前編
春は恋が始まる季節。
秋は恋愛をする季節。
とは限りませんね。
恋だけではなく、何事も始まりはいつだって突然です。
休日の午前のみの課外授業が終わり、一人学校から家まで帰路を辿る。普段彼女は自転車通学だが、今日に限って歩いているのは朝から雨が降っていたのが理由だった。合羽を着てまで自転車に乗ろうとは思わなかったので、徒歩で登校する他なかったのである。
だが、今回は歩きで帰る事を嫌に感じるどころか、むしろ嬉しい気さえしていた。
やっとの思いで数学の授業を終え、昇降口を出た途端、今年初めての雪が降っている事に気が付いた。初雪だ。彼女は途端に自然の美しさに見惚れてしまい、満足気に浅い雪道を辿って帰ろうと思った。
足取りが軽い。やはり雪は嬉しい。出来れば聖夜に降って欲しいところだが、それは今年も叶わないだろう。雪が何故嬉しいのかは彼女は解らない。だが『なんとなく』嬉しい事には違いないのだ。雪が降れば、冬の寒さなどなんのその。この為に寒いのを我慢しているのだという気さえする。
家まであと少しという所で、彼女は立ち止まった。
いきなり立ち尽くす彼女の目の前には、高く聳え立つ広葉樹。まだ雪は降ったばかりで木は白い姿になってはいないが、その代わり冬の雰囲気は出ている。クリスマスのイルミネーションが飾られているのだ。まだ昼で、イルミネーションは光ってはいないが、ライトの黒いコードが木を拘束する様に絡まっている。
(夜に来たいなあ)
きっと暗くなれば、この広葉樹は一足早いクリスマスツリーの姿で沢山のライトによって輝くのだろう。
だが生憎、彼女は暗くなってからこの広葉樹の前に来た事はなかった。夜道に一人は危険だからである。彼女はきょうだいや父母を気軽に誘って見に来るような真似は何故だか恥ずかしく感じて出来ないし、暗い中一人というのも得意ではない。自分の臆病の性格が原因で、せっかくのキラキラクリスマスツリーを未だ目にしていないのだ。
この広葉樹がクリスマスが近くなると、イルミネーションで飾られるようになったのは一昨年からだが、一昨年も去年も結局一人で行く勇気なかった。友達を誘うのが一番良いのだが、それも難しかった。近くに住む仲の良い友達が居ないからだった。遠くからわざわざ友達を呼ぶ程のものでもない事が解っている為、親友を連れて行く事自体申し訳なく思えるのだ。
誰も誘う事が出来ないというだけが理由でイルミネーションを見る機会は逃し続けている。
「……今年も無理かなあ」
イルミネーションが飾られて一週間は経った。その間もやはり行けずじまい。彼女は三年目の今となっては、半ば諦めかけていた。
家から自転車では十分。歩いて行くと二十分はかかる。ちなみにイルミネーションが点き始めるのは――夜八時。
冬の夜なのだからもっと早くてもいいと思うのだが、少しでも節電という名目なのだろうか。とにかく今の時期二十時では外は真っ暗だ。そんな時間に出掛けるのも気が引けてしまう。
色んな意味で条件が悪くて、彼女は大きく溜息をついた。
「――何でこんなのに諦められないんだろう。私」
そっと呟いただけなのに、声と一緒に出た息がやけに白い事に気が付いた。
冬の夜の、イルミネーション。
一年で街の全体を見渡す広葉樹が、夜を照らす季節。
人生で特にアクションもなく、ごく普通に生活している彼女には、少しでもロマンチックな匂いに興味がそそられる。
だが、こんな小さな願いも叶えられない。
降っている雪が急に鬱陶しくなり、目頭が熱くなる。
(こんな事で泣きたくならなくたっていいじゃん)
イルミネーションが見られない事が悲しいのではない。すぐに行動を起こせない自分が悔しいのだ。
(――馬鹿みたい……)
彼女は踵を返し、爪先を家がある方向に戻して広葉樹の前から離れた。
「あ~」
広葉樹の前から立ち去ろうとした彼女の背後で、妙に気の抜けた声がした。木は公園の中にあるから、無人の公園にはてっきり彼女一人しか居ないと思っていたのに、気が付かない内に誰か入って来ていたのだろうか。
先程の独白を聞かれていただろうか。急に恥ずかしくなって思わず後ろを振り返った。
彼女の背後には広葉樹――の裏にいつの間にか移動されていた青いベンチがある。ベンチは本来、公園の入り口のすぐ傍にあった筈だが、何者かにより動かされている。そのベンチの上に人が座っていた。ファー付きのコートを着ていて、黒い髪色をしている。その後頭部しか窺えない為、顔が見えずに男か女か判別不可能だった。と、考えていたら、その人物がこちらの方を振り返る。
男――だと思う。彼女が性別確認に自信がないのは、その彼の顔立ちがやけに整っていたからだ。美少年というべきだろうか。女顔の彼は青年というには少し幼さがあり、少年という方が適当だろうと思った。
暫く彼の風貌に見入ってしまっている彼女の視線に対し、少年は訝しげな視線を返した。彼女は慌てて彼の顔から目を背ける。
「どなた?」
「へっ、あっ、はいっ」
変な声が出てしまい、彼女は手袋をした両手で口を塞いだ。話し掛けられるとは思わなくて吃驚したのである。
彼女が応えないと認め、少年は再び正面に向き直る。
実の所、彼女はこの時絶好の機会だと思った。彼女は女子とはそれなりに付き合いはある筈だが、共学の高校に通っているにも関わらず、年が近い男子とは殆ど会話を交わした事がなかった。理由は言わずもがな――臆病なのである。どうせ男子はこんな不細工な女子に興味はないだろうし、こちらからの交流も迷惑に感じるかもしれないなどと一方的に男子を敬遠しているのが原因だ。しかし好きでそうしている訳ではない。仮にも花の女子高生。男性とすくなからずの関係を持ってみたいという気持ちがあるのも事実だ。
だからこそ、ここで少年と仲良くしてみたいという衝動に駆られている。しかしいつもの敬遠するクセで、少年はこちらに興味が失せてしまった。否、彼女が彼を見つめてしまったから彼は気になっただけと言える。
だが彼女は妙に少年と話をしたくなって、何とか勇気を振り絞って、無意識下で声を上げた。
「あのっ!」
「えっ、何?」
急に大声を出して驚いただろうか。少年は勢いよくこちらに首を向け直した。
いざもう一度顔を向け合わせると緊張する。
「こ、ここで、何してる、の?」
他愛もない世間話だ。だがもうちょっと自然な訊き方があるだろう。案の定、少年はすぐには返事出来ずに、呆気にとらわれている。彼女はますます恥ずかしくなって、視線を下に向けた。
「い、いえ。あの。何でもない……」
彼女はそこで言葉を止めた。彼が、手招きしているのに気が付いたからだ。
(え?)
何も言わずに、黙って手をこちらに振っている。
(あ、『あっち行け』って事か)
手招きのジェスチャーの正しい意味を理解し、彼女は踵を返して公園から出て行く。やはりうざがられたようだ。むなし過ぎて胸が痛む。彼は眉を顰めて相当嫌がっていた。
彼女は金輪際、男子に話し掛ける行為は控えようと決意した。
「ちょっと。何処行くの」
少年は何処に向かって話しているのだろう。
「君、中学生? 高校生? お姉さん? そこの、赤いマフラーした人!」
赤いマフラー。彼女の首に巻かれている。ちなみに彼の存在すら気付くのが遅れたくらい、公園には彼女と彼以外誰一人居ない。
再び少年の方に向き直り、彼女は自分を自分で指差した。
「そうだよ。他に誰が居んの。手招きジェスチャー伝わらなかった?」
どうやら彼女の最初の認識が正しかったらしい。さっきまで緊張していた身体が嘘のように、彼女は足取り軽くベンチの上に、彼の隣に座った。
「何の用?」
「こっちの科白」
「そうだよね」
当たり前だ。さっきから挙動不審している自覚もあるくらいだ。
「私は奈津歩。君は?」
「季那」
「『きな』君? 女の子みたいな名前だね」
咄嗟に褒めたつもりだったが、よくよく考えれば失言だ。男性に対して『女の子みたいな』、『女の子らしい』は『可愛い』と言っているに等しい。茶化したように聞こえる。
「…………」
「あ、違うんです。綺麗な名前って言いたかったんです」
「敬語使ったり使わなかったりだね」
まったく以ってその通りだ。これでは譲歩しているのか軽々しいのか分からない。
「苗字は何さん?」
下の名前だけの紹介も失敗だった。
「えっと、一条です」
「そう、一条さん。ここで何してるの」
「私――」
次の言葉が出かかった所で、奈津歩は口を噤んだ。
彼に話すのは気が引けた。家族や友達を誘う勇気がなくて、その上一人で見に行こうともしないのにイルミネーションを見られない事にイラつく。それがとても惨めに思えて、広葉樹の前でたそがれていた、など言える訳がない。
奈津歩は適当な理由をつけて誤魔化そうと思った。
「散歩、で、立派な木だなあって思っただけ。奇妙しいかな」
「ふーん」
季那は気の抜けた短い返事をする。
「季那君は? どうしてここに――」
「嘘だろ」
奈津歩は反対に訊き返そうと思った所、そのまま口を開け放して暫し硬直する。
「――え?」
彼は何の事を言っているのか、気付くのに少し遅れた。
「散歩」
「何で……」
「俺が見てたから」
「え? え?」
今何を話しているのかも忘れそうだ。繋がらない、と言うより、彼の発言には疑問だらけだった。
「何を?」
「君が、いつも下校時にこの広葉樹の前で突っ立ってるのを」
「ええ!?」
我ながらそんなに驚く声を出さなくても良いのに、と思う。彼は奈津歩が気付かない内にいつもこのベンチに座って、彼女を見掛けていたというなら何ら不思議な事はない。奈津歩は驚いたのではなく、木の前で思いを馳せている姿を見られていたかと思うと、恥ずかしくて仕方ないのだ。自分でも、まさか太い幹の後ろに、大の大人の一人掛けのベンチなどあるとは思わなかったし、知らない内に間抜け面を他人にさらけ出していたかと思うと、落胆せずにはいられなかった。
奈津歩は頭を抱える。
「どしたの、一条さん」
「私の事、変な人だと思った?」
「そだね。木を見上げながらうっとりしたり、にやけたり、かと思えば急に落ち込んだり。見ているこっちは笑いを堪えながら、さぞコメディのドラマ見るように楽しませて貰ってるよ」
最悪だ。穴があったら入りたい。そして埋めて欲しい。
しかも歳もそう離れていないであろう男子に、何て恥ずかしい所を見られていたのだろう。
「それで君が何でそんな不自然な事してるのかなと思って気になった。他に質問は?」
「……ない、です」
再び頑なな日本語になる。走ってこの場から逃げ去りたいが、その行為自体も恥ずかしく思えて出来なかった。
「意図は何?」
今度はこちらが質問攻めだ。奈津歩は逃げ出せなかったので、諦めて白状する事にした。
「あのね、私、ここのイルミネーションが見たいの」
「何時から電飾が光るか知らないの? ここは夜遅くになるけど――」
「知ってるよ。八時からでしょ。でもそんなに暗くなると、怖くて夜道は歩けなくて……」
「だったら友達を誘えば良い。それとも、そういうのは家族と行きたい派?」
「私の、その、仲の良い友達はこの辺に住んでないから、夜遅くだと誰も誘えない」
「家族は?」
「――……誘う勇気がないというか……」
季那は奈津歩が予想するような質問を次から次へと繰り出してくれた。奈津歩は恥も承知で全てを打ち明けた。
『くだらない』
――彼は次に、こう言うだろうと思った。でなくても、きっと、呆れたような返事をされるに決まっている。奈津歩は彼の応答を待った。
「ふーん。どうしようもないね」
季那の言い方は冷たかった。奈津歩は季那の態度にショックを受けた。何処か、彼が優しい言葉をくれると期待していたのかもしれない。
さすがに、もうここに留まっているのは止めよう。居座っても、彼の冷たい態度に心を痛めるだけだ。
「さよなら」
奈津歩は季那に背を向けて、公園を出た。
今日は公園に入るべきではなかったと、今更ながら後悔した。彼に話し掛けなければよかった。名前を教え合うんじゃなかった。
人と関わるとロクな事がない。――――そんな事はないと頭の片隅で解っているから、余計胸が締め付けられる。単に奈津歩が人との関わりが少ないだけだ。友達は居ても一人で居る事が多いから、他人との交流に失敗した時は人一倍傷付く。
イルミネーションがどうでも良くなった訳ではない。只、奈津歩自身、これからは彼が居るかもしれない公園に足を踏み入れようとはしないだろう。小さな心の拠り所がなくなって少し寂しいだけだ。
(本当に、駄目駄目だ。私は)
臆病過ぎて、自分を殺してしまいたくなる。存在ごと消し去ってしまいたい。
重い足を、ただひたすら家まで引き摺って行く。
見たければ見れば良い。
もう一人の自分がそう答える。
(それが出来たら、どんなに良いのに)
誘うのは何も身の回りに限定する必要ないではないか。
「他に誰が居るって言うんだよ」
「君、輪を広げられないタイプだなあ」
頭の中で浮かんだ言葉に対して一人で愚痴を言うと、はっきりした声が耳に飛び込んでくる。否、さっきの二つの言葉は自分が頭の中で言ったのではない。
「見たければ見れば良い。『知り合い』なら親しい相手じゃなくても良いんじゃないか? 電飾が光る所を見たいだけなんだろ?」
奈津歩は長い茶髪を広げて、彼の方を振り返った。