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蛙、うろの中。  作者: 里村
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 その日から、夜になると社に出かけて、ストレッチとヨガの運動がてら、うろの映像を流す方法を初美は探した。久も、色んな話を聞き出すついでに付き合っている様子だ。

 探すというよりは、思いつく限りのことをただやってみている、それだけで。現時点で、成果が上がっているようには、初美も久も思ってはいない。

 目減りしないスマホが、今では初美のレアアイテムでありストレス解消にもなくてはならない存在になっている。好きな音楽を聴き、目を閉じて、呼吸に集中して軽く体を動かす、それが一日の終わりに手放せなくなっていた。かつての自分を取り戻す時間のような、流れに少し逆らいたいがためのような、多少の意地もあるのかもしれない…と初美はどこかで思い当っている。ささやかな抵抗をしたいのだ、自分ではどうしようもない状況にいると。そう初美は考えて、ヨガの動きと音楽に身をゆだねる。この時間だけは、以前の自分と同じなのだと、そう思うことが、今の初美には必要なことに思えた。それが、心の寄る辺というか。

 ひとしきり体を動かすと、うろと社の周りを廻りながら、あの映像が流れないかと色々とやってみては「ダメね…」とあきらめることを初美は日々繰り返していた。あてずっぽうに思いついたことをしているだけだが、その時間になると久も社にやってくる。未来の経済状況などを久から一方的に聞かれて、なんとか知ってることを答えるようなやり取りで、概ね時間は過ぎていっていた。

「ねぇ~、久。なんで、結婚しようと思った?」

 脈絡のない問いに、久は初美をぎょっとした目で見た後で、少し考えを巡らせながら初美に問いかける。

「それは、適齢期だからだとか、お見合いをすればいいだとか、そういった一般論ではないんだな。個人的に俺への質問としてということか?」

「そう。どうして、雪ちゃんとってとこ」

「…前回、雪江がはっちゃんを突き飛ばしたこと、はっちゃんは覚えていないんだろう?」

「うん、ぜんぜん」

「覚えてないはっちゃんに言うのもためらわれるが…はっちゃんのおかげ、といったところだ」

「え?」

「雪江と俺は、およそ兄妹のような関係でいたんだ。俺は、ここから離れることは決まっていた。大学の近くに実家もある上、親もそちらへ転勤が決まっていたから、ここで過ごす最後の夏だった。その夏にはっちゃんがやってきたんだ。妹のように思っていた女の子が、一年ぶりに会うと様変わりしていた。…でも、その雪江の姿も一つの思い出になるんだろうな、と思っていた。…その状況が変わった起点は、はっちゃんだよ」

 そこで言葉を区切った久は、具体的なことを思い出したようで、急に声を上げて笑う。

「本当に、雪江は。今でこそ分かるけれど。はっちゃんを突き飛ばした時は、本当に驚いたよ。それまでは、あんな激情とは無縁の女の子だと、思っていたんだが…。はっちゃんには災難だっただろうけれど、あのことがきっかけで、俺は雪江と向き合うことにした。離れても、思いがあるなら…と」

 久は、照れを隠すため、初美のいない方へと顔の向きを変える。

「ふぅ~ん。なんか、カッコ良いじゃん。もっと、ぐだぐだ言い逃れしたりするのかと思ったわ。見直した、久」

「どこがだ。なかなか会いに来られない上に学生で、手紙のやり取りだけで雪江を数年待たせてしまって。親御さんに会わせる顔がないよ。結婚しても、雪江をここから連れ去ってしまうわけだから、自分の都合に両家を巻き込んで、自分だけが得をしているような、そんな気分になることがある」

「ううん?よく分かんないけど。時代が違うから、そういう考えになるの?転勤、親との別居、単身赴任も当たり前だし、シングルマザー、シングルファーザーも、そのうち珍しくはなくなるよ。堂々としてれば良いじゃん。雪ちゃんが幸せで、それが久にとって同じなら、それが一番だと思う」

 そう久に言いながら、少しずつ自分の事にも思い当って、初美は次の言葉を付け足していた。

「…けど、私は…他人のこと言ってる場合じゃぁないんだった…」

「あの男とのことか?」

「そう」

 顔は見えなかったが、うろの映像から察すると、少し線の細い男に、久には見えた。

「何か迷っているのか?」

「…うん…そう…なのかなぁ…自分でも、よく分かんなくって」

 初美は次の言葉を探す。出るようで出てこない、自分の感情に添う説明って、なかなか難しい…。初美はそう思って、開けた口を閉ざした。

「話なら、聞くぞ」

 久は、その初美の様子を見て、そう言った。

 その久の言葉を受けて、初美はまた言葉を探そうとした。自分の心にある迷いのようなものの正体は何なのだろうか、と。

「…私は…そうね、出会いから話しても良い?」

「長くなりそうだな、その話」

「まあ」

「時間はある、か」

 この短期間でも、久の人柄は初美にも分かるところがある。

 雪江への情がまっすぐだとするなら、久の他の人への情も同じくらいまっすぐだと感じていた。分け隔てはあるし、冷徹な部分もあるが、だからと言って横道に逸れたり湾曲したりする、そういう人間ではなさそうで。興味ある人物や物事へベクトルが向かう。その程度は違っても、そこに無駄だとか見下すような思考は感じられなかった。

「初めて会ったのは5年前。その前に付き合っていた男から、ばっさり切り捨てられてボロボロになってた時期があってさ。その底辺からの浮上時期に、会ったの、航平と」

「ばっさり?切り捨てる?」

「そう。それはそれはこっぴどく振られて。二股の上、私の方を自然消滅狙ってたらしくて、おっかしいなぁって思ってたら、ね。初めて何年も付き合った人だったから、ショックで。そんなやり方で別れようとされたこともだし、他人を信頼したり想ったりする根底が崩れたっていうか。…それで、すっかり自信も女子力も底をついて…人間不信みたいな感じになっちゃってて。そんな数年を過ごした私の前に、航平が現れて。友達の友達、いわゆるコンパで知り合ったようなもんなんだよね。それから、5年も付き合ってんだよねぇ、不思議。ここ最近は、週末はほとんど航平の家に泊まり込んでるし。出張あると、航平の家のが駅まで近いから、泊まらせてもらって早朝の便に乗ったり。そういうことが自然とできる相手、それが航平」

「自然消滅ってなんだ?はっちゃんは働いてるんだな?一人暮らしということか。男の家に泊まるっていうのは、その、常識的なことなのか?男も一人で生活しているのか?それも、勤めに出ていると一般的になるのか?食事はどうしてるんだろうなぁ。俺が学生だった頃は、兄と俺の分を姉が作りにやってくるから何とかなっていたし、今は食堂やカップめんや休みの日は雪江に世話になっているが…けっこう大変だ…食事のことも洗濯なんかも」

 久には、初美の話の中に出てくる事柄の様々な側面に、疑問が付いて回った。質問してからでないと状況判断ができないと踏んでいるのか、初美の話の筋そっちのけで物理的なことを、けっこう細かく聞いてくる。そのため、初美の話したい部分はなかなか進まない。

「久、それ、今、重要…?」

「ああ、悪い。つい、な。はっちゃんの話に出てくる様々なことが、興味深いんだ。これから日本が変わっていく、その現実感がはっちゃんの話の中にある。そう思える。実に、興味深い」

 レンジに冷暖房機、洗濯乾燥機や食器洗い機、そういった文明の利器に対する久の興味は深くて、ざっとした説明の後で質問が次々とやってくる。晩婚化や少子化、男女平等の現状、小さなセンテンスから色々なことを掘り下げて聞いてくる久に、初美は嫌々答える。自分の話が進まないのが一番の難点だったが、尽きぬ興味を無理やり閉じ込めて、久に話を聞いてもらったところでどうしようもないし…そんな思いもあった。

 結局、いつもより長い時間、久の質問に答えてその日も終わっていった。

 

 その日の夜、初美は夢を見た。


「やっぱ。なんか、会ったこと、あるよな?」

 そう聞かれたのが、会話のきっかけだった。

「はひ?」

 コンパでそんな話題はテッパンだろう、そう思って初美はそれを聞き流そうとした。目の前のアツアツの出し巻き卵のことで手一杯ということもあって。二つ目に箸を伸ばし、熱い熱いと思いながらも、はふはふと口へ放り込む、その贅沢を満喫していた。

 すると男が続けた。

「あのさ、ぜってー会ったことあるから。どこだっけなぁ…。あ、勤め先って、どの辺?あ、新婦と同じだっけ?じゃ、近いよ」

 その話題まだ続くのか…諦めてその質問に答えようと顔を横へ向けて、その顔がまともに目に入って、初美も思った。

「あら、ほんと」

「だろー、何か、見覚えあるんだよなぁ…」

 試しに、朝夕立ち寄る会社の近くにあるコンビニの店舗名をを告げてみると、相手の目が「おっ」の声と共に見開いた。

 そのコンパには、女子側の幹事から頭数をそろえるためと頭を下げられ、初美は参加していた。それが、失恋を引きずる初美を気遣ってという想いも伝わってきて、初美は断りきれない部分もあって。幹事同士が結婚目前ということもあって、数か月先の結婚披露宴に出席する人々を集めている、両方のお友達紹介という体裁を兼ねたコンパだった。結婚披露宴で会うから、無茶もしないだろうという目算もあるのかもしれない。だからか、大人なやり取りが続いていて、異業種交流会の域を出そうにもなく、キャァーとかワァとかハートを着けたやり取りも薄く、それなりの居心地の良さも感じていた。

 トイレや仕事の連絡が入ったり、席を立ったり開けたりする人がポツポツ出てくると、席を移動して「結婚式の準備は?」とか「ドレス決まった?」とか、女子たちは幹事の新婦に取材のごとく質問を投げていた。初美は、幹事の近くの席だったためそのまま居座り、聞こえた話に相槌を打ったり質問したりもしたが、他の女友達ほど色めき立てないでいた。どこか他人事で、絵空事で、自分とはずっとかけ離れた対岸の物語のように感じてしまって。

 その時、横に腰かけて声をかけてきたのが航平だった。

「そのコンビニ、よく行く?」

「会社の近くだから、寝過ごした時は朝ご飯を買って席で食べたり、残業したら帰りに弁当を買って帰ったり。週に2回は行ってるかなぁ」

「へぇ。昼は?」

「お昼は、社食、基本は。同期や先輩に誘われて、時々、あの近くにあるファストフードや牛丼とか蕎麦を食べに出たりはするけど」

「コンビニの裏手にあるパスタとリゾットの店は?」

 少し割高だが美味しいと聞いたことのある店のことだと、初美は思い至る。

「ああ、先輩に教えてもらった。けど、混んでるよね?」

「すげぇ、混んでる、特にランチタイムは。でも、夕方から七時頃は、比較的空いてるんだ。狙い目」

「ランチに、混雑して回転悪いとこは、行けない…私。夕方かぁ…」

 夕方そこへ行くなら、同期か先輩を誘って…と言っても、みんな早く上がる日は、だいたい予定があって、その日までの仕事をがんばって仕上げている感じがする。お一人様の私が、夕方の貴重な時間を、他の人に割いてもらうのもなぁ…。

 そんな風に考えて、夕方一人でそういう店に行くこともないだろうなぁ、と考えていると、

「僕、ランチタイムに一度行って諦めて帰った口。ほんと、混んでて。…なぁ、今度、その店行ってみない?夕食一緒にどう?」

 出し巻き卵の皿を初美に差し出しながら、航平がそう言って。

 最後の一切れを取りながら、初美は航平を不思議なものを見るように眺めて、「いいよ」と答えていた。


 何回目かの朝を、初美はその重い綿布団の上で迎えた。

「…ゆめ?」

 初めて航平に会った時の鮮明な夢を見て、初美は目覚めた。

「こんなこと、初めて…」

 なぜか心細くなってしまう。あんな夢、もう二度と会えない人のようじゃないか…そんな風に思えて。

「どうしたん?」

 隣の布団から目をこすりながら、雪江がそう問いかける。

「あ、ごめん。起こしちゃった?…なんか、すごくリアルな夢、見ちゃって」

「ん?…夢?」

「そう。航平と初めて会った時の夢、見たの」

「へぇ、良いなぁ。私、久さんと離れている時に見た夢って、怖い夢ばっかりやったんよ。誰かに追いかけられたり、久さんが女の人と歩いてるとこを物陰からのぞき見てたり、久さんから手紙が来んようになったり…」

 話しながらもてきぱきと、寝起きとは思えないスピードで布団を上げながら、雪江はそんな話をした。

「雪ちゃんは、心配性なんじゃない?」

「…そうかなぁ。臆病なだけやと思うとるんよ」

「自信まんまんで良いと思うけど。…私から見ると、とっても愛されてるし」

 ようやく、ごそごそと起き上がりながら初美は、雪江の方にニヤけた顔を向けてそう言った。

「いやぁ~はっちゃん、そんな恥ずかしいこと言わんといてぇ。いやぁ~」

 そう言って雪江は、顔を赤くして台所の方へと急ぎ行ってしまった。

「からかってる訳じゃないんだけどなぁ…」

 赤面する雪江を、素直に『かわいい』と初美は思う。

 羨ましくもあった。自分には持てそうにない、純粋で素直な好意をまっすぐに相手へと伸ばす、その雰囲気に妬けて。

「難しく…考えること…ない…の…か、な?」

 そうは言っても。

 戻れない可能性が少なくない。

 やって来ていない遠い未来の、最悪のパターンさえも考慮して動いていたいと、初美は思ってもいた。

 仕事でさんざん手を焼いた。いつでも、最悪の事態を予見して、それに備えておかないと足元をすくわれる。これで良いかなという程度ですり抜けていられなくもないが、細かい所への配慮を怠っては、物事が続かない。何度もドボンと落ちそうになる度に、先輩や上長が目をかけてくれてなんとなく成し遂げてこれたけれど。それでも、意地の悪いクライアントや上げ足を取る同僚や目上の人もいるわけで。自分ができることを、めいっぱいやっておかなければ、チームに迷惑をかける。その痛手は、けっこう根強く心に残っている、教訓とでも言ったところで。

 それが、一対一の関係でなら、なおさら。

 うっかりやってしまって、やっぱりやめたって、簡単にできるもんじゃないよね、結婚て…。

 小心者の小さなネズミが、心臓をバクバクとさせながら、それでも回し車でカラカラと手足を動かし続ける、そんな風景とも重なる。

 目の前のことで精いっぱいになってるくらいが丁度良い。

 それくらい集中してると、脇道も沿道も無視していられる…。

 自分も随分な小心者で臆病な人間なんだな、結局のところ。

 そんなことを初美は思った。







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