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蛙、うろの中。  作者: 里村
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はじまり

 (くぼみ)みがある。

 うろ、って言うんだっけ、と初美(はつみ)は考えた。

 そう言えば、子どもの頃にもこの辺りにあった、たしか、祖母に連れられて…。

 既視感(きしかん)というにはハッキリとしていて、思い出と呼ぶには不鮮明な、そんな自分の記憶の縁を覗き込むような思いにかられた。

―その時、祖母は、何か言ってなかった?

 漠然と浮かんだその自問自答に、さらに(いぶか)しむ自分がいた。

「やめた」

 探し物が見つかりそうで見つからない時やとっさに思い出せない時、初美はすぐさま(あきら)める。仕事中は何が何でも探し突き止めるが、プライベートではそれをしない。

 ブーブーっという振動がボディバッグから聞こえて、そのうろのことから気が()れてしまった。

 初美は、スマホに手を伸ばし、1曲リピートを解除してアルバムのリピートに変更し、届いたメッセージを開いた。

『着いた?あれ、決めといて。夜、連絡する』

 仕事中だろう送り主の、その簡潔なテキストを見て、初美は深く息を吐き出した。


 その日、数か月ぶりに、初美は実家に帰ってきていた。

 新幹線で数時間、環状線と沿線を乗り継いで二十数分、その最寄駅からさらに徒歩十五分ほど。暑くも寒くもないこの季節の帰省は、帰省のトップシーズンと違って、座席にもゆとりがあった。有給を使って平日を休んで連休にしていたため、いつにもなく快適な旅だった。そんな無理をして思いつきのように帰省を告げた初美に、両親は『なんで?』と電話口で笑っていた。あれは何か感づいている時の母の笑い声だと初美には分かる。

 両親が仕事に出てしまっている実家の玄関に、植木鉢が乗った棚の奥に隠してある鍵で玄関を開け荷物を置くと、ペットボトルとスマホと小銭とその他小物をボディバッグに詰めて、初美は、再び外へと出た。

 かつて、祖母と一緒によく散歩に出掛けた(やしろ)を目標に。

 小さな山の忘れ去られた社まで続く雑草に(おお)われた道を、ざくざくと登って降りる。気晴らしを兼ねて、集中力を高めたくて、迷いを振り切りたくて、初美はそこを目指そうと、ふっと新幹線の車窓を眺めながら思った。

 ただの思いつきだったはずのそれに、初美は、(またた)()に心を動かされていた。

 懐かしい道を辿りながら、昨日の航平との会話が思い出された。

 考えているけれど、考えないようにしたくて、結論はほしくて、自分の中の様子が分からなくて。

 そういう優柔不断のような有様は、初美にとって、あまり経験のないものだった。

 このままここで暮らしてゆくのか…進路に思いを巡らせたある日、ひらめきのように舞い降りた疑問に、初美は一瞬で囚われた。高校までは実家から通ったものの、出ることの方が正しいように思えて、何の迷いもなく離れることを即断した。父の少々の反対には合ったが「できることをできる時に、やらせてやらんと、お前が恨まれるんよ」と祖母がにたにたと笑いながら言うと、なぜか父の懸念は霧散してしまったようだった。

 何より、初美はもう大学を決めてしまっていた。地方都市にある国立の大学に受かっていたのだから、父もそれほど反対できなかったに違いない。実家から通える私立大学や専門学校へ行くよりも、地方の国立大学に行って自活する方が、生活費を入れてもメリットがあるように算段していた。それを楯に、一歩も退く気はなかった初美に、祖母の援護は大きかった。

 結局その時の決断が尾をひいて、初美はその場所で職を得て実家に戻ることなく、はや十年目を迎えてしまっている。

―ままならないことも、時々楽しいことがあるのも、人生やから、少々のことは気にせんでええんよ。どうにかなる。

 かつて、そんなことを祖母はよく言っていた。

 背中のボディバッグが歩くたびに左右に揺れて、中のペットボトルもごろごろと振れている。

 揺れる度に次々に、思い出される細かな記憶の断片に翻弄(ほんろう)されながらも、初美は一歩一歩足を進めて、近づくそれに目を走らせた。

 社のある森が近くなるにつれ、その小さな隆起は、記憶の中よりも低いことが知れた。

 新しく建った家や集合住宅や商業施設の高層に紛れて、どんどんと見える隙間を奪われている。その(ふもと)までやって来て、こんなに小さかったのだなと、初美は改めて小さな驚きを覚えた。

 そして、足を踏み入れたその道には、草が生い茂り道の両脇の様々な角度から小枝が伸びていて、いたる所に大小様々な蜘蛛の巣まで張っている。祖母との思い出深い場所が、今や見る影もなく。

 蜘蛛の巣を拾った枝で払いながら、初美は、何度も、引き返そう、という思いにかられた。

 それでも、なぜか、そこへ登らないといけない、と、思ってしまっている。

 その思いも、なぜか、引き返そうとする思いに拮抗(きっこう)するほどの衝動を秘めてもいて。


「初美は、俺のあの言葉をどう受け止めてんだ?」

 真顔で問われて、後ろに一歩足を引いてしまった。その初美を、航平は見逃さなかった。

「で、どうすんの?」

 と、今までになく二の足を踏む初美に、航平は畳みかけた。


 その航平の言葉と表情を思い出す度に、初美の心に文鎮が沈む。

 あーでもない、こーでもない、と、背中で揺れるペットボトルさながら思考を揺らして、蜘蛛の巣と生い茂る草を払いながら進んでいると、少し開けた場所に出た。

 十年ぶりにたどり着いたそこは、記憶の中よりも、随分くすんでしまっている。

 おそらく、落書きをするような類の人たちさえも寄り付かないほど、人々の記憶から忘れ去られて久しいのだろう。

 祖母は、なぜ、ここに通っていたのか?

 その答えはさして重要とも思えず、初美は、また、考えを進めるのを辞めてしまう。

 何より、今は、無心になりたかった。


 初美が、最後にこの場所に来たのは、祖母の葬式の後のことだった。


 祖母は、初美が大学2年の時に()ってしまった。

 祖父は、そのまた十数年前に(すで)に亡くなっている。

 持病をこじらせて二か月ほど入院した祖母は、世間で流行っていた風邪をもらって、急逝(きゅうせい)した。

「ご臨終です」

 腕時計を見ながら事務的に告げる夜勤の若い臨時担当医に告げられて、かけつけた親せきに紛れて、初美はその様子を眺めていた。

「それはそれは、仲の良いご夫婦で…」

 弔辞に訪れた近所の人々が口々に言っていたその夫婦像を、初美ははっきりしない思いで聞くともなしに聞いた。耳に入ってきた、という方が正しいのかもしれない。お通夜に集まった近所の手伝いのおばさんたちの話の中や、葬式の後の親族の会食中に、誰彼となく口に乗せる思い出話。上げ足を取るような話も口さがない話も出てはくるけれど、どれも少しずつ酒が入った人々の頭で笑い話になった後、「そうは言っても、あの二人は仲が良かったよ。今頃はじぃさんが迎えに来ているさ」とそんな風に()()が着いた。

 長男と結婚した母は、その通夜から葬式に至る様々な雑用を引き受けており、父が表で対応している分、母の雑務は多くあった。

 そして、一人っ子である初美のやるべきこともまた、意外と多くあった。

 当時、大学生だった初美の初めてのアルバイトは、進学先で住んでいた学生用マンションの一階にある居酒屋で、よく聞く話だけど、確かに、それはその場で役に立った。会食中は特に、酒や飲み物の補充、急な来客の対応、靴が無いという酔っぱらいの靴探し、タクシーの手配や旧知の方へのお見送りなど、親について回っているだけで、多少の雑用が言い渡された。そんな時、無駄だと思えたアルバイト中の立ち回りが、効いて。「はっちゃんも、ちょっと座ってご飯食べなさい」気を利かせた親せきが声をかけてくれる度、かえって作業が中断させられる思いに駆られた。

 そして、祖母の言っていた、

―人生、無駄なものなんてありゃぁ~せん。

 それを、田舎の方言ごと思い出した。

 初美は、おばあちゃん子だ。

 祖父母の家の徒歩圏で生活を始めたのは、初美が3歳の頃と聞いていた。

 両親は共働きで、初美は、気付けば祖母の家にいた。祖父は初美が小学校の頃に亡くなっていて、初美にとってそこは「祖母の家」だった。

 祖母は、父が子どもの頃に田舎からこちらへ移住していたにもかかわらず、なかなか方言の抜けきらない人で。

「はぁつぅみぃ~、こっちぃ、おいでぇやぁ」

 と、庭で祖母が大声で初美を呼ぶと、春はちょうちょうが、夏は蝉の抜け殻が、秋には実った果実が、冬には南天の実をつつく野鳥が、見えた。

 そんなチラつく残像が、酒を会食場所へ運んでは戻す作業を繰り返す初美の頭の中でチカチカしていた。

 労働と作業と短い睡眠を繰り返して終えたその数日は、夢見心地で、現実との齟齬(そご)を初美は思った。

「明日から、また、大学だったよね。バイトは今週末からだった?明日の朝、戻るのよね。色々、無理させたわね。明日、どうしても戻らないとダメなの?」

 喪服を脱ぎながら、矢継ぎ早に問いかける母に、

「そうだ、明日のゼミで要る材料があったっけ…。明日の朝戻るには…今買っておかないといけないからぁ…ちょっと出てくるね」

 と言って、近所のモールを目指して初美は家を出た。

 この数日の疲労と浅い眠りのせいで、足取りも思考も、初美から少し離れた所に在るような気がした。

そして、買い物を終えて家へ戻りながら、好きな曲をヘッドフォンで聞きながら、数日手を付けてない既読メッセージに返事を送りながら、ようやく心の臨界がきた。

 勇ましく歩く初美の目からは、ぽとりぽとりと涙が流れ始めていた。

 大学へ進学してからは、長期休暇中も、バイトがあったり、友だちと旅行したり、コンパがあったり、 色んな理由はあったけれど、帰省するのは年に2回ほど。それも、一泊すれば良い方だった。

ホームシックになるよりも、目新しい出来事に夢中になって、没頭していた。浮かれていたと言っても過言ではない。

 初美は、それを、今更、悔いていた。

 そして、そんな初美を見て、祖母が言いそうなことも思い浮かんだ。

―気にせんで、ええんよ、はっちゃん。若い人には若い人で、やることがあるんやからね。

 涙が止まらなかった。

 どうしても、心を静めたくて、初美は、数年ぶりに祖母と登った思い出の社へ向かった。

 街灯もないそこへ登るのはためらわれたが、その涙が止まるまで、どこかに身を隠したくて。

 夕日が沈むよりも早く暗くなった社の横にある、大木の根元のうろに背中を置いて、初美は枯れるまで泣く事に、決めた。

「ちょっと、どこまで行ってたの?何回もメールも電話も入れたでしょ。心配だから、遅くなるなら連絡してよお」

 帰宅すると出てきた母は、初美の赤く腫れたまぶたを見て察して、それ以上追及することはなかった。 ふらっと買い物に出かけたにしては遅い帰宅に、苦言をぶつけられても文句は言えない時間だった。


 あの日も、何かあった?


 せり上がる自問自答に、また、初美は蓋をして。

 

 あの日、祖母の葬式の日にも、そう言えばここに来たんだ。それを思い出して、初美は、あの日と同じその大木の根元に腰を下ろした。

 航平からのメッセージに何と返そうか、初美は悩んでいた。

 あの日と同じようにうろの縁に背中を預けて、読み直しては消して、もう一度数文字打ってやめて、最後には面倒になって『了解』と送ってしまっていた。

「しかも、スタンプって…」

 全て伝えるならば、会って言いたいと、思っていた。それを伝えるとなると、説明が必要で。

 文章だと、イントネーション一つで変わってしまうニュアンスを、誤解なく伝えたいと初美は思った。そして、それをこのアプリで送るには、長文過ぎて抵抗を感じる。それでついに『了解』と一言送ることを選んでしまった。

 ようは、逃げ。

 分かっていてやってしまった、逃げの一手。

「航平、ふざけてるって思うよね…きっと」

 送ったスタンプのふざけたキャラクターを見ながら、初美は誰も居ない社でつぶやく。

 ふと顔を上げると、木々の茂りが天井を作り、木漏れ日が降り注いでいる。

 祖母は、ここが好きだった。

 初美は少し思い出す。

 うろから漂うひんやりとした冷気が、頭を冴えさせて。

『初美は、俺のあの言葉をどう受け止めてんだ?で、どうすんの?』 

 昨日のそのセリフを思い起こして。

「了解って送っちゃったけど…どうすんだろう、私…」

 ループさせたアルバムは最初の曲に戻っていた。それは、初美が寝る前に好んで聞いている曲だった。いつもの調子で、目を閉じて聞き入った。少しおだやかな曲が耳に心地よく、今の初美の沈んだ心をやさしく撫でてゆく。

 思いつきで、また、1曲リピートに切り替えてみる。

 眠ったとしても。

 一度経験してるから。

 それで、なんとなく安心してしまって。

 初美は、目を閉じて、社を抜ける木漏れ日と風に身をゆだねた。







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