第二話 囚われの者たち(二)
「随分寝不足のようだな」
期限まで残り九日。
その朝に、珠緒は今最も顔を合わせたくなかった人物に声を掛けられた。彼女は珠緒たちの住んでいるボロアパートの道向かい、これまた古い集合住宅が立ち並ぶ一画に住んでいる。
いわゆる幼馴染だ。
幅のきれいな二重と大きな瞳・小さな口・よく通った鼻筋・艶のあるサラサラの明るい茶髪、あらゆるパーツが完璧な美人でもある。目が合って不敵に微笑まれるだけでも大抵の人間は胸が高鳴り、もしも初対面で話しかけられようものならばドーパミンの分泌量がとんでもないことになりそうだ。
それくらい、大河継海は美少女である。
「別に、継海には関係ないだろ」
「何だ、機嫌が悪いな」
「だから関係ない」
「ふーん」
幼馴染というのはいろいろ厄介だ。珠緒のように両親との交流が少ない家庭の子供同士ではときに、家族のような絆さえ芽生える。家族という他人以上に親身になる。それ故に、互いの変化に敏感だ。
珠緒が素っ気なく返事をする。その声に含まれる微かな違和感――ただの不機嫌以上の事情を読み取ることもできる。もちろん、ただ幼馴染というだけでなく継海の観察眼が優れていることも原因だ。
昔から、彼女は目がとても良く勘が鋭かった。
「珠緒、学校を一日サボったらしいな。
そのことと、今日の寝不足は関係しているのか?」
ざぁ、と血液が、滝のように落ちていく音を聞く。
「何、で学校をさぼったって、知ってるんだ。お前、まだ磯中だろ」
磯中とは磯谷中学校のことで、一年前まで珠緒も通っていた地元の公立だ。生まれ年は同じだが三月生まれと四月生まれとで学年が違うので、珠緒は一足先に公立高校に通っている。
「県展が近いから、少しまえまで徹夜続きだったんだが……数週間前、早朝にアパートを出ていくところを見た。ずいぶん切羽詰まった様子だったから、気になっておばさんに聞いたんだ」
――お母さん、喋ったのかよ。
継海の部屋の窓は道路に面している。確かに、珠緒が見られていてもおかしくはない。
「勝手なことするな!」
「最近、暗い顔をしていたから心配だったんだ! 学校が違ったら、全然話ができないし」
「僕は、お前と話したいことなんて一つもない!」
珠緒は居たたまれなくなってその場から駆け出した。後ろから「珠緒!」と叫ぶ声を無視し、点滅する横断歩道をそのまま渡り切った。T字路を右に折れ、継海の姿が完全に消えたところでようやく足を止める。
肩で息をしながら、地面に落ちていく汗を拭う。
――僕を、憐れむな。
心配だと言った継海の顔に向って、珠緒は一人考えた。
この数週間で、人の顔を観察できるようになって分かった一つの気づきが、頭をよぎる。暗い気持ちになったとき、人は大なり小なり魅力が落ちる。心配事があるときだってそうだ。顔から覇気が消え、あるいは時に皺が深くなるほど怒って悲しんで、筋肉とそれを覆う皮の形が変わることで一時的に顔が変わる。
視覚と報酬系が繋がりを絶たれたことで、珠緒はそれをただの事実として子細に観察した。
それが、継海はどうだ。
憂いのある顔さえ、顔が変わったとは思えない。本気で心配していないからではない。顔の造形が、それほど整っているのだ。多分以前までの珠緒なら、やはり報酬系によって“魅力的だ”と判断していたのだろう。
「……継海には、分からないさ」
皮肉なことに、美しさを報酬として受け取る機能を失ったことによって却って、珠緒は不条理を感じていた。
美しさへの嫉妬が、以前にも増して膨らんでいた。
――生まれてからずっと、僕たちは別の生き物だ。そうだろ?
*
その日一日、珠緒はどうにもうわの空だった。
何をしていても継海の顔が浮かんで邪魔をする。昨日まで「誰を誘拐のターゲットにするか」に苦心してばかりだった頭の中に、朝突き放してしまった幼馴染というノイズが混じった。
国語の授業で、誰かが読み上げる。
「『人がなぜ美醜に拘るのか分からない。
美しいものが評価されるべき舞台で“美を競う”なら分かる。しかし何故人間は、あらゆる場面で美しさを求める?』」
それは、芸術の女神が浮気な男を窘める、という内容のくだらない物語の一節だった。
男は二人の女のあいだで揺れ動いている。一人は美しくないがとても思いやりがあり、男に尽くしてくれる妻だ。一人はとても美しいが時に男の愛を確かめようとする、小悪魔的なところがある。
女神は妻を大切にしろと何度も忠言する。
分かりやすく、外見至上主義を批判した物語だ。
珠緒はこの話を読むたびに吐き気がした。同時に、継海が同じようなことで悩んでいたことを思い出してしまい、どうしても彼女の顔が脳裏に浮かんでしまう。
珠緒が言えば「不細工のひがみ」と捉えられることを、女神も継海も、平気で口にする。
「誰も、私の“能力”を評価しない。
『流石だ』『傑作だ』と、目に見えた嘘を並べ立て、どういうわけか私に気に入られようとするんだ」
珠緒には、目から鱗な悩みだ。
――そんな悩みがあるのか。
彼女たちはどちらも、自分が生み出した作品よりも自分自身の美しさに注目されることに嫌気がさしていた。
自意識過剰でも何でもなく、継海は昔から様々な人間に好意を寄せられた。小学・中学と、下駄箱や引き出しにラブレターがいくつも入っていた。
その反動か、あるときふつりと糸が切れたように表情が乏しくなった。陰鬱な雰囲気を纏うようにして他人を遠ざけ、代わりに絵画の世界にのめり込んでいった。
時には思春期特有の不安定さから暴力も振るうようになった。
言い分はこうだ。
「あいつらは“中身”なんてどうでも良いんだ。
“誰が”しか見ていない。絵を描いたのが“誰か”……それだけなんだ」
詳しいことは分からない。いや、珠緒は詳しく知ろうとしなかった。例え絵の中身が正当に評価されたのでなくても、珠緒の描いた絵のように、日の目を浴びずにぐしゃぐしゃになってゴミ箱に捨てられるより、間違った高評価を与えられることのほうがずっと幸せに見えたからだ。
そんなことを考えている内に、次々とクラスメイトが立ち上がり、文章を読み、座り、珠緒の番が回ってくる。
「次、朝澄!」
「はい」
教室の隅の方で、咳で誤魔化した笑いが漏れる。それを気まずそうにかき消そうとする咳払い。あるいは隠そうともしない悪意のこもった下卑た視線。
「……『頭が良いことだって、足が速いことだって、みんなそれを競うべき舞台でなくても、毎日“使っている”でしょう? “美しさ”を日常でも使うことの、何が悪いのかしら?』
女は女神に道徳を説かれたとき、悪びれもなくそう答えた」
珠緒が着席し、次の人へと番が回ったとき、どこかから丸まった紙屑が飛んできた。机の上に落ちたそれを仕方なく広げてみたら、そこにはただ一文。
『さすが、朝澄くんが言うと説得力が違いますねぇ!』
押し殺した笑い声が、隣の席と、もう一列隣の二つの席から聞こえる。珠緒は紙くずをもう一度ぐしゃぐしゃに丸め、そのまま握りこぶしの中に収めた。
物語の最後、美女は傍若無人な振る舞いにより天罰を受け、その美貌を永遠に火事で失ってしまう。
――でも現実は、生まれもったモノを活かした奴が生き残っていく。
珠緒がこの物語に吐き気を催すのは、こういうところだ。
物語が克明な現実の描写ではなく、ただの祈りに終始している。こういう世界であれという作者の祈りに共感するからこそ、珠緒は自分の醜い嫉妬にも気が付き、自己嫌悪と同族嫌悪の二つに苛立つのだ。
と、そのとき。
ふと継海をバンに押し込むイメージが頭をよぎった。
むしろ今まで、何故思いつかなかったか不思議なくらいだが、珠緒は自分の苛立ちと「ターゲット」の問題を同時に片付けてしまえるかもしれないアイディアを思いついた。――思いついてしまった。
――どうせ、僕は最低な人間だ。
母親を外へ呼び出すよりもずっと自然で、警戒心を抱かせない。継海とは中学までは一緒に出掛けることだってあった仲だ。彼女の悩みはある意味珠緒と真逆なものだが、『美醜について一度でも悩んだことがある』という条件にも当てはまる。
最低な考えが胸の中に渦巻く。
どす黒いものがグルグルと身体を駆け巡っていく感覚が気持ち悪く、珠緒は本当に吐き気と共に涙をもよおした。一人前に罪悪感を覚えている自分がおかしく、歪んだ笑みが抑えきれない。
「ひ……ひひっ」
――何なんだ、僕は。
その引きつった笑い声にはさすがのクラスメイトたちも慄き、無意識に椅子ごと距離を取った。




