4.2km地点
8歳の時、家に教科書を忘れた。確か算数の教科書だったと思う。
しかし慌てはしなかった。ズボンの左ポケットにある懐中時計のボタンを押すと、家まで取りに行ける。その時もそれで切り抜けた。
身体測定の日。僕は身長が学年で1番高かった。実は1年生からずっと1番だった。本当は小さくなりたかった。背が高いと視線が自分に集まっているように感じるからだ。
学校が終わると、よく公園で遊んだ。
「もう6時だから帰ろう」
1つ年上の姉が言った。もっと遊びたいと思ったら懐中時計のボタンを押した。その時は1人になってしまうのだが、もう1人にも慣れていた。
家に帰って宿題をする。終われば家の中で遊んだ。母がもう寝なさいと言っても、眠たくなければ時間を止めた。そのまま眠ってしまうこともあったが、その時はまた眠くなるまで散歩をしていた。小学生の僕には夜の町がダンジョンだった。
学校でテストがあった。さすがにカンニングはしなかった。カンニングしなくても小学校のテストは100点くらい容易い。
そう思っていたら、あるときケアレスミスをやってしまった。時間を巻き戻すことはできないかと思って懐中時計のボタンを長押ししたり、2回続けて押したりしたが、時間は止まるだけだった。時間を早めようとしてもできなかった。
「何やってんだ?」
懐中時計をいじっていると、友人のタクミが寄ってきた。いや、厳密には友人ではなかった。僕とタクミの思い出は嫌なことしかない。タクミは困っているクラスメイトに息を殺して近づき、背後から大声で「あー! こいつ何かやってるー!」などと言ってさらに困らせてばかりいた。しかも力士のような体格をしていて、僕が逆らえる立場ではなかった。
だから懐中時計のことがタクミに知られたらまずいと思い、何でもないとだけ言って、またテストの点数をにらんだ。95点。
放課後、またタクミが僕の机に向かってくる。嫌な予感しかしない。
タクミは慇懃無礼という言葉がそのままあてはまる笑顔を浮かべていた。
「なあ、ポケットの中、何があるんだよ?」
「何もないよ」
「それはないな。ほら出せよ」
タクミはやはりヘラヘラした笑みを浮かべて僕のポケットに手を突っ込んだ。タクミの太い右手で懐中時計のボタンが押された。
タクミの腕が止まった。誰が押しても僕以外の時間が止まるらしい。タクミを離そうと思ったが、なかなか動かない。時間が止まっているから動かないのだろうと思った。試しにクラスの中で1番軽そうなユキトを動かしてみた。簡単に動いた。この男はちゃんと食べていたのだろうか。心配だ。
タクミを動かせない以上、自分が動くしかなかった。学校を出てしばらくしてからボタンを押した。道端に浮かんでいた枯葉が落っこちた。




