第三話 眠る薬、目覚める薬(二)
東雲夏樹が転校してきたのは、十一月の頭だった。その年の秋はとても移り変わりが激しく、すでに秋というよりも初冬の寒さを迎えていたころだ。彼女の転入は、代わり映えのしない珠緒の生活に唯一訪れた劇的な変化だ。
夏樹は珠緒の人生に登場する方法も、他に類を見ないものだった。
放課後。珠緒がいつものように永霧に報告書を送っていたときだ。教室の引き戸が開く音がしてそちらに視線を向けると、そこに夏樹が立っていた。窓から差し込む西日に目を細め、彼女の視線はゆっくりと、カメラで景色をスキャンしていくように教室を見渡した。一番後ろの窓際の席を捉えたとき、珠緒と目が合う。
珠緒は当然、夏樹を見たことがなかった。
だが見知らぬ少女が近づいてくることよりも彼を狼狽えさせたのは、夏樹が継海と似ていたことだった。顔の造りではなく、仕草や醸し出す雰囲気が似ている。一番の共通点は、彼女らが二人とも整った顔立ちをしていることだ。珠緒は上手く説明ができないが、種類の異なる美形だと思った。
珠緒の席まで来ると、夏樹は微笑んだ。
「君、こんな時間まで学校で勉強? 真面目なんだ」
「いや、誰ですか」
「ああごめん。私、明日からここに通うんだ。君の同級生だよ。東雲夏樹」
「そう、なんだ」
珠緒はスマートフォンをポケットに仕舞った。視線は色んなところを彷徨った末に、窓の外から見えるグラウンドに向ける。
すると夏樹も窓の外に寄った。グラウンドでは、陸上部の生徒たちがクラウチングスタートの練習をしていたり、サッカー部が練習試合をしていたりと、色々ごちゃごちゃと人が動き回っていた。
「部活はやらないの?」
珠緒は黙り込んだ。夏樹は勝手に楽しそうに話す。笑い声は少し高く、彼女の些細な動きに合わせ、腰まで流れる艶々の黒髪が揺れる。
「前の学校だと、私の周りはアルバイトしてるか遊んでるか、部活してるか。放課後って、学生だと一番その人の個性が出るんじゃないかなって思うの。
私は剣道部だったけど、同じ剣道部でも真面目に稽古に励む人もいれば、幽霊部員になってほとんど遊び惚けている人もいる。受験はまだ先だけど、勉強を優先する人も。ね? これだけでも、少し人柄が分かりそうでしょ?」
「いや、だから、何」
「こういう違いを考えるのが趣味なの。世の中にいる色んな人のことを、私は知りたい。君みたいに人付き合いを避ける子って言うのかな、そう言う子にも種類があると思うんだよね。
本当は人付き合いをしたいけどできない子。
本当に人付き合いをしたくない子。
そもそも人に興味がない子。
その人たちは似ているようで、全然違う。だから君がどういう人なのか、知りたいんだ」
珠緒は言葉を失って夏樹を見上げた。グラウンドに顔を向けたまま、彼女は丸い輪を指でつくり、望遠鏡をのぞくようにそこから人々を見ていた。変人だ。
珠緒は警戒心を抱き、ゆっくりと椅子を引いた。
――そもそもこの人が本当に転校生か、分からないじゃないか。
「知って、どうするんだよ」
動きと音に気が付き、夏樹が望遠鏡ポーズのまま珠緒を見る。彼女は不敵に笑った。
「人を知ることは平和への第一歩だから」
「あぁ、もしかしてラブ&ピースとか、そういうノリってこと?」
夏樹は微笑みを絶やさないまま、背中の後ろに両手を回す。くるりと教壇の方へとつま先を向け、壁に貼られている誰かの『平和公演』のお知らせをすうっ、と撫でる。
距離が遠くなった分、声を張りあげる。
「平和って言葉は嫌い?」
「そういうわけじゃない、けど……軽々しく使う人は信用しない」
「そう。なら私と同じ」
「初対面で、何でこんな話を?」
「アハハ、変なこと言うね。初対面だからこそでしょ、こういう話は。友達になってからじゃ多分真剣にできないよ。友達同士で平和談義、したいと思うことある?」
珠緒は反論したいような気がしたが、言葉は出てこなかった。
夏樹はチョークを手に取り、黒板に不慣れな文字や絵を書いた。赤色、青色、黄色、白色の集団が描かれる。それぞれの集団は、十字線で仕切られている。
「さて問題です。これは何でしょう?」
「知らないし、分からない」
「ちゃんと考えて?」
――なんだ、この人。
別に無視して逃げてしまっても良い。
しかし珠緒の足裏は教室の床にべったりと張り付いて、取れそうになかった。自分の足を縛るものの正体が、珠緒には分からない。
「何か、タイプの違う人たちを、色分けして描いてるんだろ?」
「うんうん、良いね。
じゃあ君は、この区切りは何で決められると思う? 集団を分けるための基準は、何?」
「そんなの、色々。性別とか、生まれとか、あと、性格とか」
「そう、色々なんだ。
だけど人付き合いって、どこか一面的な区切りを設けがちな気がしてるの。最初お互いのことを大体把握したら、あとは適当に関わるだけで良い……みたいなさ。
速読と同じ。表面をさらって分かった気になって、一括り」
「それで? 僕には、問題があるようには思えないけど」
「私には大問題なの。人生の難題。
君には、分かる気がしてたけどな」
残念。
黒板に描いた絵を消し、夏樹は教壇から降りる。またフラフラと身体を揺らしながら珠緒へとゆっくり近づいて来て、互いの鼻息が分かるくらいにまで顔を近づけた。
「な、何」
「色分けの方法はひとつじゃない。みんながそう思えて、少しでも今みたいな話が出来たらさ、今よりも住みやすい世の中になると思うんだ、私は」
珠緒はそのとき、ふと母親のことを思い出した。
彼女についた客について、お金という付加価値によって呼び名を変えていた。そのときに感じた軽蔑が、今は自分の背中をチクチクと刺すような感覚が襲う。
――お母さんと僕は、何が違う。
夏樹はふ、と息を漏らして笑い、顔を遠ざけた。
「少し、君のことを知れた気がするな。明日からもよろしくね、朝澄くん」
これが、東雲夏樹との初対面だった。
彼女は翌日、宣言通り朝礼の鐘と共にやって来て、教室中が色めき立った。性別問わずクラスメイトたちは息をのみ、我先にと休み時間に声をかけに行った。珠緒のひとつ前の席には休み時間ごとに人が集まり円陣が出来あがるような騒ぎになる。
珠緒は熱狂から一人はぐれた。
日中の教室での夏樹は至ってふつうだ。他の女子生徒たちが、「数学の○○先生まじで性格終わってる」「最近外で電波の繋がり悪くて最悪」などと日常の愚痴を言うのに混じって窘めながらも笑っているし、男子生徒とは自分から積極的に関わろうとしない。女子生徒たちにとっては気の置けない仲間であり、男子生徒たちにとっては高嶺の花になった。
それが珠緒と二人きりになると性格が変わったように難しい談義を好んでやる。遠慮もない。
「今日も一人? 朝澄くんが友達と喋ってるところ見たことないね」
「仕方ないだろ、僕は、……暗いし、得意なことがあるわけじゃないし」
「ふーん。友達になるのに『何が出来るか』なんて些細な問題だと思うけど。ほら、勉強ができなくても好かれている人はいるでしょう? お喋りが下手でも落ち着くって人もいるじゃない。
逆にさ、朝澄くんが友達になりたいって人がどんな人か、考えればいいんだよ」
夏樹はこんな風に、珠緒の交友関係にも興味を示した。
珠緒の頭にはこのとき、すぐに幼馴染のぶっきらぼうな顔が浮かんだ。家が近くだったから、お互いの境遇が似ていたから、そんな理由で自然と距離が縮まった。
「友達に、なりたかったわけじゃない」
夏樹は満足げに笑った。
――何がそんなに楽しいんだか。
「そうそう、人と人はただの巡り合わせですよ」
評論家か宗教家のようなわざとらしい口ぶりだった。
「ねぇ、今、誰のこと思い浮かべたの?」
「……」
「君はすぐにだんまりしちゃうねぇ。言いたくないなら良いけど、そういうときは『言いたくない』って言っちゃったほうがすっきりするよ」
「東雲さんが難しい話をするから、僕の頭はいつもパンクしそうなんだよ。僕は、本当は何も考えたくないんだ」
話に付き合うといつも頭が痛く、詰めこんでいる黒い靄が濃くなるように感じた。永霧が麻薬なら、夏樹はただの毒だ。突然現れて、珠緒の情緒をかき乱す。もしも夏樹をぴったり形容する言葉を珠緒が知っていたとしたら、“ファム・ファタール”と呼んでいただろう。
妖艶な微笑みが、いつも追いつめるように机の上に寝転がっている。
「それは駄目だよ」
「何が」
「考えたくない、ってやつ。駄目。何も考えないと、本当に馬鹿になっちゃうよ」
「いいよ、馬鹿で」
「良くないよ。馬鹿が溢れると、世の中どんどんおかしくなっていくんだから」
夏樹はいつも、突き刺すような言葉で世界を非難した。
そのたびに爽快さと苛立ちが同時にやってくる。珠緒はひび割れたスマートフォンに映る自分と目を合わせた。今の言葉が、自分の口から出せたらどれだけ良いだろうか。そんなことを考える。
「東雲さんは、世の中に不満があるんだ」
「それはもう。語らせたら一日は途切れず喋りますよ、私は」
珠緒はその場で上手く返事が出来なかった。
けれど、夏樹が不満を募らせていることに違和感を覚える。
永霧に向けてレポートを書くとき、何度も打ち直しては文字を消す。疲れて働きたくないはずの脳が無理やり押し出した言葉が、スクリーンの上に並ぶ。
『東雲さんは大勢の友達に囲まれて、先生から信用されている。
髪や顔はいつもきれい。健康。お昼は学食。頭が良い。体育でも綺麗に高跳びをやった。実家がお金もち。家が豪華』
――何を、不満に思うことがあるんだろう。
布団の中で寝転がる。夜の静寂が、一層深くなった。
隣室の住人が見るテレビの音が、壁ごしに聞こえてくる。バラエティー番組の、やかましいMCのツッコミや、あとにつづくパラパラとした笑い声がする。隣に住む一人暮らしの中年男性が豪快にお酒を飲みながら、呂律の回らない舌で野次を飛ばす。
珠緒はその男性のことに、少し想いを馳せた。
彼は不満に溢れていそうに思えた。理由を考える。
――一人ぼっちで……あまりお金が無さそうで……趣味も、なさそう。
テレビ番組の音は毎日聞こえる。
たまに、ベランダに出て「うるせぇよ、放っといてくれや」と誰かに文句を言っている。電話をしているようで、相手の声は聞こえない。聞き取りづらい声で「どうせ俺は落ちこ……だよ、今更……ぶってんじゃねぇや!」と叫んだこともある。
夏樹がそんな風に言っているところは、想像できなかった。
――継海は、どうだろう。
自分が突き放した幼馴染の顔が、また浮かぶ。
彼女は自分の絵が評価されないことに不満を抱いていた。
――もしも絵を描いていなかったら、どうだったんだろう。
折れない芯のようなものがあるから、やはりどこかで世の中と摩擦が起こっただろうか。そもそも、世の中とは何だろうか。
段々と考えがいろいろな枝葉に逸れていき、瞼が重たくなってくる。
と、そのとき、隣室のインターホンが鳴る。別のアパートの住人が、テレビがうるさいと文句を言いに行ったらしい。珠緒は言い争う声を聞いて覚醒する。子供のころも、似たようなことがあった。せっかく眠っていた母親も、唸り声を上げながら目を覚ます。
「んー、なー」
「ごめん、お母さん。大丈夫だから」
「うぅん……ん? おーとなり、さん。またけんか。けんか」
「うん。うるさいね」
「うー」
母親が、ばりばりと畳を引っ掻く。
「お母さん」
「せまいねぇ。せまい。せまーい」
少し大きな声を上げてしまったので、今度はもう一つの隣室から壁を強く叩かれた。ドン、という鈍い音に驚いて、母親はまた声を上げた。
「うぅ、ふふ。みんな、せまいからおこるんだねぇ」
「……そうかもね。お母さん、とにかく寝よう」
「うー、タマオ。ぶつかるとね、いやなきもちになるよねぇ」
「なるよ、ねぇ、寝よう」
珠緒は早く寝たかった。
母親を眠らせたかったが、やり方が分からない。
「ねー。もやもやってみーんな、けんかからくるんだよぉ」
「分かったよ」
珠緒は仕方なく、昔の父親の真似をした。夜仕事に出かける母親の代わりで、父親はよく眠れなくなった珠緒の元へやって来て本を朗読した。お腹をやさしく、一定のリズムでポンポンと叩きながら。そうすると、珠緒はいつの間にか眠ってしまっていたのだった。
今のアパートに彼の読んだ本は残っていなかったので、珠緒はインターネットで適当に出てきた絵本の一節を読んだ。
隣人たちの喧嘩の声は、気がつけば止んでいた。
隣人はその後ベランダに出て、煙草をふかしているようだった。煙を吐く長い息をしたあと、一言。
「誰がこんな世の中にしたんだか」
珠緒は再びすやすやと眠ってしまった母親の顔を見て、
「そうですね」
と、思わずつぶやいていた。
中々言葉にならなかった違和感が、みんなが寝静まった後になって電子画面にするすると浮かび出す。
『世の中に対する不満って、身の回りから起こるものだとばかり思っていました。東雲さんは恵まれているのに、“不満がたくさんある“ことが何だか信じられません』
永霧からの定期連絡は翌日、一時間ほど遅れて送られてきた。
《人の苦悩は見えづらいものさ。生まれついて社会正義に燃える、ちょっと変わった人種もいるけれどね。
何にせよ東雲夏樹には、少し警戒した方が良いかも知れない》
珠緒はその日から放課後、教室に居残るのをやめた。
第三話、お読みいただきありがとうございました!
私生活で時間が取れず、さっそく週一更新が遅れてしまいました。あと、一節3,000字前後と言っていましたが、この節は普通に5400字くらいあります。
と、言うわけで何も守れていません! 本当にごめんなさい。
今回は一週間遅れということで、変則的に二話連続で更新させていただきます。良かったら続きもゆっくり読んで下さいね~。




