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共食いグール

 この世界に、意味の無いものなんて無い。


 そもそも無意味ならば存在も無いのだから、何にも認識されないそれは無いのと同じだ。


 だが、例外というものは存在し、同時に矛盾というものも存在する。


 結論。無は確実に存在している。


 その証として、今の俺がいた。









 ひたすらに何の気力もない。


 蒸し暑い部屋には張り切りすぎなすっからかんの冷蔵庫の音が響いている。テレビ、本棚、布団、冷蔵庫、キッチン。たったそれだけしか家具の無い殺風景なワンルームの部屋には、当然の様にエアコンはおろか、扇風機すらない。


 窓を全開にし、パンツ一つで横たわる程度では全くもって暑さは和らがず、日中の無駄に強い日差しと、食料が無いという現実が、俺の体力を確実に減らしていく。終わりはみえかけていた。


 しかし、俺はまだ死なない設定らしい。こんなピンチの時には頼んでもないのに駆けつけてくる正義(?)の押し売りヒーローが、今回も誰もしてない期待を裏切らずに部屋のドアを開けた。


「飯、持ってきたぞ」


 ドアから無断で入ってきたのは短い黒髪の少女。いや、少女と言うのには語弊があるか。なぜなら、そいつの目はもう既に大人のような死んだ目をしているからである。一切、希望や期待という光の無い、社会や人間の汚さを知りすぎた死人の目。その目は狂気や畏怖よりも、同情してしまうような瞳であった。


「…何日、飯を抜いた?」


 彼女は俺の顔を見て業務的に聞いた。答える気力すら死滅した俺の目を見て、彼女はため息をついて俺の横に座り、黙々と食事を始めた。


 人間が食事を行うことは別になんらおかしくない。そもそも、生物が生きるために栄養を取るというその行為は、完璧なまでに日常的であり、場合によっては微笑ましい光景になるのだろう。しかし、




 それが共食いなら狂気の光景である。




 彼女は当たり前のように自分とよく似た形のモノを食らう。異常に発達した大きな犬歯が肉を引きちぎり、骨を噛み砕く。


 傍らにあるコンビニの色付きビニール袋からは、人の腕が三本ほど飛び出している。腕が袋から生えているというその奇妙なオブジェは、見慣れていない、真っ当な人ならば失神ものだ。第一、見慣れた俺でも吐きたくなる。


 鈍い音が数十分続き、彼女は腕三本足二本、おまけに腸をうどんみたいにすすって食事を終えた。


 血の臭いが鼻につく。腹の虫は空気も読まずに喚きだした。


「そろそろ諦めたらどう? お前、本当に死ぬぞ?」


 彼女は俺を見下ろしながら敗北を迫る。そんな言葉に、俺は皮肉でも返したいところだが、生憎、体力が尽きかけているため、口は息を吐くだけに終わった。


「はぁ…、死なれて困るのはオレなんだが。仕方無い、許せ」


 彼女はそう言うと袋から人の一部を取り出した。最早ただの肉塊であるそれはどこの肉かわからない。だが、彼女がやろうとしてることは予期できた。


 彼女の手で無理矢理口を開けられる。抵抗する力はない。彼女は肉塊を一口噛みちぎる。何故か、その姿に一種の芸術的な感覚を覚えた。


 ニ、三回肉塊を咀嚼した彼女は、俺の唇に唇を重ね、ドロドロになった


肉塊を口内に流し込む。


 気持ち悪い。最初の感想はそれだった。だが、その半液状化した肉が喉を通る時、俺は最悪なことに、旨いと感じた。


 その時、俺は改めて理解した。


 自分が本当に人食いになってしまっていることを。










 暗い闇。


 周りを見渡しても何も見えず、何も聞こえず。五感が正確に機能しているかもわからない感覚。そんな状態で、俺は浮遊していた。


 上も下も、右も左も。自分が一体どんな格好をしているのかも検討がつかない。


 ここはどこなのか。


 脳裏に浮かぶその疑問に回答はでない。ただ無意識に、俺は浮かんでいた。


 まったく持って意味不明の状況下。そんな中で、不意に聴覚が薄い反応を示す。


 骨を砕く鈍い音。液体が飛び散る音。荒い呼吸音。


 それらの意味を、俺はようやく理解した。これは、あいつの食事の音。


 そうわかった時、ふと視界が復活する。暗い部屋には赤い血液が大量に付着し、そこら中に黄色い脂肪の粒が落ちている。横たわっている視界をあげると、そこには足。見覚えのある靴は、それが自分のものであると証明していた。


 なんで…?


 そう思った時、視野が急に流動する。正面にあいつの顔が映りこむ。


 そこで俺は気づいた。自分が異常に軽く、その頭がやけに自由なことに。


 恐る恐る頭の下を見る。見るなという本能からの警告を無視して、俺の視界は捉えてはいけない状態を見た。




 首から下は、綺麗に消失していた。




 彼女は歪に笑う。口元に犬歯を覗かせ、ショートケーキの苺でも見るような目をして。


 ――――いただきます♪


 右側の顔を、あいつの歯に引きちぎられた。









「あああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 絶叫は部屋中に響き渡った。汗の気持ちの悪い感触で、俺は自分の体が在ることに気付き、右の頬を撫で、あれが夢であることを確認した。


「起きたか、悪い夢をみたようだな」


 聞きなれた声により、俺は部屋にある本棚を背もたれにしていた彼女を認識した。


 部屋に射し込む夕焼けの赤が、彼女の姿を半分だけ照らしている。


 俺は、どうやら眠っていたらしい。昼間から夕方までだから三時間ほどだろうか。


「汗がひどいな。ほら、タオルだ」


 黒髪の少女は俺に、そこらにあったタオルを投げ渡す。


 それをキャッチして気付いた。タオルには大量に血液が付着していた。


 タオルを投げ返し、俺は彼女を睨んだ。彼女はいきなり来たタオルを、ろくに見ずに片手で掴み、手元の本に視線を固定している。


 元はと言えば、全部こいつのせいだ。日常が破綻したことも、あんな夢を見たことも。そして、




 俺が人を食うことになってしまったのも。




 相変わらず、彼女はこちらを見ようとはしない。あくまで、視線は手元の本――、大量殺人犯、切り裂きジャックこと、ジャック・ザ・リッパーを題材にした小説に向けながら、少女らしからぬ口調で言った。


「切り裂きジャックって、殺した売春婦の子宮を持ち去った事があるそうだが、ジャックはそれを食べたのか? あれってそんな旨くないと思うんだがな、硬いし」


 我慢の限界だった。


 俺は彼女に歩み寄り、本を蹴り飛ばし、胸ぐらを掴んでその目を睨み付ける。彼女は動じることなく、俺を冷たく見つめて話し出す。


「なんだ? カニバリズムがそんなに嫌か? 人を食う習慣なんて幾らでもあるだろうが。戦時中には食料不足で人肉食を。今だって、美容には胎盤が使われる国もあるし、明治初期には肝や脳髄の密売だってあったらしいし。実際、オレ達の祖先に人を食ったことがある人がいてもおかしくないんだが」


「黙れ…」


 聞いていられない。こんな知識を教えられたところで何の意味も無い。納得も理解もできない。


 俺は言葉を続けた。


「お前の価値観なんてどうでもいい。お前がいくら人を食うことの正当性を語ろうが、その行為は俺の中では考えられないことなんだよ。お前の常識と俺の常識は違う」


「はっ、お前と道徳の授業をする気なんざオレにはねえよ。人を食うことなんて、家畜を食うのと同じだろ」


「違う!!」


 呆れた顔で話す彼女の言葉を否定する。落ち着こうと思考を冷まそうとするが、もう耐えられない。


「俺が食っちまったのは家畜なんかじゃない、自分と同じ人間だ!」


「なんだ、人間を食うのと家畜を食うのは違うのか? それこそ間違いだろ。お前の好きな道徳で習わなかったか? 動物も植物もみんな生きてるって。なのに家畜にはいただきますって言葉だけで感謝もしない。命を奪ってる実感も意識もない。そんな人間なんざ、自分が食われたって文句は言えねえだろ」


「っ!!それは、」


「違うって? 違くねえよ。何、人間だけ特別扱いしてんだ。そんなもん、ただのエゴじゃねえかよ」


 もう、抑えられなかった。


「ッ――!?」


 俺は彼女を殴った。成年男性の本気のパンチは相当効いただろう。彼女は殴られて体制を崩し、床に倒れた。


 その目は、まだ俺を見ている。さっきまでの冷めた目付きのまま、異常な殺気を含んだ目で。


 背筋が凍る。今、俺は誰に手をあげた?


 目の前に横たわっているのは少女なんかじゃない。ただ純粋な獣。威嚇もなにもないが、ただ雰囲気だけで相手を殺せる位の強大な獣。


 脳裏にあの夢が再生される。食い千切られる体。荒らされる臓器。最後のデザートにされる脳髄。




 死んだ。そう確信した。




 しかし、彼女は一向に襲いかかってこない。嫌な静寂の後、起き上がった彼女はなにも言わず玄関に手をかけて、出る間際に言った。


「飯、食ってくる」


 俺はただ見ていることしかできなかった。









 少女は一人。誰も周りにはいない。


 少女は常に一人で生きてきた。それが少女にとっての日常であり、長い時間を支配する一種の呪いでもあった。


 今現在もそうである。少女はただ一人、古いアパートの上で風に吹かれ、空を見上げている。傾いた日差しは赤に輝き。少女の瞳も赤く染まっていた。


 酷いことをした。


 少女は短くため息をつく。後悔は無駄だし女々しいから嫌いだが、反省は必要なものだと考えている。


 彼には、言わなくていいものもあるし、言わなくては理解できないであろうこともある。その区切りがどうにも付けがたい。


 それ故のあの話だった。納得させる必要もないのだから、彼の考えを論破するのが一番簡単だった。


 それが少女の考えだったが結果は失敗だった。人間を捨てきれない彼は、少女を少なからず拒絶した。


 少女はふと下を見る。視界に入ったのはサラリーマンの中年男性が一人。きっと、家族の元へ帰る途中だろう。


 少女は唇を舌で舐める。小難しいことを考えるよりも、自分に向いているのはこういう事だ。そう思い、少女は屋根から一気に男性に向かい飛び降りた。


 男性は気づかない。獲物はその首を掻き切られるまで、自分に起きた非日常に気づくことはなかった。









 少女が出ていった部屋の中、俺は思考の渦でもがいていた。


 一体、どうしてこんなことになってしまったのか。


 腹ペコで死にかけてたのも、まともな食事が出来ないのも、人を食うことになったのも、全部あいつのせいだ。


 あの少女に出会わなければ、俺はまともでいられた筈なのに。


 反芻される記憶。無惨に引きちぎられた四肢。血の赤を纏って踊る殺人鬼。


 遡ること5日前。少女に遭遇したあの日。


 あの時、死んでいた筈の命はここにある。それは幸運だったのか?死ぬ筈だった俺は生き延びて、他人を食って生活している。俺は、そんなことをしていい人間なのか?




 そんな価値は、俺にはない。




 そう考えて、俺は台所に向かう。一番綺麗な包丁を選び、置いてあったまな板の上に腕を置く。ゆっくりと包丁を振りかぶり、そして、




「自分を食うなんて、お前正気か?」




 いつの間にか戻ってきてた少女に頭の心配をされた。


「勘弁してくれよな。お前が死んじまったら困るのはこっちだって、何回言わせる気だよ」


「…どうしてだ?」


 ずっとあった疑問。俺をそんなに重要視する理由を質問する。


 少女は欠伸をつきながら本棚の前に座る。その口には血痕が付着していた。


「まあ、その辺のことも含めて、お前には説明することが山ほどある。オレは他人に教え事をするのは苦手でね。理解できないこともあろうが、とりあえず聞け」


 少女は俺の目を見ずに話す。俺は包丁を置き、話を聞く姿勢にはいった。


「それじゃあ話すぞ」


 少女は一つため息をついて俺を見つめる。凭れている本棚が軋む。


「まず、お前がオレに会ったときを覚えてるか?」


「ああ」


 少女の問いに俺は頷いた。忘れるわけがない。あの日に現れた殺人鬼は目の前でそうかと呟いた。


「あの日にオレはお前のことを食う筈だった。だが、少し事情があった。お前を殺せない事情が」


 少女は頭を掻いて少しの間沈黙した。どう話すか迷っていたようだが、再び視線を合わせて言った。


「お前は本当にただの人間か?」


「は?」


 耳を疑った。何を言い出すのか。俺はただの一般人でしかない。今まで普通に日常生活をしてきた。変わってる所なんて一つもない。


「当たり前だ。お前みたいな人食いじゃなかった」


「自覚がないのか…?お前、あの時喉元にかじりついても生きていたんだぞ?」


「…何を言ってるんだ」


 即死レベルの致命傷で生きていた?俺が?わけがわからない。


「本当のことだぞ?喉を文字通り皮一枚で繋がってる状態で生きてたんだ。まあ、機械で出来てるわけじゃなかったから一種の異常能力だとは思うが」


 この話が本当だとするならば、俺は何をしても死ねないのか…?自殺することもできず、他人を永久に食うしかないのか?


 そんなことは嫌な悪夢でしかない。


「だが、今のお前にはそんな能力はないぞ。どんな異常を持つ異端者でも人間一人には1つしか能力は備わらない。あの時、そんなお前が怖くなっちまった俺がお前の能力を人食いに上書きしたから、今の状態なら餓死でも出血多量でもちゃんと死ねる。オレが保証しよう」


 いらない保証である。


 俺は少女の話の中で1つピンと来なかった単語について尋ねた。


「異端者ってのはなんだ?」


「ああ。説明してなかったな。異端者っていうのはオレみたいな特殊な能力を持つ奴を言う。そんなおかしな能力を持っているオレ達は普通の社会じゃ生きていけない。だからオレ達には社会的、人間的に異端者という烙印が押された。それがこの通称の由来だ。この話は長くなるが…聞くか?」


「ああ。続けてくれ」


 今は出来る限り多くの情報を聞いておく必要があった。今の自分の立ち位置を正しく理解するためにも。


「わかった。続ける。

 異端者のパターンは二つある。先天性の者と後天性の者だ。この二つの違いは生まれつき異端か、生きてる内に異端になるかだ。後者の異端者は苦しい生活をしていたり、社会不適合者だった場合が多い。異端者の能力の源は感情だ。主に負の感情が燃料になるんだが、一般人がそういった感情を持ちすぎると行き場を失い、無理矢理異能を開花させて外に出ていく。その時の能力は負の感情の種類で決まる。これが異端者の生まれ方だ。能力は開花すればいつでも使えるようになる。オレのは常に発動してるパターンだがな。

 分かったか?」


「なんとなくはな。だが、それなら何で俺をお前は異端者に出来たんだ?今の話じゃ、異端者になるのは自分が原因の筈だ」


「例外はあるさ。オレのは人を食ったり身体能力を上げたりより、むしろそっちがメインの能力でな。人食いを感染させる能力だ」


 少女は感染させる能力を持つ。


 そこで俺には1つの疑問が浮かんだ。それは誰もが知りたがる内容であり、同時に決して聞いてはいけないことでもあった。


「…お前は、何でそんな能力を持ったんだ?」


 だが、俺は聞いてしまった。口に出してから後悔する。


 少女は少しだけ悲しそうな顔をして


自分の過去を語った。


「…オレはね、捨て子なんだよ。一人で貧しく過ごしてきた。1日盗んだパン1つくらいが当たり前だった。そんなある日、オレは不良に犯された。相手は男でオレはただの12のガキ。当然腕力じゃ勝てなかった。でも、そこにはコンクリートブロックが1つ転がっててな、オレはそれでバカみてえに腰をふる男をぶっ叩いた」


 凄惨な過去を語るごとに少女の目から光が失われていく。夕焼けも沈み部屋は暗くなる。


「その男はあっさり死んだよ頭から血を流して。オレはそれでも殴るのを止めなかった。最後には、まるでトマト見たいになってたよ。だが、オレはそこで気づいた。こんな死体が見つかったら捕まるってな。オレは悩んだ。隠せばいいんだが、その路地裏に隠す場所なんてない。悩んだ挙げ句、気付いたんだよ」


 少女は唇を舌で舐めた。その顔にはいつの間にか悲しみが消え去り、代わりに狂気が張り付いている。


「隠すところならあるじゃないか。自分の腹に、てな。それからは早かった。迷うことなく生の人肉を夢中で食った。骨も眼球も腸も性器も心臓も脳みそも。その時オレは腹ペコでな、何でも旨く感じた。それが肉ともなれば格別だ。食い終わったとき思っちまったんだ。こんな旨いものがあるなら、皆にも食わせてやりたいってな。多分、その時からだろうな。次の日には水も飲めなくなってたよ」


 過去の話が終わった。少女は死んだ目で俺を見つめる。


 俺は…何も言えなかった。


 長い沈黙の後、少女は立ち上がり俺を見ずに言った。


「…つまんない話して疲れた。寝る」


 そのまま少女は俺の寝ていた布団に倒れ込み、眠りについた。


 俺は少女を見る。こんな16程度の少女に対して、今年で20になる俺は、同情することしかできなかった。









 朝。


 バカみたいに騒ぐ鳥の声でオレは目が覚めた。


 部屋の南側に設置された大きな窓から強い日差しが照りつけ、室内の温度は外の温度と大差無いほどにまで上昇していた。


 オレは起き上がり、汗で湿っぽくなったシャツとジーンズを脱ぎ捨てる。


 そして気付いた。


 部屋に彼がいないことに。


「ちっ」


 自分の失態と彼のバカさ加減に腹が立ち、短い舌打ちをする。オレは脱ぎ捨てたジーンズから携帯電話を取り出した。


 彼がとる可能性のある行動は2つ。自分の家に帰るか、街から離れるか。そのどちらであっても自分一人ではどうにもならない。彼の自宅の場所なんてわからないし、街から出られたら探しようがない。協力者が必要だった。


 電話帳に登録されている数少ない番号を選択し、耳に当てる。一回コール音がなり、奴はいつも通りその一回のコール音で出た。


『こんな朝早くから、何の用だ?人食い』


 抑揚のない低い声が携帯から響く。意味の無い問いにイライラしたオレは半ばキレ気味に話す。


「何の用?しらばっくれんな。オレから電話が来ることも、何が起きてるかもてめえにはお見通しだろうが」


『不機嫌だな』


 てめえが言うな。


『人食いもどきなら、まだ街を出ていないぞ。自宅で一晩寝てから出発したようだからな。今は商店街を駅に向かって歩いている』


「商店街?ああ、あそこか。あんたに止めに行ってもらいたいんだが」


『その必要はない』


「は?」


『この街で生まれた異常は外には出られんよ。この街は内側に閉じているからな』


「何を言ってる。ふざけてる場合じゃない」


 正直、こいつの言葉を理解することはできない。内側に閉じているという事がどういうことなのかわからない。


『ふざけてなどいない。絶対に外には出られないのだ。しかし、内側で処理されるぶんには例外だがな』


 処理。


 この言葉の意味だけは直ぐに理解できた。


「ふっざけんな!!」


 オレは携帯に怒鳴りつけて通話を切った。すぐに脱いだ服をまた着て部屋を飛び出す。


 この嫌な予感が当たらないことを祈りつつ、オレは駅に向かった。









 休日の商店街は雑多な人間で溢れていた。家族連れ、カップル、学生、老人と、多様な人々が入り乱れる中、俺は駅へと真っ直ぐに向かっていた。


 人口が密集し、おまけにコンクリートが多い街の中。蒸し暑いにも程がある位だ。


 横を女子高生が通り過ぎる。細い手足に脂肪を蓄えた胸。それを見て、俺は遺憾だが腹の虫をならしてしまった。


 やはり、夢などでは無い。俺は変わらず人食いで、周りの人間が食料にしか見えない。


 俺は空腹を堪えつつ、しっかりと駅に向かい歩き続けた。


 とにかく、あの少女から逃げなくてはならない。異端者とかいう話は、理解こそしたが納得は出来なかった。俺は人食いなんて嫌だった。真っ当に生きる、普通の日常を俺は望んでいる。その日常を実現させるには、少女に関わってはいけない。


 商店街を抜け、駅が見えてきた。足取りも軽くなりつつ、駅に近づいて行く。


 しかし、不意に俺は肩に手を置かれた。


「どこに行く気だい」


 背筋が凍る。その一言に怯えながら、俺は後ろを振り向いた。


「逃がしはしないよ」


 背後からかけられた声の主を、俺は見た。


 年齢は20代前半だろうか。短い金髪に整った顔。典型的な外人は、地方都市に似合わないカウボーイファッションで身を固めていた。


「もう一度聞こうかな。何処へ行こうとしてたんだい?」


 眼前のカウボーイが目を細める。こちらを見つめながら流暢な日本語で話してくる。


 何処へ…?当然の様に目的地など無い。俺はただ少女から逃げたいだけだ。こんなところで時代遅れのガンマンに構っている余裕はなかった。


 俺はカウボーイの手を払うと、呼び止められる前と同じ様に、駅に向かい歩いていく。


 カウボーイが視界から消失した直後。彼の呟きを俺は耳にした。


「ガンマンに背中を向けるとは、いい度胸だ」


 その言葉に反応し、振り向くより速く、俺の体は味わったこともない衝撃に襲われる。


 腹部に鋭い痛み。甲高い発砲音が耳に届く。体は強い力でまえのめりに押し倒される。腹部の痛みはやがて鈍痛に変わり、熱い液体に浸される。だが、それと同時に腹部は急速に冷えていく。遠くの方で幾つかの悲鳴が鳴り響く。


 何があった?


 頭が疑問で埋め尽くされる。それを理解するには俺の思考は平和すぎた。


 答えが出ない疑問に解答として、カウボーイが俺に声をかけた。


「背中を向けた君が悪いんだよ。無防備な的を見ると、僕の愛銃が鳴きたくなるからね」


 カウボーイが俺の頭に何かを押し当てる。硬い感触のそれを、俺は横目に見た。


 拳銃だ。素人じゃモデルガンと見分けがつかないそれは、この状況から本物であるとわかる。


「それじゃ終わりだ。案外呆気なかったよ。吸血鬼のボーイ」


 カウボーイは引き金に力を加える。躊躇い無く引き絞られるそれに、俺は恐怖のあまり目を閉じた。


 銃声が鳴り響き、俺の鼓膜は強く震えた。


 高らかに鳴り響いた銃声。


 しかし、俺の意識に終わりは来ず。代わりに、カウボーイの短い舌打ちと、


「ふざけんじゃねえよ」


 俺の居場所を知らない筈の少女の声が聞こえた。


 俺は目蓋を開く。目の前には少し窪みができたアスファルトと潰れた銃弾。そして、倒れている俺の上には露骨に嫌そうな顔をするカウボーイと、そのカウボーイが持つ銃の銃身を握りしめる少女がいた。


「これはこれは。リボルバーじゃなかったら、その手は血まみれだったぜ? お嬢ちゃん」


「知るか」


 カウボーイの言葉を少女は冷たい言葉で切り捨て、睨み付ける。


 カウボーイが銃を握りしめる少女の手を振り払おうとするが、少女の力は相当のものなのか、離れないどころか全く銃は動かない。


 その現実にうろたえるカウボーイに対し、少女は先に行動した。右足が振り上げられる。カウボーイはそれを回避するために拳銃から手を離しバックステップで距離をとる。


 そこから先は俺には視認出来なかった。瞬きの時間にも及ばない一瞬の後。少女はカウボーイの目の前に立ち、新たに抜かれたであろうオートマチック式の銃を手刀で粉砕していた。カウボーイの顔に焦りが浮かぶ。少女の顔は真後ろのこの位置からはわからない。


「死ねよ、ヒットマン。西部劇の愉快な仲間達なら、あの世で馬にでもまたがってるだろうよ。さっさと会いに行け」


「なるほどね。お嬢ちゃんが本物かい。道理で全く歯が立たない訳だ。…よし、ここは降参しておこう。さすがの僕でも、仕事より命を優先するね」


 カウボーイは両手をあげてため息をついた。だが、不機嫌な少女は許す気など全く無いらしい。


「逃げれると思うのか?」


「ああ。逃げてみせよう」


 カウボーイがそう言って指をならす。直後。少女の右肩から血が溢れた。


「っ!!」


 少女はカウボーイに殴りかかろうと足に力を入れる。しかし、その左足も銃弾によって撃ち抜かれた。


 カウボーイはニヤニヤと笑みを浮かべ両手をあげたままだ。カウボーイではなく、他の場所から狙撃されている、と知った少女は俺に向かい走り出す。


「捕まれ!!」


 少女が手を伸ばす。俺はそれを握りしめ、一緒に走り出した。


 銃弾が耳元を掠める。背後からはカウボーイのアメリカンな笑い声が聞こえた。









 中途半端な進化を遂げる地方都市。いつもは人で賑わう駅前で、今は時代錯誤も甚だしい西部劇のカウボーイが高らかに笑っているのを、私はスナイパーライフルのスコープから覗いていた。


 ビジネスホテルの7階。今回の作戦の拠点として確保したこの部屋には、大量のバッグが置いてある。中身は密輸入した銃器類に食糧。着替えに通信機器。その他多彩な小型兵器が詰め込まれている。


 私は一番近い位置にあったバッグから、無線機を掴み、いつまでも笑っているカウボーイに向けて言葉を放つ。


「ミスターカウボーイ。銃声により、警察に通報された危険性があります。すぐに拠点に戻ってください。オーバー」


 このコードネームには、自分で言っていても嫌気がさす。


『了解した。だが、警察ならさっき人混みに紛れて逃げてたよ。やっぱり日本人は臆病だね。アメリカじゃ、こうはいかないさ』


 カウボーイは余裕綽々な口調で返答をする。数秒の静寂の後、私はイライラを抑えつつカウボーイに言葉を返した。


「ミスターカウボーイ。そうやって、他人を見下すのはよくありません。常に最適な行動をとる上で、その考えは命取りになります。あと、発言が終わったならオーバーと言ってください。返答していいのか戸惑います」


『了解した。オーバー』


 スコープ内のカウボーイはビルに向け移動を開始した。後は待つだけだ。


 今回の作戦において、パートナーとして彼を紹介された時、正直なところ私は自分の不幸を嘆いた。書類上ではアメリカでも五本の指に入る殺し屋。議員の暗殺。大規模マフィアへの威嚇攻撃。様々な仕事をこなし、成功率は98%。情報を信頼し、雇ってみたらあんな変なカウボーイだった。


 回想しつつ、私は愛用している煙草をくわえ、火をつける。


 初対面のカウボーイの服装に疑惑を覚えつつ、私は彼に聞いたのだ。何故2%の失敗があるのかを。誰にでも不得意なことはある。与えられた環境が悪ければ、どんな達人であれ失敗してしまうこともある。私は彼の不得意、苦手な環境をしるためその質問をした。だが、彼は言った。


『いや~、その時は目標がやたら美人な人でね。出会った時、僕は一目惚れしちゃってさ。どうしても殺せなかったんだ』


 私は呆れた。私情を挟むことが、一番殺し屋のやってはいけないことである。しかも、それが下らない色恋沙汰。怒りを通り越した私はその夜、悩み過ぎて頭痛になってしまった程である。


 煙草を吸い終え、吸い殻を空き缶に捨てる。ちょうどその時、部屋のドアがノックされた。


 彼が戻って来たのだろう。私はノックされたドアに向かいつつ、次の策を練っていた。









 俺は少女に連れられ、なぜか教会に来ていた。街の中心部からそう離れていない住宅街の端に位置する教会は、周りに生えた木々により、幻想的な雰囲気を漂わせている。


「おいっ!!いるんだろ糞野郎!!さっさと開けやがれ!!」


 息を切らしつつ、少女は怒鳴りながら扉を叩く。そして、予想に反して扉はいとも簡単に開いた。


 少女は舌打ちをしつつ中に入る。俺は少女のあとに続き扉をくぐった。


 中もいたって変わったところはない。ただの教会である。奥には神父のような人物がいた。


 歳は30くらいだろうか。髪を全て後ろに固め、首には十字架のネックレス。瞳はとても冷めていて全てを見通しているかのように見えた。


「そんな乱暴な言葉を使うな。ここは教会だぞ」


「知ったことか。説明しろ、謎神父。あいつらはなんなんだ」


 不機嫌に少女は尋ねる。神父は肩をすくめ、話し始めた。


「よかろう、人食い。貴様の質問に答えてやろう。適当に座れ」


 俺と少女は真ん中の通路を挟むように椅子に並んで座る。少女は座り、大きく溜め息をついた。


 静寂な教会の中、座っている少女は神父に問いを投げた。


「で、あいつらはなんなんだよ」


「あれはただの抑止力だ。この街自体が招いた力。異常を外に出さないためのな」


 神父は質問に答えつつ、教会の奥の棚から包帯を出し、少女に投げた。受け取った少女は不機嫌さを際立たせる。


「意味がわからない。簡潔に言え」


 包帯を体に巻くためシャツを脱ぎ出す少女。白い肌が露になる。そんな少女を見ていて俺は気付いた。


 ノーブラ…?


 少女はブラをしていなかった。控えめな胸。少女はまったく意識している様子はない。


 だが俺は別だ。年下とはいえ、もう立派に女性として、体が変化している歳である。慌てて目をそらす。


 しかし、目をそらす前に見つけてしまった。少女の体に浮き立つ無数の傷跡を。大きく胸を縦に斬られたような傷跡。脇腹を灼熱の炎により、焼かれたような火傷の痕。そして、先ほど撃たれた銃弾による傷は塞がっていた。


「簡潔に、か。単純に言えば、貴様を殺しにきた輩だよ、人食い」


 少女の傷を見ていた俺は、神父の声に反応し正面を見る。彼は後ろに手を組み、微笑んでいた。


「またか。これで三回目。オレも有名になってきたな」


 少女は体に包帯を巻きながら少し嬉しそうに言う。しかし、顔は笑っていなかった。


「で、テメエは何がそんなにおもしれえんだ謎神父」


 そして、未だに微笑み続ける神父を少女は睨みつける。下手なことを言えば問答無用で殺す。そんな威圧感をだしていた。


「ふっ。何、最近は中々に興味深い展開が続いているからな。人食い、貴様が死ぬのもそう遠くないかもしれん」


「ぬかせ、阿呆。食物連鎖の復習でもしておけよ」


 包帯を巻き終わった少女はシャツを着直し、立ち上がる。そして、教会の出口に向かい歩き出した。


 少女は、また戦おうとしている。勝てるのか?さっきだってかなり痛手を負わされたし、その影響で少女は少なからずダメージを背負っている。そんな状態では勝てるわけがない。いや、そんなことよりもだ。


 俺は少女を止めようと立ち上がる。だが、少女は右手を上げ、ついてくるなと言外に告げる。


「お前はここで待ってろ。すぐに戻る。安心しな、そいつは敵じゃねえ」


 違う。そうじゃない。


「お前は、何で殺し合うんだ。そんな体になってまで、何で」


「何で何でって、テメエはガキか?」


 少女は溜め息をつきながら振り向く。呆れた様子で少女は続ける。


「あいつらはオレを殺しにきてんだ。死にたくねえから、オレもあいつらを殺す。それだけの話だろ。

 それに、ここで逃げたりなんかしたら、今まで食ってきたやつらに顔向けできねえ。食うことも殺すことも、オレにとっちゃ生きるためなんだよ。わかるか?」


 少女は頭を掻きながら俺に言った。俺は、何も言えなかった。


 少女の言葉が、俺に強く突き刺さる。


「ま、わかんねえよな。お前とオレは違う価値観の人間だ。オレが帰るまで、考えときな」


 少女はそう言うと教会の扉を潜っていった。


 少女の背中には、少女なりの力強い意志が感じ取れた。


 そうして、少女は教会を出た。高かった日差しは、少し傾きかけている。


 体のあちこちに鈍痛が続いている。傷口は塞がったが、中身の回復には、まだ時間を要する。


 しかし、立ち止まっているわけにもいかない。あのカウボーイ達の襲撃を待ち、後手に回ってしまっては、彼を守りながら戦うのは厳しい。


 そう考え、少女は走り出した。カウボーイ達の行き先に具体的な見当は無いが、見つけ出す方法はある。


 住宅街を横切り、カウボーイに出会った駅前を目指す。周りの風景が少しづつ変化し、背の低い住居から中途半端に背伸びをしているビル群が並ぶ光景に包まれていく。


 少女が駅前についた時には、辺り一面が赤く染まりつつあった。一面赤の街。ビルの窓ガラスが反射した光りを浴び、少女の体は薄い赤に染まる。


 先程の戦闘により、周りは立ち入り禁止になっているため、二、三人の警官が見張りをしているだけで誰もいない。この状況は少女にとって好都合だった。


 静かな駅前。少女はただ1人、自分が傷を負った位置を血痕をあてにして立ち、目を閉じた。


 意識を集中させ、あの時の記憶を忠実に再現する。肩を抉られ、足を撃ち抜かれた感覚を呼び起こす。


 オレは、どこから撃たれた?


 体に刺さる銃弾。その入り方を、常人には不可能な程の集中力で思い出す。撃たれた方向を、銃弾の角度を元に感覚で計算し、その答えを導きだす。


 少女が目を閉じていたのは、たった数秒の間だけであった。


 目を開けた少女は顔を上げ、眼前にあるビジネスホテルの一室の窓を見つめ、呟いた。


「…見つけた」


 少女は獲物を見つけ出した喜びに口元を歪ませて走り出した。









「――――――っ!!」


 ライフルのスコープを覗いていた私の体に戦慄が走る。スコープの中の少女の狂った様な瞳と目があった。あれを見て、悲鳴を上げなかっただけ、我ながらマシであった。


「ん? そんなにビクッとして、まるで銃口を突きつけられた顔だよ。らしくないなあ。まあ、そんな可愛いところもあるんだなと、僕からしてみれば嬉しい発見だね」


 笑い話にもならない軽口を叩くカウボーイを、私は睨み付けた。カウボーイは呑気にコーヒーをすすりながらニヤニヤと笑っている。


「怖い顔しないでくれよ。そんな顔してたら、折角の美人が台無しだよ」


「ミスターカウボーイ。人食いにこの場所が発見されました。すぐに場所を変えます」


 イライラを噛みしめつつ、私は要点をまとめ、彼に話す。今の状況を知った彼の表情は、薄く笑みを浮かべたままだが、その目は真剣なものになった。


「最低限必要なモノだけを持っていきます。すぐに準備を。屋上から隣の雑居ビルに移動し、人食いとの接触を避けます」


 携帯食料と通信機器。そしてハンドガンを1つのバッグに詰めながら、私は彼にこれからのプランを伝える。


 しかし、彼はコーヒーカップを少し揺らすだけで、支度などまったく始めない。


「カウボーイ。早く準備を」


「あのお嬢ちゃんは、もうここに向かってきてるのかい?」


 注意をしようとした私の言葉を遮って出た彼の質問に、私は戸惑いながら答える。


「…そうですが?」


「そうか。なら、僕はこのフロアでお嬢ちゃんを足止めしよう」


「え!?」


 この男は何を言い出すのか。


「何を言っているんですか?私達はここから撤退して、二つ目の拠点で人食いに対抗する策を練ります。それが最良の選択肢であることは間違いないでしょう」


「いや、それじゃ駄目だ。あのお嬢ちゃんの足は半端じゃない。ただ逃げても、彼女なら必ず追い付いてくる」


「何を根拠に、」


「僕は目の前で見たんだ。あれじゃ、馬でも逃げ切れるかどうか」


 ここで流暢に話している場合ではない。今でも人食いは近付いてきている。彼を失うことはかなりの痛手になるため、私は無理矢理にでも彼を連れて行こうと腕を掴み、引っ張るが、逆に引き寄せられ立ち上がった彼の胸に顔を当ててしまった。驚いて離れようとする私を、彼は抱き締めた。


「なに、適当にあしらっておくさ。僕は死なない。必ず君のところに帰ってくる」


「な、何をしているんですか!! 離してください!!」


 戸惑い離れようとする私を、更に強く彼は抱き締め、言葉を繋いだ。


「いいじゃないか。僕は君に惚れてるんだよ。だからこそ、ここで死ぬわけにはいかない」


 彼は抱き締める力を強めながら、私が予想もしていなかったことを言う。


 正直、私は彼をなんとも思っていない。というより、私は恋愛感情というものを持った覚えすらない。幼い頃より戦うために育てられた私は、様々な意味での愛情というものを、何一つ与えられることなく育ったのだからそれが当たり前であった。


 しかし、だからこそ、らしくないとは自分でも思うが、愛情という未知の感情に触れた私の心は、少なからず彼の言葉に影響された。


「あなたは…一体、何人の女性に同じことを言って来たんですか?」


「数え切れないな。でも、今度こそ、君だけは守ってみせる」


 私の問いに彼は苦笑しながら答えた。その言葉に含まれた彼の過去を垣間見つつ、私は彼をみつめながらゆっくり離れた。


「ミスターカウボーイ。必ず、追いついてください」


 私の言葉に彼は、「ああ」と短く答えると、二挺拳銃を持ち、部屋から出る。私もそれについていき、彼の向いている方向とは逆。エレベーターではなく、非常階段の方へと向いた。振り向くと、彼は背中を向けながら質問をしてきた。


「君の名前、まだ聞いてなかったね。何て言うの?」


 任務上不必要だったので彼に私の本名は教えていない。お互い、コードネームしか知らなかった。


 私は少し躊躇しつつ、答えた。


「…七木咲菜」


「わかった。僕はバーナード・ホイットマンだ」


 私達はお互いに名乗りあった。そして、通路の奥からエレベーターの駆動音が鳴り響く。


「じゃ、早く逃げなよ咲菜」


 通路を見つめながら彼は言う。私は走り出しながら彼の背中に声をかけた。


「はい。約束は守ってください。バーナード」


 前を向いて走る私の耳に、エレベーターの到着音が聞こえた。









 静寂の中、駆動音と押し上げられる感覚が、少女の周りを覆っている。


 自分を狙撃した者が、このビジネスホテルの七階に潜んでいたことを理解した少女は、すぐさま駆け出してここまできた。


 ビジネスホテルのエレベーターの中、少女は三階から四階へと表示が変わった階数表示を見上げ、早く早くと焦りながら待っていた。


 都合よく一階から七階まで、ノンストップで上がったエレベーターのドアが開くや否や、少女は南側の通路へと駆け出した。


 察知したとき、その中の誰かが自分に視線を向けていたことに少女は気づいていた。あれから五分。逃げられていても不思議ではない。


 しかし、少女が角を曲がると、目の前には見知らぬ男が立っていた。


「やあ、お嬢ちゃん。やっぱり速いね。陸上競技でもやってたのかい?」


 カウボーイハットを被った男は軽口を叩きながら、しっかりと少女に2つの銃口を向けていた。


「なんだ、逃げなかったのか。まあ、一度はオレを負かしたんだ。勝ち逃げなんかされてたら、今頃オレは発狂してるよ」


 直線に伸びている廊下。少女の得物は自らの肉体そのものであり、カウボーイの得物は二挺の拳銃である。状況における少女の不利は、誰の目にも明らかだ。


「なら丁度いいじゃないか。今回は一対一の勝負だ。悪いけど、あの時みたいに愛銃を砕かれることはないよ。今度は逆に、僕が君の頭蓋骨を砕いて見せる」


 しかし、少女は引き返すことも、焦って飛び込むこともしない。ただ平然と、余裕の表情でカウボーイに歩み寄る。


「格好いいこと言うじゃねえかカウボーイ。でもな、オレ達の関係じゃ、そいつは冗談にはならねえぞ」


 ゆっくり歩く少女。カウボーイの目付きが幾分かきつくなったところで、少女は立ち止まり、膝を少し曲げた姿勢でカウボーイを睨み返す。距離は10メートル。


「てめえは目の前にいるのが誰だかわかってねえようだから教えてやる。オレはな、」


 両者の間に緊張が貼り詰める。お互いに隙を伺う中、少女は吼えた。


「人食いなんだよ!!」


 少女が床を蹴りだす。人食いとして強化された体だからこそだせるスピード。たった一歩で10メートルの距離を0にするなど、少女にとっては容易いことだった。だが、蹴りだしたと同時に、少女は無理矢理右に飛んだ。


 銃弾が肩を掠めた。少女が踏み出すのと同時に、カウボーイは右手に持つベレッタを発砲したのだ。誤差はコンマ数秒。まるで、未来を読んだかのようなタイミングでの発砲だった。


 だが、少女も怯むわけにはいかない。一度でも退いたら、相性上、もう二度と攻めに転じることはないだろう。


 少女は次弾を避けるため反対側の壁に斜めに走る。それに素早く反応し、的確な予測射撃により少女を寄せ付けないカウボーイ。それら全てを回避する少女は、まさに人間ではない。


 だが、近づけないのも事実。少女は焦りながらも、決して銃弾には当たらずにじりじりと距離を詰める。


 そして、焦っているのはカウボーイも同じであった。銃の弾切れである。薬室に一発積めてからマガジンを装填し、最大数の弾数で用意はしたものの、ここまで無駄弾がでると弾切れの可能性も十分ある。


 相対する二人の焦りがつのる。先に、その焦りに耐えかね大きな動きを見せたのは少女だった。


 回避を重視していた少女は短い舌打ちをし、いきなりカウボーイに向け真っ直ぐに疾走した。


 カウボーイが発砲し、前進を止めようとするが、速射による四発の銃弾を腹部に浴びても少女は止まらない。


 カウボーイに肉薄し、手刀により銃を叩き割りにかかる少女。しかし、カウボーイは後退し回避するどころか、逆に少女の懐に潜り込む。


「――――っ!!」


 手刀を空振り、自分の目の前で屈んでいるカウボーイを見て、少女はそこに膝蹴りをくりだす。


 カウボーイは少女の穴だらけの腹部に銃を押しあて、零距離で引き金を引く。


 お互いの時間が、ゆっくりと流れる。命を賭した駆け引きは、その結末を勿体ぶる。


 少女の体に新たに穴が開く。だが、出した膝はそのままカウボーイの胸を打ち抜いた。


 カウボーイは後方に吹き飛ばされるが、少女の蹴りは先に撃たれたことにより、威力が減衰していた。あばら骨を何本か叩きおられたが、まだ走る程度の余力はある。


 一方で少女は限界に近かった。止まることなく動いていた時は気にならなかったダメージが、立ち止まってしまった少女を一気に襲い、立っているだけで精一杯の状態に陥っている。


 もうすでに、二人とも戦い続けるのは不可能だった。


「やるじゃないかお嬢ちゃん。だが、もうお互い限界みたいだね」


 フラフラと立ち上がりながらカウボーイは笑って言った。その言葉に少女は吠える。


「へっ、オレはまだやれるぜ…。それともなにか、てめえが怯えちまって…足が前に進まねえってか」


 強気に返す少女だが、自分でも無理なのはわかっていた。そんな少女を見て、カウボーイは気の毒そうな顔をする。


「ああ、生憎臆病風に吹かれてね。お嬢ちゃんが怖くて仕方ないんだ。だから、」


 カウボーイはジャケットのポケットから取り出したものを見せながら言う。


「君にはこれで死んでもらう。例え生きていても、僕らを追うことは不可能だ」


 カウボーイは、取り出した手榴弾のピンを口で引き抜く。それを見た少女は急いでカウボーイへと走ろうとするが、足は全く動いてはくれない。


「ばいばい。可愛いお嬢ちゃん」


 カウボーイの手から手榴弾が投げられる。足下に落ちた手榴弾から、少女は離れることはできず、廊下の奥へと走るカウボーイの背中を睨みながら、爆炎に飲み込まれた。









「ふっ、敗れたか」


 長い間無言だった神父は静寂に包まれた教会の中で呟いた。


 彼女がカウボーイ達を追いに行った後、俺と神父はお互いに言葉を発することなく黙っていた。


 だが、唐突に神父が発した一言に、俺は顔を上げた。神父は微笑したまま、俺に近づいてくる。それを俺は何も言わずに見ていた。


「人食いが敗北した。やられたな。人食いは確かに常軌を逸した力を持っているが、相手にはそれを上回る技量があったわけだ」


 神父は俺を見ていない。教会の入り口を見つめ、心底面白そうに嘲笑っていた。俺はその表情を心底恨めしそうな目で睨む。


 彼女が負けた。それは同時に、彼女が殺されたことを意味する。


「ほう。君は奴が死ぬことが不快なのか。奴は君を人食いにし、その日常を奪ったというのに」


 もっともだ。


 彼女がいなければ、俺は今頃平和に日々を当たり前に謳歌していただろう。だが、この感情は何なのだろうか。恨めしい者の筈が、その死が何故悲しいのか。


 答えない俺を、神父は見た。死んだ瞳。彼女と同じ暗い瞳。


「答えに窮するか。ならば、選択肢を与えよう。人食いは敗れたが、まだ生きている」


「え?」


「人食いは大きな傷を負ったが、まだ生きている。だが、奴ならばまた立ち上がり戦うだろう。傷の治りが早いとはいえ、必ず完治を待たずして奴は行く。それを、貴様はどうする?」


 どうする…。


 神父が呈示した選択肢に、俺は迷う。


 彼女を戦わせたくない、というのが本音だが、神父の言った通り。彼女は間違いなく戦い続ける。自分を殺す人間を捕食し、訪れることはない安息の為に、生きるために人を殺す。


 それを、俺には止めることはできない。俺を守ろうとしてくれている少女は、今回生き延びたとしてもいずれ殺される。


 俺は、どうする。


「戦うのか…俺が…」


 震えた声で思考が口から漏れ出す。その言葉を聞いてか、神父は満足気な顔をした。


「面白い。貴様はやはり、あの人食いが死ぬことを望んでいないようだ。まあ、それについては今はよかろう。人食いは駅前のビジネスホテルにいる。手を出せ」


 俺は神父の前に掌を差し出す。神父はそこに、一本のナイフを置いた。そのナイフの柄はひどく汚れているが、刃は錆びひとつ着いていない。


「ナイフ…?」


「古い友人のモノだ。愛するものを守るために振るわれ、最後には救うために愛するものを貫いたモノ。貴様の結末は、そうでなければいいな」


 神父はそう言うと、もう語ることはないと背を向けた。


 彼女が出たのは1時間前。急いで俺は教会を飛び出し、彼女がいるというビジネスホテルに向かった。









 学校。


 友達と楽しくお喋りして、授業を不真面目に、時には真面目に聞いて過ごす場所。


 放課後や休日も友達と遊んで、家に帰れば家族がいて。誰かしらは近くに居てくれる。


 そして、一人前に恋をして。


 そうして幸せに生きていく。世の中の人々の多くは、それを当たり前に感じて、それよりも上を貪欲に目指す。


 もっと豊かに。他人よりも上に。


 幸せそうに見えた景色は一変し、自分以外を蹴落とすことに必死な顔をする人々だらけの地獄絵図になる。


 なんだ、あそこもここも、何も変わらないじゃないか。









「…………」


 薄暗い、埃が舞う瓦礫の上で、少女は不様に四肢を投げ出し寝ていた。ビル内のブレーカーが落とされたのか灯りはない。部屋にいた人々も避難したようで、とても静かだった。


 目を開き、体を起こす。まだかなり痛むが、致命傷では無いことを確認し、少女はため息をついた。


 なんとも不様である。次こそは借りを返すと張り切っていたのに、返り討ちにされるとは。


 少女はズボンのポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出す。人間以外食せない少女の唯一の楽しみである。


 人体以外の個体、液体を摂取すると過剰に体が反応し、全て吐いてしまっていた人食いなりたての頃、少女は神父に出会い、住まいと食料を与えてもらった。しかし、当時の少女に趣味というものはこれっぽっちもなく、いつも自分の部屋の隅で膝を抱えて寝ていた。それを見かねてか神父は少女に1つの楽しみを与えた。


 それが煙草。本来、人間の味しか味わえない少女が、楽しみながら味わうことのできる気体である。


 依存性には、強化された体が耐性を作り、依存は全くないが少女は行き詰まった時には煙草を吸う癖がついた。


 そして、行き詰まった少女は煙草に火をつけた。臭い煙を肺にいれるたび、体から無駄な力が抜け、思考がクリアになる。


 これからどうするかはもう決まっている。カウボーイを追い、人食いとして喰らうしか少女には考えられない。しかし、自分でも体が限界なことはわかっていた。


 少女の口から紫煙が溢れる。煙で滲む視界。その先は暗い廊下。灯りの無いその奥から、人の姿が見えてくる。少女はその姿を見て苛立ちを抑えきれず言った。


「てめえ…何で来てんだよ」









 爆発事故があったらしいビジネスホテルの周辺は立ち入り禁止となっていて、警察が集まっていた。


 俺は正面から入るのは諦め、誰にも見つからないように立ち入り禁止区域に侵入し、非常階段を上がって爆発事故のあった七階に向かう。しかし、何故か六階から七階に繋がる階段は途中で無くなっていた。綺麗な断面から、錆びたわけではなく人為的に壊されたのは見てとれた。


 仕方なく六階に進み、電灯のついていない廊下を壁づたいに歩く。そして、天井に穴が空いた場所に出た。彼女は、そこの瓦礫の山に座り煙草を吸っていた。


「てめえ…何で来てんだよ」


 出会い頭に彼女は俺に文句を言った。彼女の姿を見て少し浮かれた頭が、急に冷めた。


 俺は、彼女が拒否するのを分かっていながらも言う。


「お前を、助けに来た」


「は?なに言ってんだてめえは」


 案の定、苛立ちを直に顔に出して彼女は言った。


「てめえがオレを助けるだ?人を食うことを必死で拒否してるような奴が、殺し合いなんかできるかよ。そのおめでたい頭をどうにかしてから出直せ、タコ」


「ああ、その通りだ」


 彼女の罵倒に返答すると、彼女は意外そうな顔をした。


 人間を喰うのは嫌だ。殺すことも多分無理だ。でも、それでも引けない。


「でもな、俺はお前に生きてほしい。これはただの同情で、偽善かもしれないけど、お前には普通の生活を送らせてやりたい」


「……」


 少女は俺の言葉を静かに聞いている。だが、その表情は少し険しくなる。


「だから、お前にはまだ死んでもらいたくないんだ。そのために、俺はお前を助ける。殺すためでも、喰うためでもない。お前を生かす為に、俺は戦う」


 俺は自分の決意を少女に伝えた。無理矢理なところはあれど、しっかり自分の考えが言えたのだから充分だった。


 少女は俺をまっすぐ見て、呟いた。


「…終わったか?」


「ああ」


 俺の言葉を聞いて少女は立ち上がり、煙草を右手の指先で掴む。そして、そのまま左手の甲に押し付けた。


「ああああああぁぁぁぁぁァァァァァァアア!!うぜえっ!!うぜえよ!!何が同情だ、偽善だ!!てめえにオレの何がわかるってんだ!!平和に暮らしてた人間が見下しやがって!!オレは不幸じゃない!!不幸じゃねえんだよ!!」


 彼女はいきなり叫びだし、俺の襟首を掴む。伸長は俺より低いものの、その力は強く、痛い。


「それにオレが死ぬだ!?舐めたこと言ってんじゃねえよ!!オレは死なない!!化物だから死なない!!ただの人間に、殺されるわけねえだろうがよ!!」


「っ!!でも、現にお前は負けたんだ!!このまま追えば、次は殺される!!だから、俺が守るんだよ!!」


「てめえ自身、守れねえくせになに言ってんだ!!」


 少女が俺の顔面を殴る。一応、手加減はしたのか骨折はしなかったが軽く飛んだ。


「殴って済むならまだ殴れよ」


「は!?」


「殴られるだけでお前を助けられるなら、安いもんだ」


 俺は彼女を睨む。さっきまで叫んでいた彼女は狼狽えた


「わ、わけわかんねえよ…。マゾか、てめえは!!」


「いや、痛いのは嫌いだ。でも、それでついて行っていいなら、構わない」


 彼女を俺は見つめる。彼女は、俺から目を逸らし、背中を向けた。


「…わけわかんねえ。もう勝手にしろ。馬鹿につける薬はねえからな」


 彼女はそう言うと深いため息をついて廊下を進んでいった。


 彼女に言われた通り、俺は彼女に勝手について行った。









 暗い廊下を歩き、俺と少女はビルの外についている非常階段に来た。ビルの谷間に設置された非常階段の下からは、熱帯夜の生暖かい風が上がってくる。


「なんだ。階段ぶっ壊れてるのかよ」


 六階と七階を繋ぐ階段が破壊されているのを見て、少女は言う。


 七階廊下で起きた爆発により、今このビジネスホテルは停電している。そのため、エレベーターは使えず、屋内の階段を設置していない作りであるこのビルには上階に上がる手段がこの非常階段しかない。しかし、その階段は人為的に破壊され、使用不可。


 俺はため息をついたが、少女は至極当然のように七階の踊り場を見つめ、飛び上がった。自分の身長の約二倍はある高さを跳躍し、少女は七階の踊り場に降り立つ。


「すごっ…」


 単純な感想を漏らす俺を見下ろし、少女は挑発する。


「どうした?これ位昇れねえようじゃついてこれないぜ?ま、さっさと諦めて怪我しないうちに帰るのも有りだけどな」


 そう言って少女は昇っていく。その背中を見て、それから俺は足下を見る。


 六階。一つの階を三メートルだとすると、約18メートル。落ちたらほぼ即死。だが、俺には飛べるはずだ。なぜなら、今の俺は少女と同じ人食いなのだから。


 七階の踊り場は六階の踊り場のほぼ真上にあるため、階段が設置されていた場所から垂直に飛ぶしかない。


 俺は踵を足場の外にはみ出させ、後ろに倒れそうになりながらも飛んだ。


 初めての感覚。長い浮遊感。慌てつつも、七階の足場に手をかけ、這い上がる。


「へえ、度胸はまあまあか」


 全力で上がった俺に、少女はそれだけ言って上階を目指し、再び歩きだした。









「熱心だね、咲菜」


 念入りにライフルの整備をする私に、カウボーイ、バーナード・ホイットマンは話しかけてきた。


 拠点にしていたビジネスホテルから逃げ、隣のビルの屋上に隠れた私の前に現れたバーナードは負傷していた。最低限の診断では肋骨を四本砕かれたようだ。


「君だけでも、逃げればよかったのにな」


「何を言うのですか」


 バーナードの戯言に私は反論する。


「あなただけを置いていくわけにはいかないと、私は前にも言いました。あなたは大切な戦力ですし…その…恋人というものなのですから」


 自分でも少し顔が火照るのを感じる。よくわからないことではあるが、やはりこういう言葉は少し恥ずかしいものだ。


 そんな私を見てか、カウボーイは笑った。


「な、何が可笑しいのですか!?恋人とはそういうものでは無いのですか!?」


「ははっ。咲菜は間違ってないけど、ちょっと固いんじゃないかな?」


「か、固い…?」


 一体どういう意味なのだろうか。確かに、私は恋愛に関して無知に等しいが、恋人は守らなくてはならないということは間違いではないはずだ。


「恋人には、そういう義務みたいなものはないんだよ。恋人だからじゃなく、好きだから守る。つまりはそういうことさ」


 好きだから守る?


 私はそれを疑問に感じる。何故なら私は愛というものをまだよく理解できていない。バーナードに抱き締められた時、私は言い様の無い、不思議な感覚に襲われた。あれを愛というのなら今の感情は何なのだろうか。


 あの時の至福の感情とは違う。少しだけ靄のかかったこの感情は、どう呼ばれるものなのだろうか。


 悩む私を見て、バーナードは笑いながら言う。


「まあ、今は分からなくても、これから僕が教えてあげるから、大丈夫だよ」


「なら、私はお礼にスナイプの訓練を。あなたは落ち着いてエイムするのが不得手なようなので」


「ははっ、参るなあ。じゃ、そのためにもここは勝たなくちゃな。動けなくなっていればいいが」


 苦笑したカウボーイが呟く望みに、私は同意する。


「ええ。ですが、油断するわけにはいきません」


 私は整備を終えた狙撃銃、ドラグノフを構える。照準は、ビジネスホテルの屋上へと繋がる非常階段近くに向けていた。









 真夏。


 熱帯夜の夜風は熱風となり、ビルの谷間を駆け巡る。


 街には、一般的に見れば非現実的な人間がいた。


 数は4人。人間を食い荒らすこの街の害悪が二人と、それらを打倒するため、この街に足を踏み入れた二人。


 一人はただ生きるために。一人はただの同情で。一人は守るべきもののために。一人は理解できない感情を知るために。


 彼らが始めるのは殺し合い。どちらかが完全に動かない骸となるまで続けられる日常。


 それを皆知らない。極々普通の生活を送る人々にとって、駅前で起きた二つの事件は、只々変わらない退屈な日々に対する小さな刺激であるだけだ。


 4人は誰にも知られることもなく、ただ己が望みのために力を振るう。


 開始の音は、まもなく鳴らされる。









 ビジネスホテルの屋上。そこを目指して俺と少女は階段を昇っていた。


 ビルの間を通る熱風は強さを増し、俺にはまるでこれから始まることに対しての激しい野次に聞こえた。


 少女を退けたカウボーイとその仲間は、もう逃げ切ってしまったのだろうか。いや、彼らの狙いは少女だ。弱っているところをみすみす見逃すわけもない。恐らく、俺達が追ってくるのを見越して待ち伏せしているだろう。


 俺は周囲を見渡す。今はまだビルの谷間だからこそ壁程度しか見えないが、屋上に出ればそこはただの更地のようなものである。ビルから狙撃した連中にとって、その環境に出ていく俺達は、まさに飛んで火にいる夏の虫。敵の居場所もわからず遠くから射殺されるだけだ。


 それについて、少女は分かっているのだろうか。少女の足は依然として止まることはおろか、慎重になることもない。ただ堂々とした足取りで階段を上がっていく。


 注意したいのは山々だが、その背中から強い威圧を感じる。少女も、いつ狙われてもいいように神経を研ぎ澄ましているに違いない。その覚悟を読み取り、俺もまた、汗ばんだ掌で汚れたナイフの柄を握り締めた。









 屋上に少女が出た瞬間、銃声が鳴り響く。大きな音は夜の街にこだまし、始まりを告げる合図となった。少女は銃声が耳に入る直前から横に跳躍し、銃弾をかわし、屋上へと躍り出る。銃声がなった方角を見つめ、続けざまに放たれた正確な射撃を回避。そのまま貯水タンクを備えた整備室の陰に隠れ、狙撃をまぬがれた。


「やっぱりお待ちかねか。わざわざ待っててくれたのは嬉しいが、随分なご挨拶だ」


 少女は口元を歪ませてこの状況を笑う。自らを二度負かした相手との再会。好敵手との再戦によって沸き立つ興奮を抑えることはない。


 屋上に頭を出さないように階段でしゃがんでいる青年を確認し、今現在相手に視認されているのが自分だけだと認識した少女は貯水タンクの陰まで登り、素手でタンクを破壊した。


 いきなり破裂したタンクに動揺したのか、狙撃手はライフルを連射する。それに当たらぬよう身を潜め、少女は連射の切れ目を確認し、狙撃手へと疾走した。









「チッ――!!」


 自分らしくないと思いながらも舌打ちをしてしまう。こう相手のペースに乗せられていては、苛立ちが募るのも仕方の無いことではあるのだが。


 ビジネスホテルに隣接するビルから、屋上に続く階段を狙い、目的の人喰いが現れて、私は一秒足らずで発砲した。だが、恐らく読んでいたのか少女は真横に飛びそれを避け、ドラグノフの速射性を活かした連射も続けざまに避けた。そして貯水タンクの裏に隠れたのを見計らい私はリロード。しかし、突如、少女は貯水タンクを破壊した。私は焦りながらも的確に狙うがどれも当たらず。弾切れになったライフルのスコープからは、こちらに向かってくる少女の姿が映る。


 そして、私はドラグノフを投げ、サブマシンガンを二丁持つ。グレネードはスモーク以外、ホテルの部屋に置いてきてしまったので廃棄。そこらに不要なものを投げ捨てて私は向かってくる少女に銃を向け、連射する。


 恐らく、着弾したのは連射した20発中3発程度、それ以外の弾は避けられて、少女は私と同じ屋上の上にたった。


 距離にして5mもない。私にとってこの状態は不利であった。先程までの戦闘で少女は銃弾の軌道を読み、ほぼ確実に回避することもわかったことにより、私に攻撃手段はほぼ無い。近接戦闘ならガンカタの心得が少しはあるものの実戦で使えるレベルではない。そもそも、少女と格闘戦をし、勝てる気がしない。


 それをわかってか少女は余裕の表情で話し出す。


「てめえがオレの肩と足に穴あけた張本人か。てめえの狙撃は見事だが、オレの体は特別だからな。たった一発程度じゃ死なねえし、これだけ戦えば避けるのも簡単だ。さて、てめえの前にいるのは人喰いだ。なら、負けが決まったあんたの最後は、自分でもわかるだろ?」


 少女の言ってることは確かだ。私は負けた。この戦いで、すでに私は少女の進化についていけない。銃のプロが、銃のきかない相手をしたところで、それではただのお笑いだ。だが、まだ生きることを諦めるには早すぎるようだ。


「そうだな。なら、僕に銃を向けられている君はどうなるんだい?」


 少女の笑みが引き攣る。いままで狩る側だったものは狩られる側になった。


 少女の背後で、バーナードが銃を向けている。後頭部に銃口を押し付けられている少女は背後をゆっくり確認し、話す。


「なんだ、いたのかよ。てっきり尻尾巻いて勝ち逃げしたかと思ったよ」


「ああ。できればそうしたかったんだがね。君を殺さないと僕達は帰れないんだよ。だから、死んでもらえるかな」


 バーナードは引き金にかけた指に力を加える。


 この絶望的な状況の中、少女はやはり、その歪んだ口元を元に戻すことは無かった。









 俺は目の前で行われている戦いに、ただひたすら圧倒されていた。


 突如放たれた銃弾を躱して屋上に飛び込んだ少女。破裂した貯水タンク。連続で鳴り響く銃声。


 屋上を階段から身を屈めて見ていたが、その全てが自分にとっては信じられない戦いだった。この戦いに俺自身が参戦する。それを考えると足がすくむが、俺は意を決して屋上に登った。


 慎重に、少女が向かった隣のビルの屋上へと向かう。さっきまで立て続けになっていた銃声は止まり、今は静寂が屋上を支配している。


 屋上にフェンスはない。そもそも屋内から上がることは不可能なため、必要ないと判断されたのだろう。それもあって隣の屋上には簡単に渡れた。


 ビジネスホテルの屋上とは違い、この屋上には荷物が多く置いてあった。荷物というよりは機械だろうか。役目を終えた時代遅れの機械たちは、何も語ることなく鎮座し、所々錆び付いているのが哀愁を漂わせている。


 そんな悲しげなモノ達を遮蔽物にしながら、俺は少女たちに近寄っていく。


「…なら、負けが決まったあんたの最後は、自分でもわかるだろ?」


 聞こえてくる少女の声。遮蔽物から覗き込むと、少女と一人の女性が向き合っている。女性の手に銃が握られていることから、彼女が少女を殺そうとしていた人なのだろう。


 余裕で話していた少女だが、その背後の存在に気がついていない。俺には気づいていないであろうカウボーイが、よろよろと少女の背中に近づき銃口を向けた。


「そうだな。なら、僕に銃を向けられている君はどうなるんだい?」


 その言葉に少女はゆっくりと振り向き、カウボーイを確認する。だが、その時少女と俺は目があった。思わず声を出してしまいそうになるが抑える。少女はゆっくり女性に向き直り、軽口を叩いた。


「なんだ、いたのかよ。てっきり尻尾巻いて勝ち逃げしたかと思ったよ」


 その言葉にはまだ余裕が見られる。俺を見つけた少女が余裕な理由。わからない方がおかしかった。


「ああ。できればそうしたかったんだがね。君を殺さないと僕達は帰れないんだよ。だから、死んでもらえるかな」


 カウボーイの銃口が少女の後頭部を捉える。既にカウボーイは勝ちを確信しているかのように思えた。


 だが、それは叶わない。少なくとも、今の少女には確信があった。


『あの少女は君を不幸に陥れた張本人だ。君は、それでも人喰いを助けるのか』


 この場にあの神父がいたら絶対にそういうだろう。仇を助けるなど、さらさら可笑しいと笑うだろう。


 確かに少女の運命は俺にかかっている。選択肢はいくらでもある。少女を助けることも、このまま死ぬのを見てその死を喜ぶのも俺の自由だ。でも、


「もう決めたんだよ。俺が選ぶ道はもう決まってる」


 そう。俺に道は一つしか無い。あの少女を見殺しにしたところで、人喰いになった俺は普通に生きることなどできない。どちらにしろ日常には戻れない。


 そして、それよりも俺には少女を助けたい理由がある。捨て子になり、生きていくためには人を食うことしかできない少女。誰に恨まれようと、その生き方を変えることはできない。


 俺はそんな少女に同情した。ただの偽善だとしても、その思いは本物だった。少女に普通を味あわせたい。こんな殺さなくちゃいけない人生から助け出して、人並みの幸福を与えたい。いや、与える。


「俺は、そう決めてここまで来たんだ」


 それは小さな呟き。だが、それが俺の背中を押し出した。


 ただの言葉は確固たる決意となり、それは地面を蹴り上げる力を増幅させる。


 俺はカウボーイに突進する。足音に気づいてその場の出演者は俺に振り向く。ここが舞台なら、スポットライトを浴びているのは俺だ。目立つからには、その先にはとんでもないことが身に起こる。


 自分でもわかるほど死に近づいている。この足が一歩進むたびに、俺の喉元に見えない影が忍び寄る。


「うおおおおおおおおおおお!!」


 叫んだ。自分の怯えを無くす去勢。ただの見栄だが、それがなければ俺の足は今頃止まっていた。


 カウボーイをナイフの射程に捉える。迷いや恐れを払うように、俺はナイフを大きく振った。


 手応えあり。だが、その手応えは硬すぎた。


 カウボーイは俺の振ったナイフを銃で受け止めていた。火花が一瞬散り、ナイフと銃は拮抗する。


「君もいたのかい。不意打ちとは、男じゃないぞ」


「うるさい!」


 突然切りつけられたにも関わらず、カウボーイには余裕が見られ、笑みを浮かべていた。その笑みが馬鹿にされているようで腹が立ち、俺は吠えてナイフを再度振るう。だが、それがカウボーイの体を抉ることはなく、さらには銃で抑えられて押し返された。


 大きく仰け反る体。無防備になった腹部にカウボーイの肘が入る。


「ぐっ!!」


 ピンポイント。俺はそのまま後ろに尻餅をつき、呼吸困難に陥る中、眉間に銃を突きつけられた。


「随分と派手な登場だったけど、ここで君の出番は終わりだよ。こんなことに関わらなければ、君はきっと長生き出来ただろうにな」


 無責任なことを。俺だって関わりたくて関わったわけではないと、心の中で毒づく。


 突きつけられた銃口を見つめる。それを見て考えたことは自分の身の心配ではなく、少女の心配だった。


 俺が死んだら少女は1対2の状態に追い込まれる。それだけは避けたい。


 そんな場違いな思考の俺の手に、硬い何かがぶつかった。









 上出来だ!


 雄叫びを上げた彼を見て、少女は思った。


 今、全員が彼に注目している。少女をちゃんと見ている人間はいない。


 この好機に思わず頬が緩む。誰が動くよりも早く、少女は彼から視線を切って目の前の女を見た。


 こっちの視線に気づいたのか、女は少女の動きに目を見開く。だが、遅い。肉薄した少女の拳を、女はまともに食らった。


「きゃっ!」


 さっきまでの態度とは違う。普通の少女のような悲鳴をあげて、女は屋上を転がった。止まった場所は屋上の縁、その下にはこの街一番の大きな川が流れている。


 ゆっくり起き上がろうとする女に、少女は追い打ちをかける。飛び掛ってのかかと落とし。そのかかと落としに気づいた女は後ろに距離をとって無様に落ちるということはせず、逆に少女に向い前転し、その背中に回り込んだ。


 少女のかかと落としは空振りに終わり、屋上の床を深く抉る。そして、少女が振り向くより早く、女は両手のサブマシンガンを連射。少女を蜂の巣にするであろう銃弾の雨は、認識できない程の速度で回避した少女を穿つことはなく、虚空に飛び込んでいった。


 少女の気配が一瞬消える。それに困惑した女だが、背後に現れた気配に距離を取った。渾身の手刀は空を切り、少女は舌打ちをする。女は屋上の縁側に立ち、もう逃げ場などなかった。


「あれ?水浴びは嫌だったのか?あんまり暑いんで、こっちからのサービス精神だったんだが」


「そういうのならあなたが浴びればいいじゃない」


 少女の軽口に女は同じ軽口で答える。


 お互い口元に笑みを浮かべて睨み合う。かたや確信した勝利に、かたや自分が追い詰められたことを悟られぬよう。


 戦いの幕は、もうすぐ下りる。









 眼前に迫る死。やけに目立ってしまった途中参加の出演者は、お約束という舞台の規則によって殺されかけている。


 眉間に当てられている銃口。確実な死を前にして、俺は怯えている。


 だが、その終わりに絶望して立ち止まるわけにはいかない。


「なにか、未練でもあるかい?」


 カウボーイは銃口を更に強く押し当てて問う。その言葉に、俺は睨み返すことしか出来ない。


 だが、この状況は幸運だった。会話をする気があるのなら、それだけ時間が稼げる。


「未練なら、あるかな…」


 俺は考え無しに会話をする。絶対にこの話が途切れないようにしながら、この状況の打開策を練る。今の俺が持つ武器はナイフ。おそらく、少しでも動けば銃口は痺れを切らして死を吐き出す。切りかかるのは不可能。


「なんだい?あのお嬢ちゃんを救えなかったことかい?」


 だが、武器になるものはこれしかない。なら、相手に隙を見出すくらいしかない。


 俺の行動は決まった。武器はナイフしかないが、あくまでそれは勝つならだ。


「いや、俺の望みは…」


 右手が触れていた金属を握る。そいつについたリングを掴み、


「あんたと死ぬことかな!!」


 リングを抜いて放り投げた。


 手榴弾。それが俺が掴んだものだ。何故落ちているのか、それは俺にはわからない。だが、その威力くらいは知っている。ただ単に爆発力だけのものなのか、破片を撒き散らして致命傷を与えるものなのか。どちらにせよ、この至近距離で爆発すれば、俺もカウボーイもタダじゃすまない。間違いなく死ぬ。


「―――っ!!」


 カウボーイの顔が引き攣る。その見開かれた瞳には、俺が写っていた。


 手榴弾が破裂する。だが、俺達が吹き飛ぶことは無かった。


 呆気にとられたが納得した。これは手榴弾でもスモークをだすものだ。黒い煙幕に包まれ、お互いの姿が見えなくなる。


 俺にはカウボーイが見えない。だが、それはカウボーイも同じだ。神様が与えてくれた幸運。俺は考える前に駆けた。


 銃声。真横で銃が火を吹いた。カウボーイはこの煙幕の中、まだ俺が動いていないと考えて撃ったのだろう。続けざまに鳴る銃声。だが、それは俺を捉えることはない。


 ナイフを握りなおす。俺にもカウボーイは見えないが、銃声が鳴る位置からどこにいるのかは見当がつく。俺は手元の凶器を突き出す。その結果がどうなるのか、それをよく考えずに放った俺の一撃は、望んでいない運命をもたらす。









「!?」


 その驚きは私のものでもあり、少女のモノでもあった。


 屋上の端に追い詰められた私、それをどう詰めるかを練る少女。互いに睨み合っていた最中に、爆音が邪魔をした。


 私の視線を追い、振り向く少女。その先には煙幕が立ち込めていて、その場にいた筈の青年とバーナードの姿は見えない。


 煙幕の正体は私が放置したスモークグレネードだろう。それをどちらが使ったのかはわからないが、あの状態ではどちらにも分がある。あの煙の中なら、大きな大差があった達人と半人前は対等である。


「やってくれるねえ、あいつ」


 少女は煙幕を見ながら呟いた。


「それは、どういう意味ですか」


「わかんねえのか?いちいち勝てる側のカウボーイがあんなもん撒き散らすかよ。ありゃあ、確実にオレのとこのがやったんだよ」


 呆れ口調で話す少女。しかし、私はこの状況を楽観的に見てはいられない。煙幕を放ったのが青年なら、バーナードは不意を突かれたことになる。となれば、敗北もなくはない。


 煙が薄まる。元々風が強いこの屋上では、長時間の目くらましはできない。


 その結果。煙幕を放った青年とバーナードの結果を、私と少女は見つめる。そして、私は絶望した。


「バーナード…」


 頬を伝うものはなんなのか。この感情はなんなのか。私には何一つ理解できない。



 そう。バーナードの胸を青年のナイフが貫いていることも、私にはよく理解できない。



「咲菜…ごめん」


 バーナードの口がそう動く。私は途方に暮れた。


 崩れ落ちる体。彼を見つめる私にとって、その結果はただただ辛いもの。


 わからない感情が押し寄せる。瞳から溢れるものは止まることを知らない。傷を受けていないのに胸が痛む。


 そして、神は私に休息など与えない。


「殺し合いしてる最中に泣くんじゃねえよ!!」


 私に駆けてくる少女。その行動に咄嗟に反応し、大きく後ろに跳躍する。


「…あっ」


 気づいたときには遅かった。特に異常のない状態なら、私はこの選択肢を選ぶこと等万に一つもなかっただろう。だが、今の私はそれを選んだ。背後、ビルの屋上から落ちる選択。これを選んだ今の私は、どうしようもないくらい動揺しているのか。


 押し寄せる。空気、私の体は、際限なく下に落ちる。


「ああ、私は…あなたを助けられなかった」


 ひどい結果。神様が救うことはないようだ。


「せめて…もう一度抱きしめて欲しかった」


 戦いのプロだった私は、恋を知って、こうして死ぬ。


 そのことに、不思議と後悔はなかった。









「ったく。自分から落ちるなんて、よっぽどだったんだな」


 屋上の戦いは終結した。少女は生きているし、青年も生きている。この戦いは少女達の勝利だ。だが、その代わりとしてこの妙な空気を少女達は背負った。


 一人は人を殺したこともなかった未熟者が初めて殺し、もう一人は直接手を下した訳ではなく、ただのドジで死んだ。


 おまけに初人殺しをした青年は呆けている。少女はため息をついた。


「俺…殺した…のか」


 青年の呟きが夜空に響く。それを聞いた少女は、青年に歩み寄った。


「ああ、お前は人を殺した。そして、今から食うんだ」


 少女の言葉に青年は目を見開き口元を抑えた。吐き気に襲われているであろう青年を見下したまま、少女は続ける。


「確かに、お前の気持ちもわかる。人を食うなんて、一般人からみりゃ気色悪いんだろうな。でも、オレ達は人食いだ。そうしなきゃ生きていけないんだよ」


 少女の言葉は青年には聞こえていないだろう。人を殺したことと、食べなくてはならないことのショックで、青年は取り乱している。


 少女はもう一度ため息をつく。自分のせいで人喰いになった青年に対し責任をもったから助けただけだったが、よもやここまで面倒なことになろうとは。


「無理か」


 青年は首を縦に振った。


「なら、まだいいさ。当分は神父に世話になればいい。こいつは俺が食う」


 青年は食べなくてはならないという状況から離脱したことにより、幾分か落ち着いたのだろう。その口を開いた。


「…なら、俺は行っていいか?あまり…見たくない」


「ああ。下で待ってろ。すぐに行く」


 青年はよろよろと立ち上がり、ビジネスホテルの屋上へ向かう。


「おい」


 その背中を呼び止めた。青年は振り向く。


「お前、名前は?」


 それはどうでもいい問だったのだろうが、これから共に動くことになるのだ。それくらいは聞いておきたかった。


「葛城、草…」


「オレは蓮だ。これからよろしくな」


 今更な自己紹介。その言葉は青年にとってははた迷惑かもしれないが、青年は少女に向け、少しだけ微笑んだ。

 



 それが、私と草の出会った話。ここから、私たちの奇妙な日常が始まった。


 何よりも無価値で、どんな事実よりも無意味、そんなどうでもいい日々を私たちは無意識に過ごしていくことになる。





 続く…?


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