながら縫い物と針をテーブルに起き、立ち上がって頭を下げた。
「え、えぇと。ユフィルの母です。以後、お見知りおきを。」
以後、お見知りおきを、と言う言葉に海斗はデジャビュを感じた。そういえば、ユフィルも言っていた。どうやらこの世界では、この挨拶が通常らしい。
「山尾海斗です。よろしくお願いします。以後、お見知りおきを。」
そう言い終わるとユフィルの母に合わせて頭を下げた。この世界の常識なのかと「以後、お見知りおきを」と言ったのはいいものの、言い慣れないために「イゴ、オミシリオキヲ」と片言にになってしまった。恥ずかしくなり、少し、顔を上げ辛い。
「それで、本当に異界の方なの…?」
ゆっくりと頭を上げたユフィルの母は、口元に手を当てながら訝しげな目で海斗を見ながら尋ねた。こちらの世界に来てからここまで来る間に、この目を向けられることには慣れた。しかし、ユフィルの母に、という所にモヤリとする。なんとなく、嫌だ。
「お母さん、これで見てみて。」
ユフィルは革の鞄から取り出したSCGをユフィルの母に渡す。鞄の中の取りやすい位置にSCGを置いたらしく、最初にSCGを取り出した時のようにガサゴソと漁る動作はなくなった。ユフィルの母はSCGを受け取ると、ゆっくりと顔の前に持っていく。動作のゆったりさがどことなくユフィルに似ている。ユフィルは母親似なんだろうな、と海斗は考えた。
ユフィルの母はSCGを通して海斗を見ると、えぇっ!と大きな声を上げて後ろに飛び跳ねた。海斗とユフィルは慌てて手を伸ばしたが手は空を切るだけで届かず、先程までユフィルの母が座っていた椅子に大きく尻餅をついた。痛そうだが、海斗を見るのに必死で痛みに気づいていないようだ。
「まさか、そんな、あなた、一体どうやって…。」
ユフィルの母はSCGを外しながら、途切れ途切れに言葉を発して自分の娘に尋ねる。ユフィルの母の目がユフィルの左手にある古い杖を捕えると、彼女の頬は赤く染まり、垂れ下がった柔らかい印象を与える眉毛は眉間に皺を寄せるとともにつり上がった。
「あなた!また勝手に持ち出して!」
ユフィルの母はガタリと椅子から飛び跳ねてユフィルに詰め寄る。華奢で小さな身体の何処からそんな声が、と思うほどの大きな声に驚いた。しかし、飛び跳ねた衝撃で椅子の脚が床に擦れて発生した、黒板を引っかいたような居心地の悪い音が海斗の思考を優先した。
「お、怒らないでよ。成功したのに、どうして怒るの?」
「怒って当たり前です!これがどれだけ大事なものかわかっているの?」
「わかってるもん!だから成功したんだよ!」
「もう…お爺様になんと言われるか…。」
「そう!今からお爺様にお会いしようと思ってるの!」
呆れたような口調で喋る母親に、ユフィルは嬉しそうに答えた。しかし、その返答はユフィルの母をより刺激させたようだ。ユフィルの母は肩を震わせている。恐らく怒りのせいだろう。
「あなた、自分が何をしたかわかっているの?」
先程までの激しい怒声とは打って変わり、彼女から発せられた声は低く重たい。
ーーいいか、海斗。女性を怒らせてはいけないぞ。
幼い頃に父親が海斗に言い聞かせた言葉を思い出した。
女性の怒りは恐ろしいもんだ。男の怒りとは違う。あれは人の皮を被った般若だ。
海斗がその言葉を実感したのは、10歳の時だった。海斗は父親のお気に入りのラジコンカーを勝手に借りて遊んでいるうちに壊してしまい、こっそり学習机と壁の隙間に隠し、父親にラジコンカーについて尋ねられても知らぬ存ぜぬで通していた。しかしそんな嘘は長く続くわけもなく、掃除中の母親にバレてしまった。その時の母親はまさしく般若の皮を被っているかの如く恐ろしい怒りを表した。海斗は壊してしまってごめんなさいと謝ったが、母親が憤怒しているのは壊してしまったことではなく、勝手に物を借りたこと。そして嘘をついたことだったのだ。
ユフィルの母が怒る様が、当時の母親と重なった。ユフィルの母も、きっと人の物を勝手に借りたことに怒っているのだろう。それは、ユフィルがどんなに素晴らしいことをしても許されることではないのだろう。
◇
「なぁユフィル。やっぱり、謝ったほうがいいと思うぜ。」
母親の問いにムッとした拗ねたような表情になって、
伝説の勇者様を召喚しただけだもん!お話ならお爺様にしてもらうもん!
…と答えて海斗を引き連れて部屋を飛び出したユフィルに、海斗は諭すように優しく言った。
ユフィルは驚いた様に海斗を見る。
「どうして? お母様のことなら気にしなくて大丈夫だよ。だって、私、勇者様を召喚するのに成功したんだもん!怒られる筋合いないよ!」
「いや、お母さんが怒ってるのはそういうことじゃないんだよ。」
「どうして勇者様はそう思うの?」
不思議そうに海斗を見つめるユフィルに、海斗は首を掻きながら答える。
「俺もさ、昔、父さんの物を勝手に借りたことがあるんだ。それで俺は壊しちゃって、借りたことも黙って部屋に隠したんだ。でも、まぁ、当たり前だけど母さんに見つかってさ。そりゃあこっぴどく怒られたよ。俺は壊したことで怒られてると思ったけど、違ったんだ。母さんは黙って人の物を借りたことと、嘘を吐いたことに怒ってたんだ。なんで怒られてるのか自分で気づくまで、俺は母さんに許してもらえなかったよ。」
天井とユフィルをチラチラと見ながら話す海斗の話を、ユフィルは目を大きく開けながら聞いている。
「怒られてる理由になんで気づいたのかは覚えてないけど、結局父さんに勝手に借りてごめんなさい。2人に知らないふりして嘘を吐いてごめんなさい。って言って許して貰えたのを覚えてる。」
ユフィルに話すことで、先程まですっかり忘れていた記憶を繊細に呼び起こした。そういえばそんなこともあったな。懐かしい。俺が謝った後、父さんと一緒に新しいラジコンカーを見に行ったっけ。
「ユフィルは、壊してはないけどお爺さんの杖を勝手に借りてきちゃったんだろ? 俺を召喚したってことの凄さは俺にはわからないけど、勝手に借りたことは謝った方がいいと思うぜ。それはただの泥棒と一緒だからな。」
「後で返すつもりでも?」
「もちろん。」
ユフィルは顎元に手を当てて考え込む。その様子に、海斗は考える人の像を思い出した。
10秒ほどその姿勢を保った後、ユフィルは小さく頷くと海斗の顔を見据えた。ユフィルの青い瞳は照明を反射し、キラキラとしている。
「勇者様、ありがとうございます!やっぱり、勇者様はかっこいいです。」
ここに来たときや時折海斗に向ける笑顔とは違う、目を細めて柔らかく優しく笑うその顔に海斗はドキリとした。ユフィルの顔はすぐにいつもの表情に戻ったが、海斗の胸は高鳴り、なんともいえないむず痒さが全身を襲う。耳元で鳴るような心臓の音がうるさい。