獣の理、少女の覚悟
一つの部屋の前に立った瞬間、スミレは反射的に足を止めた。
扉の向こうから滲み出る魔力が、皮膚を刺す。冷たい霧を吸い込んだように、肺の奥がきしんだ。
――これ以上、近づけば。
背筋を伝う汗が、服の内側を滑り落ちる。
背後で、仲間の誰かが短く息を呑んだ。
扉が、軋む音を立てて開く。
現れたのは、二人の獣人だった。
灰色の毛並みを持つ、オオカミの耳と尾を備えた男。岩のような体躯が、ただ立っているだけで場を支配している。
その隣には、白銀の狐耳と尾を揺らす少女。年はスミレと同じほどだが、その瞳には一切の油断がなかった。
年齢など、意味を持たない。
視線を向けられただけで、膝が微かに震える。
オオカミの男が前に出る。
床が、低く鳴った。
「……この国に、何の用だ」
腹の底から叩きつけられるような声。
空気が押し潰され、喉がひりつく。
「今の時期に来る以上、覚悟は出来ているのだろうな」
誰も答えられない。
沈黙の中で、心臓の音だけが異様に大きく響く。
「アクア王国の使者と聞いていたが……違う匂いだ」
鋭い視線が、一人、また一人と獲物を測るようになぞった。
「お前たちは――何者だ」
沈黙が落ちる。
このままでは、力でねじ伏せられる。
そう悟った瞬間、スミレは一歩前に出た。
喉が渇く。
指先が冷たい。
それでも、止まれなかった。
――目の前で誰かが倒れるのを、もう見たくない。
……本当は、自分が倒れるのも怖いのに。
「私たちは……女神族と魔人族の戦いを止めるために集まった者です」
声が、わずかに掠れる。
「獣人族の皆様にも、力を貸していただきたい。……どうか、お願いします」
深く頭を下げる。
額に触れた床は、氷のように冷たかった。
一拍。
そして、喉を鳴らすような笑いが落ちてくる。
「我らに関係のない戦争に、首を突っ込めと?」
顔を上げると、オオカミの男は腕を組み、牙を覗かせていた。
「血も匂いも違う争いだ。
それを“未来のため”などと、美しい言葉で包めば動くと思ったか」
「関係は、あります」
胸の奥が、軋む。
それでも、言葉を止めなかった。
「女神族が敗れれば、次に狩られるのは下界です。
人間族も、獣人族も……いずれ逃げ場はなくなる」
拳を握り締める。
爪が食い込み、鈍い痛みが走った。
「力を合わせなければ……魔人王には、届きません」
一瞬、空気が凍りついた。
「届かない、だと?」
オオカミの男が低く笑う。
「それは女神族が脆いだけだ。
我らは戦いで生き、戦いで王を選ぶ。
牙を折られたことなど、一度もない」
誇りが、獣の匂いとなって滲み出る。
スミレは唇を噛んだ。
怖い。
怒らせれば、ここで終わる。
それでも――退かなかった。
「……無理です」
震えを押し殺し、言い切る。
「あなたたちは強い。
でも、魔人王は……その“戦い”そのものを壊します」
一瞬、言葉が詰まる。
「私は――あの力で、仲間を失いました。
だから……正しいかどうかは、分かりません」
場が、静まり返る。
「でも、行かなければ、もっと失う気がしたんです」
空気が、わずかに揺れた。
「我らを、侮辱するかッ!」
怒号が部屋を震わせる。
だが、オオカミの男は――すぐに踏み込まなかった。
その時。
「なら――試せばいい」
澄んだ声が、怒気を断ち切った。
狐耳の少女が一歩前に出る。
尾を揺らし、愉しげに目を細める。
「正しさなんて、どうでもいいでしょう?
生き残るのは、強い者だけ」
周囲の獣人たちがざわめく。
「この者たちを、今年の獣王と戦わせては?
勝てば“強者”。負ければ、それまで」
一瞬の沈黙。
オオカミの男は、スミレをじっと見据えた。
「……いいだろう」
先ほどより低い声だった。
「我ら獣人族は、強者にのみ従う。
三日後、獣王決定戦だ。
お前たちは――次代獣王と相対せ!」
その日、スミレたちは一軒の家を与えられた。
三日後の戦いに備えるために。
「……誰が出ますか」
マイが、恐る恐る口を開く。
「私は攻撃力が高いわけではありませんし……」
スミレは、しばらく黙っていた。
勝てる保証はない。
正しいとも言い切れない。
それでも。
「私が行く」
声は、思ったより静かだった。
「この中で一番強いかどうかは……分からない」
一度、息を吸う。
「でも――逃げたら、きっと後悔する」
三日後。
獣人族が味方になるかどうかは、
そして、スミレ自身が折れるかどうかは――
その一戦に、すべてが委ねられていた。




