正しさが試される夜
闘技場を満たしていた熱と歓声は、すぐには戻らなかった。
倒れ伏したガルムのもとへ、治療役の獣人たちが駆け寄る。
それでも、誰もが視線を外せずにいた。
――狐族の少女から。
新たな獣王。
その事実を、まだ身体が受け入れきれていない。
「……獣王、決定」
震えを含んだ宣言が落ちる。
次の瞬間、歓声が巻き起こった。
だがそれは、祝福というよりも――
理解しようとするための咆哮だった。
狐族の少女は、その中心で静かに立っている。
誇示もなく、勝利を誇る声もない。
ただ一度、ほんのわずかに肩を上下させた。
疲労か。
それとも――。
彼女は顔を上げ、まっすぐにスミレを見た。
そして、歩き出す。
観客席がざわめき、自然と道が割れる。
二人の間に、誰も踏み込まない。
「……来る」
リリナの声は、確信に近かった。
スミレは答えず、ただ呼吸を整える。
狐族の少女は数歩手前で止まる。
燃えていた瞳は、炎を失い、凪いだ水面のようだった。
「名前を聞いていない」
低く、よく通る声。
だが、ほんの一瞬――迷いが滲んだ。
「私は、スミレ」
短い沈黙。
狐族の少女は目を細める。
「スミレ。明日、私はお前と戦う」
それは命令でも、挑発でもない。
王としての確認だった。
「私は、強い者に従う獣王だ」
「……力を、示せ」
その言葉に、スミレの胸がわずかに軋む。
「分かったわ」
声は震えなかった。
だが、心の奥で小さな声が囁く。
――本当に?
狐族の少女は、かすかに笑った。
ほんの一瞬、王ではない顔。
「いい目だ。だが……危うい」
それだけ言い残し、背を向ける。
獣人たちは、その背に頭を垂れた。
⸻
夜。
与えられた家は、異様なほど静かだった。
外では警備が増し、金属音が規則正しく響いている。
スミレは庭に立っていた。
夜風が、冷たく頬を撫でる。
「……怖いか?」
ルイの声。
「うん」
即答だった。
「勝ちたい。でも……勝ったら、何かが壊れる気がする」
自分でも、何がとは分からない。
それでも、その予感は消えなかった。
ルイは答えない。
否定も、慰めもしない。
「逃げたいって思った」
スミレは、初めてそう口にした。
「一瞬だけ。でも……」
指先で、命石に触れる。
微かな冷たさ。
「それでも行くんだろ」
「……うん」
逃げたら、もっと壊れる。
それだけは分かっていた。
⸻
その夜、スミレは夢を見る。
白い空間。
歌声が、遠くから響く。
――怖いでしょう。
クリスタの声。
――それでも、立つと決めた。
光が、胸の奥に触れる。
だが、その光は完全ではない。
――選ぶたびに、あなたは何かを失う。
一瞬、光が揺らいだ。
スミレは、息を呑む。
――それでも、あなたは進む?
答える前に、目が覚めた。
命石が、淡く光っている。
だが、その中心に――かすかな影があった。
スミレは、それを見つめたまま、立ち上がる。
「……行こう」
明日。
獣人族の王と、光と闇を抱く少女が相対する。
それは勝敗を決める戦いではない。
誰が、何を守り、
何を失う覚悟を持つか――
その答えが、試される日だった。




