第二話 囚われの者たち(一)
日ケ瀬での人体実験から数週間。
珠緒は何をして過ごしていても気が休まることはなかった。あの日以来、気を抜いてしまえば具体的な脅しの文言が、頭の奥から日常の中へとしみ出してくるからだ。
一つは、珠緒自身の安全に関する脅し。
――『今日のことを警察に通報することは許さない。実験の内容が一部でも外部に漏れたと判断したら、君を容赦なく抹殺させてもらう』
一つは、珠緒の身近な人たちに関する脅し。
――『実験の内容が漏れなくとも、君が協力を放棄し逃走したと見なした時点で、朝澄くんの母、幼馴染、数少ない学友を拘束し、やはり抹殺する』
永霧の言う“抹殺”にどこまで実現性が伴っているか、高校生一人の判断力では見極めることは難しい。ただ街を歩くとき、後ろから勢いよく追い越していく自転車やすれ違う人にさえ肩が無意識に跳ねる。カメラを向けてくる人、電話をしながら偶然目が合う人がいたなら遅刻をすることになっても遠回りする道を選んだ。
一方、珠緒が異常な状況と精神状態に置かれていることを知るものはいない。どれだけ珠緒に寄り添った見方をしてくれる先生でも、「数週間前、学校をサボタージュしたことがきっかけとなり、サボり癖、ないし規範意識の乱れが生じているのではないか」と判断した。
学校から母親に連絡がいけば、当然それらのサボタージュと遅刻は彼女に露見する。
「真面目に勉強しないなら、学費払わないわよ! アタシの目がないと思って勝手するのもいい加減にしなさい!」
勢いのついた激しい罵声が、その後何時間も続く。
これは事情が分からないのであれば当然の怒りと言えるが、珠緒の母親は決して「何か悩みがあるのか」といった類の質問もしなかった。初めから珠緒を見限っているのか、自分の息子を「そういう性格の生き物だ」と諦めていたようだ。これまで――数週間前、永霧に会いに行くまで――は毎日、無遅刻無欠席を貫き、成績が良くないなりに真面目に過ごしていたことは、誰かが珠緒を庇う理由にはならなかった。
誰ひとり珠緒の異常に「不良になろうとしている」「大人の気を引こうとしている」という見方以外を示さない。
きっかけを考えれば自業自得とは言え、このことはどんな罵声よりも珠緒を疲弊させた。
彼はこうして、なけなしの判断力を益々すり減らしていく結果となったのだ。
永霧は珠緒の心理をよく把握し、そこにつけこんだ。
彼が十分に疲れ切ったところで、次のような指令を出したのだ。
《朝澄くん。これから二週間以内に、もう一人被験者を連れてきてほしい。日ケ瀬まで来る必要はない。ただこちらが指定するスポットにその人物を連れてきてくれたら、あとはこちらでどうにかする》
これが、スマートフォンのチャットアプリに送られてきたメッセージだ。あの日家に帰ったらいつの間にかインストールされていた、発行元不明のアプリからだ。遠隔操作によって哲が勝手に導入させたものだった。
この文章では“どうにかする”とぼかされているものの、流石の珠緒でも永霧が何をしようとしているのか、また、珠緒に何をさせようとしているのかは分かる。
――誘拐の手伝いを僕にさせて、いよいよ逃げられなくするつもりだ。
メッセージを見たとたん、珠緒はスマートフォンを思わず放り投げてしまった。ディスプレイにひびが入り、細かな破片が畳に散らばる。するとまたバイブレーションと共にチャットアプリが立ち上がる。
《出来なければ期限を一日超過するごとに母親、幼馴染、学友の順に一人ずつ消えてもらう。私は常に見ているよ》
「ひっ」
鳥肌がぶわりと立ち、珠緒は部屋のカーテンを閉め、あらゆる隙間という隙間をガムテープでふさいだ。動いていなければ気が狂いそうだった。秋口だというのに空気が籠り、汗が全身から滲んでくる。
追い打ちのメッセージが、そこに届く。
《何をしても無駄だよ。君が不審がられて研究のことが意図的でなくても外部に漏れたなら、私は君との“約束”を実行する。スマートフォンを壊すなどして私たちとの連絡手段を絶っても、だ。
ガムテープは、過激すぎるから外しておくのをお勧めするよ》
珠緒は、言う通りに動く他なかった。
――本当に、二四時間監視されている。
どんな方法を使っているのか、最先端科学に明るくない珠緒には見当もつかない。
――でも、共犯になれば僕は犯罪者だ。
抹殺は嫌だ。しかし犯罪者になるのも嫌だ。
珠緒はこの二律背反によって今まで以上に苦しむことになった。自分ひとりの命だからと軽率にすべて投げ出そうとしたことがここまで発展したことを考えると、彼は夜、一人被っている布団をかきむしり、中の綿を全部掻きだしてしまいたくなるほどの後悔に焼かれた。
その呻き声さえ、永霧は聞いていた。
「どうして、……僕はただ、楽に死にたかっただけだ」
枕に沈ませたくぐもった声に、翌朝、次のようなメッセージが届いた。
《違うね。君は人生の意味を欲していた。
誰かに与えてもらいたがっていた。
楽に死にたかったんじゃない、楽に、“生きたかった”んだよ》
珠緒はこれを冷たい否定の言葉であり、真実だとも思った。今、死なないために犯罪に巻き込まれ日常に溢れる恐怖から逃れようとしていることは、彼に生きる意志があることの何よりの証左だ。
涙に濡らした枕が乾いたとき、珠緒の気持ちはすでに決まっていた。
――指示されて、動く。考える必要はなくて、生きる意味は与えてもらえる。これは僕が望んだことだ。
「誰かを殺すわけじゃないんだ。
一人、……一人なら」
漏れ出た声は、珠緒が自分のものとは思えないほど低く、冷たいものだった。
日ガ瀬から帰還してちょうど三週間目にして、珠緒は共犯者への道を踏み出した。
――協力している限り、僕や周囲に危険が及ぶことはない。
永霧からの(あるいは彼の手先からの)暴力に怯える必要は無くなった。珠緒は無遅刻無欠席で真面目に学校に登校するようになり、部活動の時間にはアルバイト探しにいそしむという、一見すると元の珠緒へと回帰した。
しかしいつ何時も、「誰をターゲットにするか」という思考が消えてしまうことはない。
朝、教室に入るとき。
珠緒よりも先に教室にいた生徒たちは、一瞬だけ視線を入り口に向け、また各々のお喋りへと戻っていく。珠緒が彼らの顔をじいっと見回すときでさえ、ほとんどの人間は気づかないか意図的に無視している。目が合った者はあわてて視線を逸らしていくが、獲物を物色する目だと思うものは一人もいないだろう。
アルバイトの面接に行ったとき。
偉そうに人生論を並べ立てる飲食店の店長や、接客中に客の悪口を平気で言いあって談笑している他の店員たちも、同じように観察する。
あるいは家で仕事から帰った母親と会ったとき。
疲れ切って、化粧も落とさないまま畳の上で眠っている彼女さえも、ターゲット候補だ。珠緒は肩の冷えそうな恰好を見ていられず毛布を掛けてみるが、その行為の空々しさに気づき、少し脈拍が上がった。悪寒が身体を走り抜ける。
――落ち着け。
まだターゲットを決めたわけではない。自分はふだん通りのことをやっているだけだ。
観察を始めて数日、期限まではまだ十日ある。
珠緒はそう自分に言い聞かせ、自身の凶悪性に目を瞑った。
《朝澄くん》
眠る前目を閉じれば、ひび割れたディスプレイに映し出された永霧の文字が脳裏によみがえり、頭の中を幾度となく暴れ回る。
《ターゲットは周囲と関わりの薄い人間だ。
君のように厭世主義者とまではいかずとも、いじめられていたり、外部との連絡手段が限られていたり。美醜について一度でも悩んだことがある人間ならなお良い》
犯罪が露呈しないのが一番だが、万が一ターゲットから情報が漏れてしまうとしても、事件の発生と発覚のあいだの時間差が大きければ大きいほど永霧に有利だ。孤立している人間なら、洗脳することも可能かもしれない。
珠緒は永霧の意図を理解したうえで、そんな人間を探した。
とは言え、珠緒の呼び出しに応じてくれる人間などそう多くはない。今から十日で新しい人間関係を築くことも、珠緒にとっては至難の技だ。
その点、珠緒の母は最も実現性が高い。
仕事がない日は一日中家で過ごしており、スマートフォンの着信も店で会う客人からのものが大半だ。最近はそれすら、指名がつかないから少ないとぼやいていた。出かけるとき、珠緒にも行先は告げない。
――いざとなったら、お母さんを……。
近くで聞こえる小さな寝息が神経を刺激し、珠緒はまた、いつまでも寝付くことができなかった。




