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蛙、うろの中。  作者: 里村
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 あれ…

 目を覚ますと、強い森の匂いがした。

 背中に当たるうろの淵が痛い。少し体を動かして見上げた大木は、眠る前と同じで、堂々と枝葉を伸ばしている。それでも、目線を動かして見える周辺の何かが、初美がいたと思った場所と、違っているように感じた。

 暗くなっていた。

 また祖母の葬式後のように、眠ってしまったのだろうと、初美は思った。

 湿った匂いや風の抜け方が知っているものと違って思えるのは、おそらく時間帯のせいではないかと思い至る。

 立ち上がると、座っていたところが少し痺れたように感じた。お尻をはたいて草や土を落とし、足を延ばしたり曲げたりを繰り返して痺れをほぐしてみる。

 目線を上げた先に社が見えた。今まで座っていたせいで、葉の茂りや枝に隠れていたようだ。その社に、初美は違和感を覚えた。

「ん?綺麗になってる…?」

 明るい月の光に照らされた社は、眠る前に見たそれとは、違う輝きを放っているように見える。

 昼間見た社は落ちぶれていた、確かに。今見えるそれは、屋根瓦が月光に照らされて静かに輝いている。何より、瓦は抜け落ちていないし、格子蔵戸の筋が全部ある。

 一歩、また一歩と近づくにつれ、それは現実味を帯びてきた。

「きれい…」

 そんな感想が漏れた。

 威厳を取り戻したその佇まいに、初美は心を躍らせた。

「元々はこういう姿なのね、きっと。手を入れなくなった経年変化と風化って、建物にとっててきめん。残酷…」

 住宅メーカーの技術職として働いている初美は、そんな感想を抱いた。

「あ、まずい。今日、航平から連絡あるんだ…」

 ポケットから手繰り寄せたスマホを覗き込んで、初美は舌打ちする。

「げ、圏外」

 就職している場所なら時々あるその状況に、まさか、実家の近くで遭うとは思っていなかった。

「そんな電波弱い?ってか、ひょっとして、木?なわけないよねぇ」

 ブツブツと独り言を呟きながら、その周辺を探ってみていた。もう、時計は八時を過ぎている。「電波が入っていないか、電源が入っていない…」というアナウンスを航平が聞いてしまった場合を考えて、初美は頭を抱えたくなった。

 そうは言っても、実家の近く。

 そろそろ家に帰れば良いか…と、初美は思う。

 速歩きで十五分ほどで着くだろう、焦ることは無い。

 両親が帰路に着いている時間帯でもある。もしかしたら帰宅したどちらかが血相を変えているかもしれない。

「玄関に荷物、置きっぱなしって、また、言われるなぁ…。ほんと、一人っ子ってこういう時、なんだかねぇ…過保護っていうか…」

 一人っ子で得をしたこともたくさんある、それでもそうこぼす、まだまだ子供っぽい考えから抜けきらない自分に、初美はため息をつく。

「まあ、昼間、家に着いた時点で、出かけるって一本メールを打っとけば良かったのか。自業自得ってこと、今回も」

 スマホのライトを点けて、登ってきたところを探そうと、周りをぐるっと照らしてみた。

 うっそうとした木々や雑草が、色濃く影を落としている。少し不安になってしまう。あるはずの、登ってきた経路が、見つからない。

「うっそぉ…」

 ボディバッグを前に回して、ペットボトルの水を取り出した。一口含んで飲み込む。

 あわてたり焦ったりすると、祖母はよく言っていた。

―一回なんぞ好きなもんでも飲みこめば良いんよ。そしたら、気も落ち着くやろう。

 そんなことを。

 それでも、バタバタする初美を見ては、祖母はケタケタと笑っていた。

 しばらく、冷静さを欠いていた初美は、心臓をドキドキと泡立たせながら、ライトで探り続けた。本当にまずいことになっている気がして、どんどん心音は変に高鳴る。

「まさか、遭難…」

 いや、ない、近所だし…自分で突っ込みを入れながら、ライトをぐるぐると回すこと何周目かで、ようやく、一本のけもの道らしき筋を見つけた。

 それを道と呼ぶには、その胸の高鳴りが必要だったのだろう。

 初美のように、トレッキングも山登りもしたことない、街育ちの人間にとって、それは道とは言い難い。それでも、それ以外なかったのだ、その時は。

 すがるように、その筋に足を進める。

 登ったときに使った枝を探そうとしてあきらめ、足元に落ちていた短いが丈夫そうな枝を手に取った。登ってきた時と同じ状況だろうと思っていた。歩き始めて数メートルで、その道に意外と人通りがあることに気が付いた。蜘蛛の巣が張っていない。枝も伸びていない。道に生える草が短い。そんなことでも、少し安心した。

「いつの間にか、あの社に登る道が、もう一本できてたんだ」

 昼間、初美が登った道は、祖母と来ていた時と同じルートだった。小さいけど山の上にある社に、道がもう一本できていたとして、不思議はないよね?と、初美は一人で思う。 

 スマホのライトを頼りに歩く事三十分ほどで、もう少し開けた所に出た。T字路のようで、初美が歩いてきた方向からは突き当りになっていて、左右のどちらかへ進まねばならなかった。その左右どちらを照らしても、見知ったものは浮かび上がらない。先ほど通ってきた道の倍くらいの幅の土道があるだけだった。

 試しに、ライトを消してみた。もしかしたら、遠目に街の明かりが見えるかもしれないと思ったのだが、ライトが消えると、とたんに暗がりが広がった。月明かりがあるのはましだが、人工的な明るさが一切ない、木々のざわめきだけが聞こえる、そんな夜に身を置いたことがなかった。

 初美は、改めて、心細くなっていた。

 見上げると、きらきらと星が瞬いている。

「そっか、街灯がないから、星が綺麗に見えるってことか」

 そんなことを言って、出てきた自分の声が案外安定していることに気づいて、不安に塗り替えられていた頭の中に、少し光を見出す。

 もう一度、ボディバッグからペットボトルを取り出し、水を何口か含んだ。

 ホーム画面に戻して確認すると、やはり「圏外」が表示されていた。こうなったら、ライトを点け続けて充電が切れてしまうことの方が、懸念すべきことに思えて、初美は思い切って電源を落とした。

 慣れてくると、暗がりは真っ暗闇という訳ではなかった。

 その日は、満月のようだった。

 草や木の葉が、月光でつやつやとしている。ざざっと吹き過ぎてゆく風も、びくびくと下山していた時と比べると、段々と聞き慣れてきていた。

「おばけが出てくるわけじゃないし」

 今はとりあえず、人を探すことの方が先決だ。

 間違っていたら、戻れば良い。

 目印になるものを周囲に探ったが、見つけられなかった。とっさに、ボディバッグに詰めていたハンカチの一枚を取り出し、降りてきた所にある枝に結びつけた。

「航平が、待ってるし…」

 こうなると、拠り所としての航平が、効いてきた。

 何としても。

 今晩、連絡を取らなければならない気がして。

 手に持っていた枝を、くるくると回して手を離す。

 ぱたんと右手方向へ倒れた。

「さ、行こう。」

 ボディバッグをぎゅっと握って、初美は、枝の倒れた方へと歩みを進めた。


 歩き始めて、十分くらい、もう少し経っただろうか。

 何人もの人が急ぎ歩く足音と何かがガチャガチャと擦れるような音が近づいているのが、初美の耳に届いた。

 求めたはずの人の気配に、なぜかこみ上げる怖さを初美は感じた。

徐々に近づく、足音と人声。色々と思い悩んで、初美は、隠れることを選んだ。脇に避ければ、すぐ背の高い草木がある。虫や蜘蛛の巣やミミズなど想像できることはたくさんあったけれど、初美は意を決して茂みへと体を納めた。

 息を殺そうと、すればするほど、心音が上がる。

 何度も、背中のペットボトルを探ろうとして、思いとどまった。下手を打つと、覆水盆に返らず。こんな時に限って。上を見上げて星を見つめて、カシオペア座って習ったなとかギリシャ神話読んだことあったなとか、そういうことをなるべく考えようとした。

 月明かりの下、初美の隠れた茂みの前に差し掛かったその集団に目を凝らした。

 鎌を持つ人、野球のバッドを持つ人、スコップを持つ人、色々な手近な武器に替わる物を各々持っていた。何人かが、大きくて重そうな懐中電灯を持っている。男の人ばかりの集団で、服装に少し違和感を持った。

 暗いから、そう見えてしまうのか。疑心暗鬼のようなものか。疑おうとすれば、何でも疑わしいんじゃなかったか。

 農作業中のご老人とするなら、ありそうな服装とも言えるが、若い人もいる。

 長靴の人も草履の人も下駄の人も革靴の人もいる。

 何だろう、何の違和感だろう。

 前を通り過ぎてゆくその十人ほどの集団の背中を初美は見つめた。

「よっさん、こっちの方やったかいなぁ?」

 その中でも先頭を歩いていた年かさの男が声を上げた。

「いやぁ、わしゃあ、あっちの沢に住んどる人に聞いただけやから、よ~わからん」

 その同年輩とおぼしき人物が、それに答えた。

「そやけど、あの家から見えるなら、この辺しかないやろう、おっちゃん」

 一番の若手と思える青年が「おっちゃん」と言っているのが聞こえて、親戚か知り合いか、親しい人たちなのだろうと見当がついた。

「誰が最初に気ぃついたんかいね?」

「そりゃあ、あの配達途中とかの人やなかろうかね」

 聞いたことがあるな、という方言のやり取りに、少し心が凪いでいた。それでも、今、出てはいけないような気が、する。

 男の人たちは、その辺りで行ったり来たりを繰り返し、田んぼのあぜを巡り、社の方へも上がったようだが、がやがやと騒がしい音をさせて降りてきた。

「なんやったんかいなぁ」

「誰か、しけこみにきたんかいなぁ」

「寒いやろうになぁ」

 青年がそう言うと、小さな笑い声で他の年かさの男たちがそれに答えた。

「社の神さんが、ふうらりと出てきただけやなかろかねぇ」

「そりゃ、こんだけ月が綺麗に出とったら、一杯やりたくなるやろか、神さんでも」

 と、冗談を言い、ゲラゲラと笑い合いながら来た道を戻って行く。

 その背中を見つめて、ふと気づく。

―あれ、ここ、私の実家の近くのはずで…。

 背中につつっと冷たい感覚を、初美は持った。

―こんな話し方の人は、記憶にある限り、祖母だけで。

 男たちの足音と気配が、完全に闇にのまれるまで待って、初美は道へ戻った。

 酸っぱいものが込み上げてくる。

 勘だけに従ってここへ降りて来たものの、不安が増してしまっただけだった。どっしりとした疲れもあった。ちょっとうっかり眠ってしまって、暗い中、その社から下って道へ出ただけにしては、込み上げる疲労感にめまいがする。

 スマホを取り出し電源を入れてみた。

―圏外

 9時を過ぎていた。

 ボディバッグの中を探ると、プロテインバーが出てきた。数週間前の休日、会社で募集があった日帰りバスツアーに同僚数人と参加したことを思い出した。その朝、寝過ごして朝食抜きで出かける寸前、目についたそれを数本バッグに詰めていた。

 初美は、社に戻ろうと思った。

 少なくとも、8時間もすれば朝日が昇る。

 近所に出かけたはずの数時間後に、こんなことになるなんて、誰も思わないだろうけれど、なってしまったものは仕方ない。

「航平、下手な言い訳だなとか言って、また、眉毛寄せて、ヤな顔、しそうだな…」

 スマホの電源を切り、社への道を登った。降りてきた時より、ずいぶんと早く社に到着して、初美は怪訝に思う。

 それも一陣の風が通りすぎる一瞬のことだった。

 肌寒さを感じて、初美は急ぎ社の格子戸を開けて中に入る。

「おじゃまします…」

 きっと、ここの神様にもヤな顔されてるんだろうな、初美はそんなことを思いながら、足を忍ばせた。

 屋根があるだけでもありがたいと思ってはいた。

 社の角に腰掛けて、目についた座布団を数枚集めて並べ、プロテインバーをかじり、水を飲んだ。食べ始めると急に空腹を感じた。一本では足りそうになくて、ちびちび、食べる。水を飲み、食べて、水を飲み、食べて、最後にもう一度電源を入れてみて「圏外」を確認して、初美は座布団に寝転んだ。

 うっすらと差し込む月明かりに座布団の柄が見えた。それが懐かしく思えて、ふと祖母との思い出に繋がり、一人でいる寂しさと同時に小さな暖かいものが心に一滴染み入る。

 不安は強くあった。

 それでも、慣れない場所と感傷に揺れて、睡魔に押されてしまっていた。



 かさかさと木の葉を踏む足音が一対、社に近づいていた。

 キキッと軋んだ音と共に戸が開き、ざっと風が舞い込んで、初美は瞼をこすった。

「しーっ」

 その人は、入るなりそう言うと、急ぎ戸を閉めて、初美に近づいた。

「はっちゃん?」

 聞き覚えのない澄んだ少女の声に、初美はドキリとした。

「は…はい?」

 寝ぼけながら状況を理解して、少女を見た。

 社に窓は無い。格子戸の隙間から指す月明かりに目が慣れなければ、当分、見えない。ただ、シルエットから、細身で初美より少し低めの躯体が、分かった。

「良かったぁ。近所の人が騒いどって。何やと思って。でも、社の方やって耳にしてなぁ、来てみたんよぉ。私の勘も、まんざらじゃぁないやろぉ」

 そう言って、風呂敷を広げて、少女は中の物を取り出す。

 よく見ると、白いブラウスと長めのボックススカートのように見えるものが並んでいる。それと、赤い鼻緒の草履が入っていた。四角のアルミの容器も入っている。それを取り出して、その少女は、開いて初美によこした。

「はい、食べて。食べたら、これに着替えて。私、外で待っとくから」

 中には、大きなおにぎりが見える。

 唖然とする中、そう指示する少女に、初美は見覚えがあるような気がして、押しの強さのせいか親しみのせいか、そのままそれを受け入れていた。

「わかった。…ありがと…う…?」

「そういう言い方じゃあ、ダメやろう。相変わらずやねぇ」

 そう笑って言いながら、少女は、初美用の草履を手に取り「これは、外に置いておくから。それじゃあ、後で」と、社から外へと出ていく。

 残されたブラウスとスカートを手に取って眺めながら、初美はおにぎりを取り出した。塩味の大きめの三角おにぎりの中に梅干しが入っている。それが二つと、厚めに輪切りにした黄色いたくあんが角に数枚あった。ポリポリと噛むと、甘しょっぱい感じが、何か懐かしいような味だった。

 少し多いかな、と食べ始めたおにぎりもたくわんも、あっというまに初美のお腹の中に納まった。胃が満たされるとがぜんやる気が沸いた。見知らぬ少女の手助けがある今がその時と、前向きにとらえることができる。指示されたまま着替えをして、自分の服をふろしきに詰め込み、迷ってボディバッグも脱いだ服に重ね、風呂敷包みを背中に背負った。

 社の戸を開けようとして、話し声が聞こえて身を固くした。

「…やっぱり…あの……で、今は…」

「はっちゃん、……うちに…いいやろ…?」

「どんな様子……そやけど…」

 自分の名前が出たことを認めて、そっと戸を数センチ引いた。同名の人の話かもしれないと、万が一を考えて戸を引くだけで一旦は様子をうかがった。すると、少女が外から戸を開ける。

「着替えたんやね?良かった。久さんも来たんよ」

 そう小声で初美に声をかけながら、少女は戸を開ける。

 ひさし、と呼ばれた男がそこに立っていた。

 黒縁眼鏡に長めの髪が、さらりと垂れている。昼間は、きっちり固めているんだろうなぁというような雰囲気の真面目そうな人物がそこに居た。

「はぁ…」

 既視感を覚えて、初美は二人の顔を順番に眺めた。

「また、そんな、気の抜けた声上げてぇ。ほら、だぁれもおらんうちに、行くよ。ここいらは、たまぁに、逢引に使う人もおるからね」

 最後の一文は、少し目を伏せながら小声で、少女は言う。

「はっちゃんも、雪江も、はよぉ行かんと。話は後で良いだろう」

 暗いままの懐中電灯を手に持った男は、そう言う。

―たぶん、この人たちは、私のことを知ってるんだよね?

 誰にも確認できないが、そう確信して。初美は雪江と呼ばれた少女の後に続いた。

 


読んでいただいてありがとうございます!

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