第二話 囚われの者たち(三)
*注意*
この章には虐待・暴言の要素が含まれます。
精神的負担となる可能性がありますので、特にトラウマ経験などある方はご自身の精神状態と相談しながらお読みください。
昔、インターネットの掲示板かSNSなどの交流サイトでこんな文言を見たことがある。
――『不細工は性格までブスが多い』
自信がないから卑屈で、被害者意識が強いということらしい。
珠緒は永霧が用意したチャットアプリに「ターゲット」の情報を書きこもうとしたところで、そのことを思い出した。狭い畳の部屋の中、鏡台に映る自分と目を合わせてみる。
あごの骨が大きく発達しているせいで顔の輪郭が四角い。鼻はべちゃりと潰れていて大きい。唇は肉厚だ。なのに目は小さくて、三白眼。肌は乾燥してニキビがいくつも浮いている。髪の毛も縮れていて、毎日シャワーを浴びていてもどこか不潔感が抜けない。
その醜い顔が、珠緒を睨んでいる。
かつて確かに反発心を抱いたはずの言葉に、珠緒は妙に納得してしまった。
もう一度、スマートフォンに視線を落とす。
《永霧さん。以前言っていたターゲットのことですが、》
早く続きを書けと急かすように、《|》のマークが点滅する。初めはそこにちょうど影が重なるように差し込んでいた夕陽が、いつの間にかスクリーン全体を橙色に染め上げていた。
そのとき、ブ、ブと機器が振動する。
画面にはアルバイト候補先の電話番号が表示された。
「あー、朝澄くん? 今大丈夫? 面接の結果なんだけど」
「はい」
「こっちが求人出してたのに申し訳ないんだけど、残念ながら不採用ってことにさせてほしい。君は全然悪くないよ? ただ、今後他のアルバイトを探すなら、……もう少し清潔感を持って、それから、……飲食業以外を選んだ方が、良いかもなぁ」
「分かりました。わざわざ電話でありがとうございます」
「う、うん。ホントにごめんね」
まだ何かつらつらと続いたが、珠緒はその電話をブツリと切った。
――言われなくても、普段は人前に出なくて良いような仕事を選んでるよ。
日が本格的に傾き、部屋全体を覆うような灰色のベールが下りる。スクリーンに映るデジタル表示の時計を見ると、時刻は十七時ちょうどだ。アパートに帰ってきてから数時間、ずっとスマートフォンと睨みあっていたことになる。
タイミング悪く、そこに母親が帰ってくる。
慌てて携帯の電源を落とし、珠緒は声をかけた。
「おかえり、お店に、行ったと思ってたよ」
「あ? アタシがいつ帰ろうが勝手でしょ。それより今の電話」
「え、あ、あぁ。新しいアルバイト、探してて」
「不採用だったんでしょ? 本当、早く新しいバイト先見つけろって。おめぇの親父が養育費払わないせいで高校の学費払って生活カツカツ、何度も言ったよね?」
「ご、ごめん」
「謝るしかできねぇのか、ブス!」
スマートフォンを握りしめる手が、汗でぬかるむ。
今日は母親の機嫌がとても悪い。今朝、『今日は同伴だから』とメモを残して眠っていたことから推測するに、この時間に帰って来たということはその予定が潰れてしまったらしい。
よく見ると、肩を露出させる派手な服装の端から、白い肌に青あざがのぞいている。
「お母さん。誰かと喧嘩、したの?」
「……アンタ、最近目ざとくなったよねぇ。はは、そうだよ。お母さん、太客から怒られちゃった。
『子供がいるのを隠していたのか』って。分かる? おめぇのせいだよ」
――それで逆上して、返り討ちにあったのか。
殴った男に非が無いとまでは言えないが、母親の方がよほど倫理的なタガが外れた行動を取っている。珠緒は母親に高そうなカバンを投げつけられてひっくり返ったが、冷めた目で出来事を俯瞰した。
「ねぇ、何で言い返さないの? そうやって身を守っていれば被害者だから? お母さんのこと、本当は殺したいほど憎いんでしょ? なのにどうして仕返ししないの?」
拳を振りおろされ、腕やお腹から何度も衝撃が走る。つま先から頭まで、稲妻が駆け抜けるような痛みだ。珠緒が問いかけに応える余裕があるはずもない。ただ頭を庇い、身体中を駆け回る雷鳴が消えるのを待つ。
今日はそれが、突然止んだ。
恐る恐る珠緒が目を開けると、彼の腹に顔をうずめる母親の姿があった。涙で化粧が取れ、茶色のマスカラが制服のシャツにつく。シャツが伸びてしまいそうなほど、強く引っ張られる。
「……ねぇ、殺してよ。タマオ、タマオ、だったよね? ねぇ、アタシが悪いって分かってるの。悪い母親だって知ってるの。……でも自分じゃどうしようもないの。直せないの。お願い、殺して」
握りしめたスマートフォンが、振動して揺れる。ラインの通知音だ。中身を見るには腹で蹲っている母親を引きはがさなければならない。珠緒の腹と彼女のあいだに、携帯が挟まって落ちていた。
珠緒は両手を母親の肩にかけ、一瞬、肌に触れてしまったことに怯えた。昔、まだ小さい頃だが彼女に抱っこをねだって触れたとき、その小さな手を思い切り叩かれた。あのときの蔑みの目が忘れられない。
今日は、反応がない。
猛獣に触れる緊張感と、未知の生物に接触するときの不安感が混ざったような恐れが去来する。
――殺せ、か。
スンスンと鼻をすする音を立て、母親はまだ泣いてしがみついていた。
「タマオ、ごめんね。……お母さん、心まで汚くて」
肩に触れていた手が彼女の身体の上を滑り、徐々に首元へと近づいていく。珠緒はその動きを、自分の意志ではないように感じた。今まで怯えたことは数知れず、殺意を抱いたことは一度もない。
――『不細工は性格までブスが多い』
殺人犯として報道されたときネットにどんな言葉が溢れるか、珠緒はよく知っている。
『やっぱり犯罪に手を染めるやつの人相って――』
根拠のない辛辣な言葉が、罪を犯していない珠緒にも突き刺さった。同じように生まれついた顔で苦しんでいる者がそう思われないよう、せめて真面目な人間であろうと今日まで生きてきた。
しかしそんな小さな積み重ねが、珠緒を救わないことは経験済みだ。
――だったら、いっそクソみたいな人間になってやろうか。
首を包み込むように両手を添えたとき、涙にぬれた母親の顔が珠緒を見上げた。
――そう言えば、お母さんも美人だったっけ。
珠緒に直接語られたことはないが、近所の人のうわさ話では整形をくり返し今の顔になったということだ。その話を偶然耳にしたとき、珠緒は母親の美しさが見せかけであることに安堵した。蛙の子は蛙だったのだと、母親とのつながりを嬉しく思ったのだ。それ以来、母親を美人だと意識したことは一度も無かった。
今更なぜ、整った顔立ちだと思ったのか、珠緒にもよく分からない。
「お母さん」
「本当に、殺すの?」
「……僕、本当は昔のお母さんに似ているんじゃないかって思うんだけど、どうかな」
珠緒はただの当て推量で口にしたが、母親はみるみるうちに顔から生気を失っていった。
――図星なんだ。
「は、ねぇ、待って。どこでそんな」
「醜いって何度も言うのは、自分を否定したいからなんだね。
僕の幼馴染にさ、継海っているだろ? アイツは生まれつき美人だったからか分からないけど、人の見た目に興味がないんだよね」
生まれついてのお金持ちが、他人のお金に執着しないのと同じだ。
生まれついての美人なら、誰かの美醜に執着しない。珠緒の母親が“醜い”と執拗に容姿を責めたのは、結局、社会の求める美しさに囚われているかららしい。
――なんだ、それなら話は簡単じゃないか。
「……お母さん。僕は、お母さんみたいな人にこそ、僕が見ている世界を知ってほしい」
「何、言ってるの?」
「すごい科学者の先生が居るんだ。会いに行かない?」
首に添えた両手を離し、珠緒は困惑する母親をよそに立ち上がった。母親もシャツの裾を掴み身体を動かしたおかげで、スマートフォンが畳の上に落ちる。
スクリーン上に映った継海からのラインの通知を消し、珠緒は先ほどまで開いていた永霧たちのチャットアプリの画面を開いた。まだ未送信のメッセージが、そこに残っている。
《ターゲットのことですが、》
珠緒の憎しみの対象は、美しい人ではない。
美しさを賞賛し、すべての人がそうであれと固執する大衆だ。
《誘拐ではなく、自分の意志で永霧さんのもとへ行かせます》
続きにそう打ち込み、珠緒はそこで、自分の罪悪感が少し薄れていくのを感じた。誘拐でなく母親が自分の意志で日ガ瀬まで行くのなら、共犯ではなく協力に近い。
そんな自己欺瞞に気づくこともなく、珠緒は呆然とする母親を横目に、勝手な約束を取り付けた。
引き続き重いテーマを扱った内容になりましたが、物語はここからSFとミステリーの要素が展開していく予定です。
第二話も最後まで拝読いただきありがとうございました!
次回以降もどうぞよろしくお願いいたします。




