7
しばらく脱力していた初美に、久が声をかけた。
「一馬も清ちゃんも家にいるだろうから、ちょっと行ってみるか」
「ああ、それ良いね。二人とも喜ぶと思うわぁ。さ、はっちゃん、行こっ」
雪江はそう言って、顔を綻ばせた。雪江自身も喜んでいるように見える。
「あの…、雪ちゃん、なんでそんなに嬉しそうなの?」
重い腰をようやく上げて、うろから、のっそりと出ながら初美は雪江に問いかける。
「だって。せっかく久しぶりに会えたのに、すぐ帰るなんて、ちょっと寂しかったんよ。だから…」
「…」
それどころじゃないんだけどな。
そんな言葉を初美は飲み込んだ。それに、雪江の喜ぶ顔は、なぜか、悪くない気がする。自分にとっても。
「ごめんね。失敗したことを喜んでいるんじゃないんよ。はっちゃんともう少し過ごせると思ったら、ね、自然と…」
大きく息を吐き出すことで、初美はそれに答えた。
「はっちゃんの気持ちは…少し、分かる。それでも、一度、仕切り直しても良いんじゃないか。雪江の言うように、少しゆっくりして帰ったらどうだろう。それに、はっちゃんの話だと、ここで数日過ごしたからと言って、経過した時間のまま戻るわけではないんだろう?二人とも、間違いなく喜ぶと思うから」
慈悲を乗せたような計算を含んだような凪いだ目でそう言う久に、初美はどことなく乗せられているような気もしたが。
「他人事だと思って、雪ちゃんも久も。軽すぎ」
「軽いかどうか。でも、今できることが、思い浮かばないのも、事実だ」
そう続ける久に、初美は不機嫌な顔を向ける。
「雪江は、もう下まで向かっているよ。さあ、はっちゃんも行こう」
初美の視線をものともせず、久はそう言って、細く笑って、進むべき道へと手を向けた。
その後向かった先で、『わぁ』と歓声付きで出迎えてくれた一馬と清子。その既知の喜びに、初美はうろたえた。
自分を迎え入れてくれる雰囲気はとても嬉しかった。
覚えてない自分が残念でもあったけれど。
ただ、あっさり戻れると考えていた昨日の自分の思慮の浅さにも苛立って、その場にうまく馴染めずにいた。
何も思い浮かばないのだから、前回やっていた行動を少しトレースしてみようかな…。
そんなことに思いを巡らせて、場違いな自分の馴染めない心を見ないように過ごしていた。
その夜。
一馬たちの家から戻り、夕食の支度を手伝いながら、初美は雪江にそのことを告げた。ひどく心配そうな顔で雪江はしぶしぶうなずく。一緒に行くという雪江に「一人で行ってみたいから」と念を押して、夕食を食べ終わった後で初美は雪江を残して部屋を出た。
月がわずかに道を照らす。
昼間と違う様子にしり込みしつつ、社の麓の道にさしかかって初めてスマホのライトを点けた。数分で登り切ったそこにある社は、煌々と月に照らされて佇んでいる。
「何度見ても、そっくりだけど…」
腑に落ちず、裏手にある大木の根本のうろを背に腰を下ろした。
「このうろにしても…」
入口の感じも奥行きも、その大木の葉の茂り方も、あの社のものと瓜二つに思えるのに、自分の立つ場所はまるで違うのだから、初美の思考は何にも追いつけずにいる。
ふと、小さい頃から時々見る、遠泳の夢を初美は思い出していた。
泳いでも、泳いでも、スタート地点も見えず、ゴールも見えず。時々口に入る塩水と照りつける強い日差しに精神を削られながら、それでも、前方へと向かう自分の手と足の動きが重くもつれて…。
悪い思考へ入りそうになって、初美は首をふった。
スマホの電源を入れて、イヤフォンを耳に差し込んで、お気に入りの曲をリピートさせた。その音楽が体に入る感覚に身をゆだねて、軽くストレッチをしてみる。社の板間に上がり、数年続けているヨガのポーズを、気に入った順序で何度か繰り返して、沈む思考を別の物へと向ける。
自分にできることなどそれくらいしかないではないか、と、少しずつ諦めに似た境地もやってくるかもしれない。
それを、わずかに期待して。
目を閉じて、耳に入る音に身をゆだねる。
集中していると、揺れ動いた心が落ち着いてきた。何ターンか、好きなポーズを続けてやっていると、ふと何かの気配を感じた。
初美は片方のイヤフォンをはずした。感じた気配はただの草木のこすれる音だとすぐ分かった。が、それが人によるものだとも、すぐに思い至る。
逢引に使うとかなんとか、男たちが通り過ぎた時に言っていたことを、初美はふと思い出した。
―げぇ…。
本当にそうならば社の中で…と思いを巡らせて、初美はうろの方へ、そろりそろりと身を隠すべく動いて身構えた。
そこに現れたのは、久だった。
手に持った懐中電灯を弱めに灯している。久は、うろにそれを向けて、初美を見つけ小さく息をのんだ。
「びっくりした…。はっちゃん」
「それは、こっちのセリフ。何しに?」
「気になって」
「何が?」
「前回も、はっちゃん一人で来ていたから。もしかしたら、今回も来てるんじゃないかと思ったんだ」
「そうなんだ。私も似たような感じ、かな。前に来たっていう時のこととか、うろに突き飛ばされた時のきっかけとか何か、思い出さないかなぁって、思って」
よいしょっと掛け声をかけて勢いをつけて、初美は立ち上がった。
「どうだ?思い出せそうか?」
「ぜんぜん」
初美は久に向かって肩をすくめて見せた。久は、それに何度か頷いて返した。
板間に戻ってヨガの続きを始めた初美をちらちらと伺いながら、久は、うろや木や社の周りを自分なりに見回っている様子だ。ひとしきりそれを終えて、久は肩を落として初美に近づいてきた。
「目新しいことは、何もないか」
「久が見てそうならば、私が分かるわけないよねぇ…」
言いながらも、ストレッチとヨガを続ける初美を、久は見ていた。
「それは、新手の踊りか?」
「ヨガ」
知らないよね、と続けるのを留まった。
「…よ…が…?」
息を整えて瞑想のポーズを取ってしばらくすると、上がった息も落ち着いてゆく。初美が目を開けると、久がその場で右手を顎にやり何事かを考えこんでいる。
「どうしたの?」
初美が問いかけると、久はこちらを見る。
「ああ、何でも。それにしても、さっきの舞のような、不思議な動きだな。なにがどうって言われると難しいが…」
その久の言葉に適当に相槌を入れながら、初美は唐突に思い出した。
『すごい、お前、すげぇなぁ。何がってことじゃねぇんだけど、何か、な』
そんなことを言っていた人物の顔と表情がまざまざと記憶に浮上する。
どうして自分は…、考えても答えのないことを思ってしまう。
―航平…。
かつてなく、想いが募って、初美はうろのふちを思い切りつかんでいた。
その瞬間、ぼやっとしたゆるい明かりがうろの中から漏れてきた。
それを覗き込みながら、その異変に久が足早にやってくる気配を、初美は背中に感じた。そして、自分の目に映る現象に驚く。
ぼんやりとした光の中央で、不明瞭な動画が流れていた。浮かぶ3Dというか、そういうものがうろの中央に投影されているようだった。うろの方から見た映像が、鏡として映しだされているのだと、初めは思った。ようく目をこらすうちに、小さく映る社の手前、うろの淵辺りに男性の足があるのが分かって、その映像がただの鏡ではなく、別のうろから見える景色であろうことが知れた。何より、映像の中は、夕方のようで時間すら違っている。しばらくすると、その手前の足が、社の方へ向かって動きはじめる。一歩一歩遠ざかるその人のシューズ裏が左右交互に見えて、どんどんと全身の輪郭が露わになってゆく。
シューズの裏に刻印されたロゴを見た時に、「もしかして…」と思った。予感が確信へと変わる。ドキドキとせり上がる期待に、胸が焦がれた。その、歩く歩調や手の流れ、男性にしては細めの腰の雰囲気と腕から首にかける曲線、無造作に流した休日仕様の髪の流れー。
先ほど望んだ、見慣れた後ろ姿だった。
「こう…へ…い…」
初美のこぼした言葉に、久が絶句した後に声をかけた。
「なんだ…これは…」
見入っていた初美は、その問いにどきりとして、うろから手を放した。その直後、うろの映像は弱く薄暗闇に紛れていく。
久へ答えるよりも、うろの映像の方が気になって、急ぎ手をうろに戻した。
しかし、一度弱まった映像が再び鮮明になることはなかった。しばらく、『航平』と願ったり呼んでみたり、、握力の限りを尽くしてうろの淵を両手で握ってみたりしたが、さっきまでの映像が戻ってくることはなかった。その初美の様子を見ていた久も、初美が望んでやったことではないということは理解したのか、中を探ったり自分も叩いてみたり握ってみたりと、思いつくことをしばらく続けている様子だ。
「今の…なんなんだろうか…」
気が済んだ久が、初美の側までやってきて、そう問いかけた。
「なんだろう…」
「身に覚えがないってことか?」
「まぁ」
「あれは誰だ?」
「あれは、航平」
「…もう少し、答える意欲を見せてくれないか、はっちゃん」
苦笑いと共に久に言われて、初美は我にかえった。
「ああ、ごめんね。ちょっと、精神的ダメージ大きくて」
「ダメェジ?」
初美はもう一度、うろの中をのぞいてみた。もう、ない、いない。どうすれば会えるんだろうと、思った。そう考えて一瞬で、昨日まで毎日飽きるほど聞いていた声も見えていた顔も、この先、スマホの中でしか会えないかもしれないっていうことが、暗い実感として湧き上がる。
「それで、さっきのは何なんだ?」
「ごめん、私も分かんない。…なぜか分かんない…けど、あれは、私の彼氏で。なんであんな所にいるんだろうなぁって思って。で、会いたいって思った人の背中を見て、もう、それはそれは、どうしようもなく、本当に気が動転したよ。もう、手が届かないかもって考えると、胸がね、ギュってなるね、私のキャラじゃないけど。―せめて、顔、見れるとこまで、あの映像、映してくれても良いのにぃ。どっかにリモコンとか落ちてないかなぉ、もぉ…」
時々、分からなくなる初美の話す日本語に、久は眉根を寄せて考えながら、何から質問しようかと考えている。
「彼氏ってことは、婚約者や交際している人ということか」
「そんな感じ」
と、初美は答えた。
「あの見えていた場所は、ここに似ている…。でも、ここではない?ということは、はっちゃんの知っている場所ということか?」
「そう。似てるでしょ。私も同じお社だと思ってたんだよねぇ。それがさぁ、やっぱり違うんだよ。もう…ね、わけ分かんない…」
初美の言ってることも、時々分からないんだが…とは、久は言葉にできず、次の質問を投げた。
「ところで、はっちゃん。今回のきっかけは何だったんだ?」
「え?」
『きっかけ』という単語に違和感が湧いた。初美は久に説明を促す。
「何事にも起因はある。前回、葬式が終わった後でうろで眠って目が覚めるとここに居た、そう聞いた。僕なりにそれを考察すると、お婆さんが亡くなったことが、きっかけの一つなんじゃないか、そんな風に思ったんだ」
「へぇ」
祖母の葬式の終わった日、何か買い物に出かけて、帰宅が遅くなってしまったことがある。
自宅へと着いた時には、買い物を終えてから自宅までの記憶が、なぜか曖昧だった。それを不審に思われて、母親に詰め寄られたような。懐いていた祖母の葬式の直後ということもあって、過分な追及は逃れることができた。
「そう言えば…今回も、寝ちゃったわ、私。うろの淵で」
「そのうろを背に寝たら、ここで目覚めたってことか?」
「そう…たぶん。とても簡単に言うと、そうなる?のかな?」
「ほう」
「信じてんの?その、前回の私が言うことと、今の私の話」
「初めは…もちろん、半分程度と言ったところだったが。決定的となったのは、はっちゃんが消えてしまった後だ」
「消えたから?ってこと?」
「それもあるんだが、はっちゃんから聞いたことが起きた、起きようとしている、そのことに気づいた時に、はっちゃんの言っていたことが、じわじわと現実めいてきた、そういう瞬間が数年前にあったんだ」
「楽しそうだね…久」
「楽しい?いやいや、なぜか妙に動悸が上がってね。俺のことでもないのに。こういうこと、あるんだなぁと思うと、今までにない高揚感はあったか」
「納得できる?私はぜんぜん。いまだに信じられないけど」
「納得とはちがうけれど…信じるに足る何かがあった。他人に話したり、信じてもらおうとは思っていないが、俺はある程度は受け入れた」
「へぇ」
「今夜から、前回と同じように、色々とやってみるつもりだろう?俺も仕事を終えてから、付き合うよ。夜道は危ないからな」
まるで取って着けたような最後の一文に、「なんか、胡散臭いんだよ、久」そう初美は久に告げた。言われた久は、目線を落として小さく笑っている。
「それに、久、雪ちゃんにまた誤解されるんじゃないの?」
「それはないな。はっちゃんには悪いけれど」
まるで初美が欠陥をかかえているかのような言いように辟易して、初美は久を睨みつけた。
「こっちも、願い下げ」
「お互い様だな。…それに、いずれ戻るにしても。はっちゃんが雪江から不信を買わない方法なら、あるだろう。その、婚約者の話をしておけば問題ない、そうだろう?」




