「地味な刺繍しかできない女はいらない」と婚約破棄されたので、殿下の服から私の刺繍をすべてほどきました。~ええ、あれ全部防御魔法ですが? なぜか騎士団長様が泣きながら跪いています~
「リゼット・フォルン! 刺繍しか取り柄のない地味な女とは、結婚できない!」
王宮の大広間。
楽団の音が止まり、千本の蝋燭の下で、ユリウス王太子殿下の声だけがよく響いた。
殿下の腕には、蜂蜜色の髪の男爵令嬢ミレイア様がぴったりとくっついている。
今夜の彼女は、光魔法で自分のドレスをきらきらと輝かせていた。たしかに綺麗だ。目がちかちかするけれど。
「見ろ、ミレイアの華やかさを! それに比べてお前はどうだ。夜会でも隅でちまちま針を動かして、陰気にもほどがある!」
私は手元のハンカチに目を落とした。
縫いかけの青い小鳥が、翼を半分だけ広げている。
ええ、たしかに地味です。
地味なのは認めます。
「承知いたしました、殿下」
私は針を針山に戻し、立ち上がって一礼した。
あまりにあっさり頷いたせいか、殿下は一瞬ぽかんとした。
「……な、なんだ。泣いてすがらないのか」
「すがりません。ですが、婚約が解消されるのでしたら、お貸ししていたものは返していただきますね」
「貸していたもの? お前から何か借りた覚えなど――」
私は殿下の前まで歩いていき、その右の袖口に指を添えた。
白い礼服の、金の刺繍の縁取り。そのいちばん端から、銀色の糸が一本だけ、ちょろりと顔を出している。
それを、つまんで。
引いた。
するする、するする、するする。
「……は?」
銀の糸は、驚くほどなめらかにほどけていった。
袖口から肘へ。肘から肩へ。襟を回り、胸元の紋章を抜け、裾の縁取りをぐるりと一周して――最後に、殿下の靴の中敷きからしゅるりと抜け出して、私の手のひらでくるりと小さな糸玉になった。
五年分。
毎晩ひと針ずつ、縫い込んできた糸だ。
「な、なんだ今のは。まあいい、たかが飾り糸の一本や二本……っ、ぶえっくしょい!」
殿下が盛大にくしゃみをした。
「おや、冷えますか? 体温調整の術式を抜きましたので。この大広間、窓が多いぶん隙間風がひどいんですよ」
「じゅ、術式……?」
そのとき、殿下の後ろを通りかかった給仕が、ミレイア様のきらきらに目をやられてよろめいた。
銀盆の上の赤ワインが、きれいな放物線を描いて――殿下の白い礼服に、ばしゃりとかかった。
赤い染みが、じわじわと広がっていく。
「なっ……! なぜだ、いつもなら弾くのに!」
「防汚の術式も抜きましたから」
「いつもなら! いつもなら何をこぼしても染みひとつ――」
「ですから、それが私の刺繍です」
広間が、しんと静まり返った。
ひそひそと、貴族たちの囁きが波のように広がる。
「……そういえば殿下、狩猟会で猪に突っ込まれても無傷だったな」
「馬から落ちても、なぜか服が破れなかったとか」
「毒入りの菓子を食べたのに、腹を下しただけで済んだという話も」
ええ、全部私です。
防刃、衝撃緩和、解毒補助。ついでに言えば、殿下が演説のたびに声を裏返らせないよう、襟元に「発声安定」の術式も縫っておりました。
「ばっ、馬鹿なことを言うな! そんな魔法、聞いたことがないぞ! ミレイア、そうだろう、刺繍で魔法など――」
殿下の声が、見事に裏返った。
「ひゃっ、ひゃうぃっ」
誰かが吹き出した。
ひとり笑うと、もう止まらなかった。
「ユ、ユリウス様……」
ミレイア様が、そっと殿下の腕から離れた。そして、赤い染みとくしゃみと裏返った声の三点セットを、ものすごく冷静な目で見比べた。
「……わたくし、ちょっと、お化粧を直してまいりますわね」
「ミレイア!?」
きらきらしたドレスの背中が、足早に遠ざかっていく。
あら、判断が早い。
私は糸玉をポケットにしまい、最後にもう一度だけ頭を下げた。
「五年間、お世話になりました。どうぞ風邪など召されませんよう」
「ま、待て、リゼット! 今すぐ縫い直せ! これは命令――ぶえっくしょい!」
聞こえないふりをして、私は踵を返した。
――さて。
明日から、どうしよう。
伯爵家の三女で、取り柄は刺繍だけ。婚約破棄された娘に、次の縁談なんて来ないだろう。
街で繕い物屋でも開こうかしら。そういうのも、悪くない気がする。
そんなことを考えながら、大広間の扉へ向かっていたときだった。
ざっ、と目の前に黒い壁が立ちふさがった。
……壁ではなかった。人だった。
とても大きな、黒い軍装の男の人。
王国騎士団長、ガレス・ヴァルト様。
戦場では「黒の鬼」、王宮では「笑わない団長」と呼ばれている方だ。子どもが泣き、新兵が泣き、ときどき大臣も泣くと噂の、あの。
その鬼の団長様が、じっと私を見下ろしていた。
正確には、私のポケットからはみ出している銀の糸を。
「……フォルン嬢」
「は、はい」
「その糸を、見せてもらえないか」
低い声だった。怒っているのかと思うほど低い。
おそるおそる糸玉を差し出すと、団長様はそれを受け取らず、代わりに自分の外套の留め具を外した。
ばさり、と黒い外套が広げられる。
その胸の裏地に――小さな青い鳥が、縫いつけてあった。
翼を広げた、手のひらほどの小鳥。
糸は色あせ、ところどころ焦げている。胸のあたりには、何かが突き刺さったような小さな穴。それでも、ひと針ひと針の運びは、ほどけずにそこに残っていた。
見覚えがある、なんてものではなかった。
「それ……」
三年前。
騎士団が北の戦に出る前、王都の教会に「兵士たちの外套の繕い物を」という張り紙が出た。私はこっそり通って、名前も書かずに何十枚も繕った。婚約者のいる令嬢が騎士の服に触れるなんて、と言われるのが面倒だったから。
ひとつだけ、とびきり傷んだ外套があった。
あちこち裂けて、血の染みまで残っていて。持ち主はきっと、いちばん危ない場所に立つ人なんだろうと思った。
だから、その一枚にだけ。
私が縫える中でいちばん強い守りの術式を、青い鳥の形にして、心臓の裏に縫い込んだのだ。
「北の戦で、敵将の矢を胸に受けた」
団長様が、焦げた小鳥を親指でそっと撫でた。
「鎧を抜けた矢じりが、この鳥のところで止まった。……医者は奇跡だと言った。だが俺は、奇跡だとは思わなかった。こんなに丁寧な縫い目が、偶然であるはずがない」
「……」
「教会に尋ねた。名前は残っていなかった。王都中の仕立屋を回った。誰もこの縫い方を知らなかった。三年、探した」
団長様の灰色の目が、私の手の中の銀の糸に落ちる。
「さっき、殿下の袖からほどけていく糸を見て、すぐにわかった。同じ運び方だ。……あなただったんだな」
そして。
王国騎士団長、黒の鬼、笑わない団長様は。
大広間のど真ん中で、私の前に片膝をついた。
「ずっと、礼を言いたかった。あなたのおかげで、俺は生きて帰れた」
ぽたり、と。
床に、しずくが落ちた。
え。
え?
泣いてる?
広間のあちこちで、誰かが「ひっ」と息をのんだ。新兵らしき若い騎士が「だ、団長が泣いてる……」と震える声でつぶやき、隣の騎士に口をふさがれていた。
「あ、あの、団長様、どうか顔を上げてください。私はただ、繕い物をしただけで」
「ただの繕い物で、人は死なずに済まない」
団長様は顔を上げなかった。代わりに、大きな手で私の手をそっと包んだ。剣だこだらけの、あたたかい手だった。
「フォルン嬢。婚約が白紙になったばかりのあなたに、こんなことを言うのは無作法だとわかっている」
「は、はい」
「だが、三年待った。これ以上は待てない」
団長様は、まっすぐに私を見上げた。
「俺と、結婚してほしい」
大広間の空気が、二度目の沈黙に包まれた。
私は、口を開けて、閉じて、もう一度開けた。
「……あの。私、地味ですよ」
「知っている。夜会のたびに、隅で針を動かしているのを見ていた」
「見て……?」
「あの縫い方の主を探して、刺繍をしている令嬢は全員見た。あなたのことも見ていた。だが、あなたは王太子の婚約者だったから、確かめることもできなかった」
団長様は少しだけ目を伏せた。
「……それでも、見ているのは楽しかった。あなたは縫うとき、ほんの少し笑う」
顔から火が出るかと思った。
そんなところを、この人は、ずっと。
「い、今すぐお返事はできません!」
「当然だ」
「で、でも!」
私は、ポケットの縫いかけのハンカチを握りしめた。翼を半分だけ広げた青い小鳥。
「その外套の鳥、焦げてしまっていますから。……まずは、縫い直させてください。今度は、もっと丈夫に」
団長様は、しばらく黙っていた。
それから、生まれて初めて笑い方を思い出した人みたいに、ぎこちなく口の端を上げた。
「――ああ。一生、縫ってくれ」
「それはお返事ではありません!」
背後で、騎士団の皆さんがいっせいに拳を突き上げた。
*
それから、ひと月。
私はいま、騎士団本部の一室で「被服管理官」という、いかめしい肩書きをもらって働いている。
仕事は、騎士の皆さんの外套や手袋の繕い物。ついでに守りの刺繍。
最初は遠巻きにしていた新兵さんたちも、今では「リゼットさん、ここ破れました!」「俺の手袋にも鳥つけてください!」と列をなしてやってくる。
団長様は、毎朝その列の最後尾に並ぶ。
破れてもいない外套を持って。
「団長様。これ、どこもほつれていませんが」
「……よく見てくれ。ここが少し、ほつれそうな気がする」
「気がする、では繕えません」
「では、ただ顔を見に来た」
後ろで新兵さんが「団長、言い方!」と頭を抱えている。
私は、耳まで熱くなるのをごまかすために、黙って針に糸を通した。
そうそう。
今朝、王宮から手紙が届いた。
差出人はユリウス殿下。
あの夜会以来、殿下は風邪をこじらせ、礼服を三着ワインで駄目にし、外交の場で声を裏返らせて隣国の大使を笑い死にさせかけたらしい。ミレイア様はとっくに別の伯爵家のご子息と婚約されたそうだ。
手紙には、震える字でこうあった。
『リゼット。すべて水に流してやる。だから、戻ってきて縫い直せ』
私は、少し考えてから、返事を書いた。
『殿下。刺繍の注文は、騎士団被服管理室にて承っております。
ただし騎士団の皆さまが最優先ですので、順番は三年後になります。
お代は、騎士団価格の十倍です。
なお、担当者は現在、婚約者のための外套の刺繍で手一杯です』
封をして、顔を上げる。
窓際で、団長様がこちらを見ていた。
手には、私が縫い直した青い鳥の外套。焦げ跡はもうどこにもなくて、代わりに、その隣にもう一羽、小さな鳥が寄り添っている。
「……婚約者、と書いたのか」
「読まないでください!」
「読んでいない。だが今、あなたの口から聞いた」
団長様は外套を羽織り、二羽の鳥の上に、大きな手をそっと重ねた。
「返事を、もらったと思っていいか」
私は針山に針を戻した。
そして、たぶん、縫い物をしているときと同じ顔で、小さく笑った。
「……一生、縫いますね」
黒の鬼と呼ばれた人が、その日二度目に泣いたことは。
騎士団の皆さんだけの、秘密になっている。
(おしまい)
お読みいただき、ありがとうございます!
この短編の連載版を始めました。
夜会のあの場面から、騎士団の被服室でのお仕事、団長様への「お返事」までの日々、そして「逆さ縫い」の事件へ。短編の先の物語を、じっくり書いています。
▼連載版はこちら
https://ncode.syosetu.com/n8341mu/




