第三話 眠る薬、目覚める薬(一)
永霧は母親の一件以来、犯罪の片棒を担げと強要することはなくなった。
珠緒には(本人に自覚はないが)物事を深く考えるのを忌避する傾向がある。複雑に入り組んだ環境やその混沌に放り込まれた自分に「不幸」のラベリングをすることは出来ても、カオスを解きほぐす方法は知らないし誰にも頼ろうとしない。そもそも解けない問題だと、他人はおろか、自分さえも信用していない。
約一月をかけて珠緒の諦め癖を見抜いた永霧は、「被害者でもあり加害者でもある」状況に陥った珠緒が反抗するとは、もはや考えなかったのである。
代わりに珠緒に求められたのは、継続的な報告だった。
《これからはもっと、身の回りに起きたことについて、君が感じたこと・考えたことをより詳細に教えて欲しい。
朝澄くんのお母さんについては、こちらでできる限りのことをしよう》
母親は“実験”から帰ってこない。
帰宅はしているが、鏡に映る自分の姿を見るたびに半狂乱となって暴れた。鏡台を引っ掻き、畳を掻き毟り、身体の奥から漏れだしてくるざらついた唸り声を上げる。それから珠緒の身体に縋りつき、泣きながら謝る。
どうして彼女がそんな行動を取ってしまうのか、本人の口から語られることはない。確かなことは、今まで以上にまともなコミュニケーションを望めないということだ。珠緒には、とても同じ人体実験を受けたと信じられなかった。
けれど母親の身に何が起きているのか、考えることもなかった。
――考えたって、僕に分かるはずがないんだ。
永霧は珠緒の母親が働けなくなってしまった分の生活費を補填(知らない人の名義で銀行口座に振り込まれていた)して、日中、珠緒が学校に行けるようにヘルパーを雇ってもくれた。珠緒の生活には影響がないどころか、むしろ以前よりも楽になった。
頭の中に重たい霧が詰め込まれたような感覚が続いていたが、珠緒はそれを無視した。
《私の言う通りにしていれば良い。
美しさに囚われない君が見ている世界を、どうか私に教えてくれ》
チャットアプリに表示される小さなピクセルの無数の羅列が、麻薬のように作用した。
*
ノートの上を走るペン先が止まる。
丸まった紙が頭にぶつかったからだ。
珠緒が飛んできた方向を見ると、男子生徒たちが笑いを堪えながら真面目ぶって黒板の方を向いていた。
「朝澄くん? どうしましたか。授業をしっかり聞いていましたか?」
「はい」
「では、この問題を解いてください」
珠緒は黒板の前で固まってしまった。
解けない。数学の確率の問題で、一度はたしかに見たことがあるのに、解法は全く思い出せない。チョークを擦りつけられた黒板がキィキィと鳴く。
「……朝澄くん、もう席に戻ってください」
「はい」
席に戻るとき、教室中が俯いていた。
先生がガタン、ガタンと大きな音を立てて解答例を書いていくあいだに、珠緒は飛んできた紙を広げてみた。中身には何も書かれていない。
珠緒はそのとき、昔、本当に幼かったころ、父親に連れて行ってもらったバッディングセンターの光景を思い出した。もう顔も思い出せない彼が、「投げてみろ」と言って、まだ珠緒の手には大きすぎる硬式野球ボールを渡した。何十回か投げて、ようやく数字の書かれた的に当たったとき、父親は珠緒と一緒になって飛び上がって喜んでくれた。
珠緒は最近、こういうことが増えた。
ある出来事に刺激され、忘れていた記憶がゆっくりと思い出される。これが人体実験の影響によるものかは分からない。珠緒はすべてを永霧に報告する。そうすると、頭に詰められた黒い霧の一部がどこかへ消えてしまうからだ。記憶も一緒に、電子世界へと消える。
一日の授業がすべて終わったあと、珠緒は人がいるのも気にせず教室に残り、永霧への報告書を書いた。
初めのうちは、学生生活を謳歌している生徒たちから「何残ってんだ」「俺たちが教室使うから早く帰れよ」と罵られることもあった。しかし殴り飛ばされても珠緒は居残りを続けた。一週間、二週間。二学期の半ば十月末まで続けると、次第に声を掛けられることもなくなった。いじめる生徒たちの方が折れた。
小さな勝利に、珠緒の胸が少し軽くなる。
起きた変化と言えば、これくらいのものだった。
毎日スマートフォンを開き、学級日誌を書くときと似た気持ちで文字を打ち込んだ。
《おはよう朝澄くん、君はどうして教室で報告書を作るのかな。そうすれば、殴られることもなかったと思うけど。何か拘りがあるのかい?
よければ今日の報告では、そのあたりの心情を掘り下げてくれ》
永霧が毎朝八時ぴったりに送ってくるメッセージが、授業中でも頭から消えない。一方で、母親の存在感が無くなる。
それは放課後も同じだった。
『家では集中できません。酷いことですが、僕は多分、家に帰りたくないんです。
美しいと感じる心がなくなった影響かは分かりません。けれど僕は嫌な出来事の中でランキングをつけることができるようになって、自分がいちばん嫌だと思うことを避けられるようになりました。
いちばんに比べたら、いじめられることは大したことじゃありません。だから、放課後は教室に残るんです』
珠緒はいつも、閉門ぎりぎりの時間まで居残った。
翌朝、永霧からはまたメッセージが届く。
《おはよう朝澄くん。昨日はありがとう。
段々と実験データが溜まっていくよ。しかしまだ分からないな。同じ理屈で、君は幼馴染と過ごすことも選択できるはずだけれど、どうして一人になるのかな。今日はそれを考えてみてくれ》
――継海は、
寝ぼけた眼でメッセージを見たとき、珠緒の脳裏にはっきりと、彼を心配そうに見上げる彼女の顔が蘇る。一瞬、『気持ち悪い』という言葉が身体の奥で静かに、低い声で落ちていった。割れた鏡に映る自分を見たときのようだ。
その日の放課後は、次のような返事を書いた。
『僕は、継海にも会いたくない。
理由は罪の意識、だと思います。いや、違うかもしれない。ぴったりと当てはまる言葉が分かりません。とにかく、継海と会うと、不細工な自分を見たときと同じなんです。前までこんなことはなかったんですが。
人と違う。そう、人と違うんです継海は。それが僕には、気持ち悪い』
スマートフォンの画面をタップしながら、珠緒はまた、おかしなことを思い出した。
『毛並みのきれいなネズミみたい』
永霧の“研究所”で見せてもらった、一匹のラット。周囲に疎まれてやせ細っていたあのラットが、珠緒の頭の中をちょろちょろと走り回る。珠緒はあのネズミがケージの中で死んでいる姿を想像して、やめた。
「僕は、考えたくないんだ」
言い聞かせるようにつぶやくと、ネズミは消える。
一番に打ち込んだ『毛並みのきれいな~』というくだりを消し、珠緒はメッセージを送信した。
《おはよう朝澄くん。君の考えは実にすばらしいよ。
醜さと美しさは、どちらも等しく“ふつう”から外れること。すなわち、人と違うということだね。一方は忌避され、一方は渇望される。この差がなぜ生まれるのか考えることで、研究を新たなステージへと上げることが出来るかもしれない。
引き続き、よろしく頼むよ》
翌朝届いたメッセージには、永霧の興奮が見て取れた。
少しサイズの合わないローファーに足を嵌めこみ、ドアノブに手を触れる。そこでカツン、と何かを蹴り飛ばした。足もとには母親が乱暴に脱ぎ捨てているハイヒールやパンプスが転がっている。
無秩序に転がった靴を整列させ、珠緒は改めてドアノブを回した。
後ろを振り返ると、母親が小さな背中を見せて眠っている。また肩が露出していて寒そうに震えていたが、珠緒はそのまま黙ってアパートをあとにした。
「珠緒」
道路に出てすぐに、その声は聞こえる。珠緒には見なくても分かる。今、いちばん会いたくない人の声だ。足は止まらず、そのまま真っ直ぐと横断歩道へと向かう。
「無視するな!」
「……」
「お前、何でラインのメッセージも見ないんだよ。心配してるんだぞ。おばさんにも最近会わないし」
――また余計なことを。
信号待ちで立ち止まり、珠緒はスマートフォンを確認する。継海からのメッセージだけで新着通知が十件あった。最後に送られてきたのは昨日だ。
《明日待ち伏せしてるからな、覚悟しろ》
継海らしい言い回しだ。
スマートフォンが、ミシリと音を立てる。
――僕みたいなやつ、放っておけば良いだろ。
珠緒は振りかえり、自分が『気持ち悪い』と言った顔を見据えた。継海は一瞬喜んだが、珠緒と目が合うと目を伏せた。彼は、自分がどんな顔をしているのかも分からない。
「何の用だよ」
「メッセージで送った通りだ。県展で受賞したから、珠緒に見に来てほしい」
「僕じゃなくても良いじゃないか」
「……お前が良いんだよ、私は」
珠緒はしおらしさに腹が立ち、けれど、それをぶつけてしまうことがただの八つ当たりであることも承知していた。わなわなと唇が震える。傷つけずに突き放すための台詞を探した。
こういうとき、永霧になら何と送るだろうと想像してみる。
それで、昨日送れなかったメッセージが口から飛び出した。
「『毛並みのきれいなネズミみたい』だ」
継海はポカンと口を開けて、黙ってしまう。
珠緒は続きに詰まって口ごもった。
二人のあいだに、横断歩道をパラパラと歩く人波の足音が響く。やがて継海はおもむろに空を見上げ、つぶやいた。
「もういい。付きまとって悪かった」
そのまま踵を返し、継海は雑踏とは反対の、閑静な住宅地へと歩いて行った。珠緒はその背中が見えなくなるまで立ち尽くしたあと、雑踏の一人になった。
孤独は、大勢の中にいて重みを増す。




