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蛙、うろの中。  作者: 里村
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12

現代に戻りました

 航平(こうへい)は、初美(はつみ)が持ってきていた何かの資料だろうと、それを初美に手渡した。

 それを、初美は、いぶかしげに開封した。

 手紙と言うには、厚みのある古びた紙束が折りたたまれて、茶色の封筒に入っている。

 それを読み始めてすぐ、初美の様子が変わって、航平は気が付いた。ただの資料とかの類ではなかった、と。


 航平にとって、珍しい光景だった。


 初美の手紙を持つ手は、どんどんと強張ってゆく。


 読む目を休めない初美の腰を引き、航平は、社の階段の方まで連れてゆく。それに、初美は素直に従った。

 先に座った航平の足の間に引き寄せても、手紙に集中している初美は、躊躇なくそこに腰を下ろす。

 その手には手紙がぎゅっと握りしめられていた。

 肩を震わせながら静かに涙をこぼす初美を、航平は黙って、後ろから抱き寄せた。


 読み終えた初美は、息を深く吐き出して目を閉じた。

 そして、ざわざわと持ち上げられた感情に流されていた。

 こういう状態になることは、望んでいなかった。

 いつだって、そうだ、と、初美は思った。


「お前宛ての…だったんだ?それ」

 読み終えたことを確認して、航平から声がかかる。

 航平の声はいつもと同じだな、と、初美は思う。

「そう」

 涙で震える声が忌まわしく、初美は短く答えた。

 初めて何かを失ったと思った、その記憶が初美の中に蘇った。

 航平が見つけた手紙は、初美のそういう感情に繋がっている何かに共鳴していた。

 消しゴムや鉛筆やお気に入りのヘアゴム以外の大切なもの。独特の物腰と思考で幼い初美を導いた温かい眼差し。その眼差しは、距離を変えても時間を経ても、変わらなかったように初美は記憶している。思うだけでは届かない存在をまざまざと実感した時、強い焦燥感にかられた、それ。焦燥などという一言に納めきれない感情、それを表現するにはい大人すぎて子どもすぎた自分。

「それで、何があった?」

「なんだろう」

「そうか」

 短く答える背中からの声が、心地良く、頼もしく、初美は感じた。

 失うという短い言葉に、自分の思いは届かないと、初美は思う。そして、無くして初めて思う何かも、もうこりごりだった。三〇手前の大人なはずの自分でも処理しきれない問題が山ほどあることを痛感しつつ、その手紙の中に織り込まれた想いの色に、心が揺さぶられる。

 初美は、思う。失って初めて気づくなんて、もうホントに、要らないと。

「航平は、こんな私でも、良い?」

「どういう意味だ、それ」

「どういう…意味って…」

 底に沈む悪露に蓋をして、初美は今のことを思った。

 航平の前で、会社で、友だちの前で、親の前で、いつ頃からか出せなくなってしまった感情の波。それは、大人になったってことだと初美は思っていた。だけど、それとこれとはまた違った問題だ、ということもどこかで分かってはいた。

 冷静沈着、そう評されて、「違う」と声を荒げることもまた、子どもっぽいことだと初美は思う。

 他人からそう判断されるということは、そういうことだとも思っている。評価とは、自分でこう思っているっていう訳でなく、誰かからのの判断なのだから。

 話を促すように、航平は後ろから抱き寄せる腕に力を込めた。

「私ね、会社では冷徹だとか鬼とか言われているの。特に後輩にあたる人たちにね。実際、自分のやり方で仕事を押し通すし、顧客の前と社内で態度が違うのは当然だけど、下には厳しいし。自分が使えない側だった頃は、最低の若葉ちゃんだったんだけど、それは棚に上げてるし」

「誰でも、そんなもんだろ」

「そうなの…。なんだか、最近、自信なくなってきちゃって…」

「そういうことなのか?」

「…そういう…どういう…なんだろうね」

 分からない…そう続けた初美を、航平は後ろから抱きしめる。ふわりと漂う初美の気配に身をゆだねる選択を選びたくなって、航平は思考を変えるべく目線を(やしろ)の木々に移した。

「それで、決着ついたの、お前の悩み」

「違うんだよね、よく分からないけど、違うんだよ…。いつも、違和感があって、誰かが言う自分と、自分のお腹の底の自分とが、違ってて。本当は、細かいところにウジウジと悩む、小さな人間なんだよ」

「でぇ?」

「航平は、私の何を見て…る?」

 そんな弱気な質問を投げた自分を「情けない」と思った。初美にとって弱音とは、問題を解決できない自分へと繋がる。弱みとかではなく、活路を探す努力を怠っているように感じて、一歩引いてしまうのだ、それが自分であっても…。

「また、難しいこと考えてるのな、お前」

 航平は、眉を寄せていた。

「どうして、この社のこと知ってたの?」

「お前と、前、話したんだよ、たしか、酔っぱらって。その時に、冗談でマップ立ち上げて地点登録みたいなことしたんだろうなぁ。僕も、それ気づいたの、さっき、こっちに着いてからで。電車降りてから、ホテルまで行こうとしてマップ立ち上げると、フラッグがあったから何かなって見てみたら、神社で。ふっと思い出したんだよ、お前と話したこと。この社が、お前の婆さんとの思い出の場所だって、珍しくそういうことを言ってたことを…。それで、時間もあったし、チェックインして荷物置いた後、来てみたんだ」

「え、なんで、航平、こっち来たの?」

「あ?」

「え?」

「そこからかよっ」

「ん?」

 涙がようやく止まって、初美は航平の方へ顔を向けた。

「う。だから、昨日言ったあれ。本当に覚えてないんだ」

 不思議そうに見上げる初美に、照れたように困る表情を向ける航平がいた。

 初美もまた、その航平の表情に戸惑っていた。

「なんか、そんなモジモジしてる航平って…初めてだね」

「モジモジ言うなよっ。はぁ」

 大きなため息をついて、航平は肩を落とした。

「お前が…初美が、どうしてかは分かんねぇけど、答えを出せずにいるのは分かってる。僕の言い方も悪かったのかなぁっていうのも。だけど、これまでとそうは変化ないだろう。気持ちの問題、紙切れの問題、それが大きな問題で越えられないなら、いったん待っても良いんだ。だけど、初美が踏みとどまる理由によっては、僕は押し通したい」

 言葉を切って、航平は、見上げる初美を、見下ろす。その目に、何の恐れも迷いも見いだせず、航平は話を続けた。

「週末にはどちらかの家に泊まってたし、飲み会とか出張とかの足の都合によっては便利な方に帰ったり泊まったり。初美も僕も、月に一回くらいは連泊の出張が、今の部署のままなら続くだろう。帰宅時間だって、仕事の進捗状況や客の都合でマチマチ。早く帰れる日もあれば、遅い日が続くこともあるし、その繁忙期が終わればイレギュラーな休みがあったり。そんなだからさ、休みは合わないだろ。だけど、夜、帰るとお前がいると、嬉しいし、朝、お前が横で平和そうな顔して脱力して寝てんのも、嬉しい。会社も業種も違うけど、初美と僕の生活基盤が重なるってのが、変化の部分。それの何がヤなんだ?」

 初美の答える内容によっては、ぐさりと心に刺さるのかもしれない…そう思いながら、航平は初美を見て問いかける。

「何って…」

 いつもはポンポンと言葉を投げ返してくる初美の、答えを渋る様子を、少し笑って航平は見ていた。

「今日の初美は、可愛げがあるなぁ」

 ふざけた口ぶりでそう言われて、航平からの問いと真剣に向き合おうとして言葉を濁していた初美は、キッと航平を見やった。

「もう…これでも、ちゃんと考えようとしてるんですけどぉ…」

 初美は体をひねって航平の方を見上げて、軽く握った右手で航平を打った。それを受けた航平は、大げさに痛がって初美を笑わせる。

「僕がどうこう言って、初美を説得するような流れには持っていく気はないからな」

 笑った初美の頬に手を添えて、航平は柔らかく微笑んでいる。

「説得したいわけじゃない。初美の考えていることで、潰せる不安とか杞憂(きゆう)があるなら、潰しておきたいだけ」

「…そう」

 曖昧な返事をした初美を見て、航平は話を続ける。

「さっきの話の続きだけど、在り様は変わらない、僕も初美も。そりゃぁ、お互いの親への付き合い方は変わっていくだろうし、それに伴う雑事も年に数回はあるだろう。どっちの実家に帰省するとか、法事があるからどうのとか。それはお互い様で。幸い…というか、まあ、僕の実家も初美の実家も、遠いしなぁ。だからという訳でもないけど、他の日常は、今までと変わりなく続くんだよ」

 そこで言葉を切った航平は、初美の目を見て言葉を続けた。

「一緒にいられる、それが僕の望み。それだけは、強調したい。他の事なんて、付随してくる雑事にすぎないから。…分かるか?初美。他に多くのことは望んでないんだよ。一緒に居たい、その時間を伸ばしたい、できればそれを日常にしたい」

 そのセリフに、初美は目を見開いた。そして長く息を吐き出していた。

「僕も、男らしく、幸せにするとか何とか言えば良いんだろうけど。無責任なこと言えないからな。先に死んじゃうかもしれねぇし、事故で体壊す可能性もゼロじゃねぇし、お前の望みを全部かなえてやれるわけでもねぇし。ただ、長く一緒にいられる免罪符みたいなもんだと思えねぇ?社会的な、ただの免許書みたいな感じでさ。…で、何を考えてんのか、僕の方こそ、教えてくれよ」

 その初美の様子を見て、航平はそう言った。

「だって。私、繁忙期には寝に帰るだけだし、顧客の都合によってもそれは突発的に起こりうるし、そんな日には帰宅して色々したくなくて、お風呂入って寝たいだけだし。朝ごはん作る余裕ないだろうし、子どもだってまだ欲しくはないし。その子どものことだって、もう三十路なんだから急いだ方が良いってのも分かってはいるけど、仕事は面白く思えてきたばかりだし。引き継ぐ人材を見繕いたいし、自分で」

「そうだなぁ…。ただ、それへの答えは、僕、さっきすでに話してるからな。それ分かってるよな?」

 そう口をはさんだ航平に、初美はうなずいて答えて話を続けた。

「そう、それは分かってるけどね……私ね、仕事中はすーごく記憶力良いの。めちゃくちゃ。それがさ、家に帰ると燃え尽きちゃって、ぜーんぜんダメ。料理も嫌い。家ではゴロゴロしてたいだけ。誰かにつくすとか、誰かを支えるとか、考えられない。航平の事は…好き…だよ。じゃないと、何年も続いてないし」

 それを聞いた航平が「僕も」と程良い力で初美を抱きしめた。

 航平の腕にそっと手を添えて、初美は話を続けた。

「それに、良い人間じゃないし。後悔したことばっかり、時々思い出して落ち込んだり、ヤケ酒に走ったり。…自信ないんだよ。これからずっととか、これまでの自分を捨てたり飲み込んだりして、これから歩んでいかないといけないのだとしたら、自分には無理。それに、航平だって、実家出て何年も一人で生活してるんだよ。これから二人で生活してゆく、そのストレスって想像できてる?」

「そこ、問題にしてねぇし」

「一緒に住んでみて、思った以上にやっかいな女だなとか、やっぱり朝ご飯の用意はしろよとか、三歩下がって歩けだとか、それは女の仕事だろうとか、そういうことを航平が思ったとして、私はそれを内包して微笑んで愛情を注いで共に生きていけるような、大きくて深い器、持ってないからね」

「初美の器なんて、とっくに見積もってるから、大丈夫」

「小さいなとか、みすぼらしいな、とか、そういうこと思ってるんでしょ」

「そういうのはどうでも良いことだから。お前の器をうんぬん言えるような度量、僕も持ってねぇし」

「…ははは。それも、そうね」

 笑う初美を見て航平も笑う。

「心配で不安で居心地が悪い時があれば言って。一緒に酒飲んだり、散歩に行ったり、出かける計画を立てたり、僕ができることをする。その僕が出す手助けが、初美の心地良い所であってほしいとは思ってるが、ムリにそれに付き合うこともねぇし、ただ、そんな時間を一緒に過ごしたいってだけで」

 航平はそこで言葉を切って、初美を見つめた。

「だから、僕の手の届く所に居てくれ」

 航平のその言葉に揺らぎないものを感じた。初美にとって、まぶしいほどの強さがあった。それが自分に向けられていると思うと、それだけでも信じてしまって良いのではないか、と、初美は思う。

 迷う自分も、揺れる自分も、考え過ぎた自分も、全て自分自身でそれが事実。

 いつか、社からの旅の話も聞いてくれるだろうか。

「初美?今、がんばってかっこつけて言ったつもりなんだけど。無反応ってひどくねぇ?」

 航平を仰ぎ見た初美の顔は、晴れていた。

「偉いね航平。さすが、航平」

 棒読みでそう言う初美に航平は渋い表情を返した。

「うわぁ、かわいくねぇなぁ…」

「そんなの、とっくに知ってるでしょうに」

 どんな一面をさらしても受け入れようと躍起になっている航平の、その心が嬉しかった。

 あのうろから航平が見えた時の郷愁は、初美にとっての一つの事実だ。何にも代えがたい、そういう思いが心に満ちて溢れた、あの事実。

 背中から感じる航平の温かさも、また、唯一無二で。

 この体温がどこかへ離れてしまうことなんて、想像もできないし、したくもない。

 初美は思う、それが自分にとっての現実なのだと。色んな決まり事や人間関係の中にとらわれてしまいそうになって、感じたままで生きていけないとしても、心はこの温かさに沿っていたいと思っているはずだ。それくらいの我がままは、通しても良いんじゃないの?自分が出来損ないだとしても、欠点が豊富に思い浮かんでも、それでも良いと言っている人に添うことくらいの我がままは、持っても良いんじゃないの?

「初美、あったかい」

 黙った初美を航平はまた抱きしめた。

「私も。あったかい。…すごく安心」

 航平の膝の間に収まっていた初美は、くるっと回転して航平に向き合った。

「これからも、よろしくお願いします」

 そう言って初美は航平の胸に頬を寄せながら背中に腕を回した。

「こちらこそ」

 耳元で航平の低く小さな声が聞こえた。

 普段は自意識過剰ぎみで自信家の航平の声が、少し震えているように思えた。

 その声が、とても心地良かった。




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