位置について
6歳だったある日、僕は家族でキャンプに出かけた。キャンプ場近くの山で遊んでいたら、崖で足を踏み外した。
崖は1m程度だったので怪我はなかった。左手で頭をさすりながら顔をあげると、目の前に女が立っていた。
確かに落ちる前には誰もいなかったはずだ。女は、山に不釣り合いな赤い振り袖を着ていた。
「大丈夫でしたか?」
女は僕に話しかけた。過去形で聞かれたのが不自然に思ったが、僕は「大丈夫です」と答えた。
女は辺りの木々を見渡しながら続けた。ひっそりとしていた。
「耳を澄ましても、何も聞こえないでしょう? あなたは今、時間の外にいるのです。ですが、あなた自身の時は流れています。もちろん、私も」
僕は女の言ったことがよくわからなかった。しかしどうやら、僕と女以外の時間が止まっていると言いたいようだ。
「あなたにこの懐中時計を差し上げます。このボタンを押すと、あなたを除いて時が止まります。もう1度押すと戻りますから押してごらんなさい」
僕は言われるがままにボタンを押した。
急に強い風が吹いた。
「では私はこれで」
その声が聞こえたかと思うと、あの女が消えていた。にわかに全身が痛み出していた。
全て夢だったのだろうか。そう思ったが、左手には懐中時計が握られていた。
そのままキャンプ場に戻ると、父が炭に火をつけようとしていた。試しに懐中時計のボタンを押した。途端に父が操るバーナーのボボボという音が消えた。火の中に指を入れても熱くなかった。
「お父さん?」
父はピクリともしなかった。それが何故か怖かったのを覚えている。母も姉も喋らない。動かない。
自分が取り残されていると思った。現にその通りだった。
不意に涙がこぼれた。優しい母はいつも慰めてくれたが、この時は何もしてくれなかった。今考えれば当然なのだが、それが嫌で嫌でたまらなかった。
どれだけ泣いていただろう。太陽も止まっていたので見当もつかない。泣き止んだ僕は、懐中時計のボタンにようやく気がついた。カチッ、という音が聞こえた。
「あれ、カズマじゃないか。もう戻って来たのか?」
父が僕に気づいてくれた。母と姉も、突如現れた僕に少し驚いていた。
どうやらこの懐中時計は、本当に時間を止めていたらしい。




