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第一話 被験者第一号 (三)

 新しい部屋の中央にはストレッチャーのような拘束具つきのベッドがある。枕近くのワゴンには頭に装着するためと思われる半球型の金属と、そこからスパゲッティのように伸びる何本ものコードがまとめて置かれてあった。

 三方の壁を覆うのは、英語で書かれた論文や日本で出版された書籍などさまざまな文献だ。今どきクラウド上に保存しても差し支えないものばかりに見える。


『脳科学は人格を変えられるのか?』

『スマホを使うときに脳で起きていること』

などなど。

 脳に関する書物がとにかく多い。


「マッドサイエンティスト、などと思わないでくれよ、アサズミくん。先ほどの続きだ」


 永霧は彼の近くの本棚から一冊のノートを取り出す。本当に何の変哲もないキャンパスノートで、表紙に『実験ノート㊷』と書かれている。

 哲の方は珠緒たちのことを放ったまま、伸びた電極が繋がっているパソコンをまたいじっていた。

 ――良く分からない二人だ。


「私はね、アサズミくん」


 気が散っていた意識を呼び戻す、永霧のくっきりとした声が響く。


「どんな環境からでも、『美しさ』に縛られない世界をつくることは可能だと思っている」

「無理ですよ。……僕が、この顔でどれだけ苦労してきたと思っているんですか」

「いいかい? 人はどんなときも脳を介して物事を考える。君が苦しんだもの、すべては脳の電気信号や報酬系の働きによるものだ」


 カタカタとタイピング音が鳴り響くなか、永霧は実験ノートのあるページを見せてきた。たくさんの似たようなグラフが添付されている。


「これは、『美しいもの』を見たときのラットの脳波――特に、報酬系の働きに着目してまとめたものだ。同じラットを1カ月にわたり観察し、再現性があることを他のラットでも確認した。

 つまり、『美しいもの』を見たとき、脳はご褒美を受けとっているんだ」


 その脳の動きは人間でも観測されている、と彼は言う。

 参考文献はこれだ、とよく分からない論文を渡される。


「仕組みが分かったところで、できることがあるんですか? 聞いている限りだと、人が『美しいと思うもの』をコントロールできなければ意味がないように思えます」


 珠緒がそう言ったとたんピタリ、とタイピング音が止む。

 哲が準備を終えたらしい。


「だから、その判断基準をいじるって話。分かれよ」


 苛立ちの混じった声だ。

 永霧はそれを宥めつつ、珠緒にかみ砕いて説明する。


「私たちはね、美しいものを見たとき脳が同じ反応をする仕組みを利用するんだ。

 ラットのこのデータを見てくれ。報酬系の波がほぼ平坦。少なくとも一週間以上信号を見続けたが、ブレたことは未だにない。『どんな美しい同種を見ても』だ」

「美しさに、反応しなくなっているということでしょうか?」

「ああ。やることは単純だ。視覚情報と報酬系のつながりを絶ってしまえばいいんだから」


 報酬系に変化がないということは、心の抑揚も起こらないということだ。

 永霧はそう言って、電極付きの金属装置を珠緒の頭に被せた。


「そ、そんなことをして、あなたになんのメリットが?」


 目の前が暗くなり、次の瞬間、目の前には上下がひっくりかえった映像が映し出される。


「う、うわ!」

「それは脳に直接送った信号が見せている映像だ。目を閉じても見えてしまうよ」


 ――駄目だ。


 一歩も、まともに踏み出すことができず、だらしなく地面に転がってしまう。珠緒が訳も分からず足をばたつかせている間に、永霧と哲はベッドに彼を拘束する。


「君は自分の人生の意味を知りたい……そう言っていたね、アサズミくん。答えはこうだ。

 君は、私の被験者第一号になるために、生まれたんだよ」

「モルモット、ですか」

「これからミリ秒ごとにビッグデータに蓄積された君好みの画像を流す。一時的に報酬系が著しく反応することによる過負荷で特定の神経伝達を阻害する。

 切断すべき回路を焼き切るようなものだ。

 美しさと報酬系の関係を、これで絶つ」


 頭に装着されたヘッドギアはいくらもがいても取れそうにない。

 珠緒が暴れたのは実験体になることや死ぬことが恐ろしいからではない。彼自身にもどこからくるか分からない、本能的な嫌悪感からである。


「メリット、この社会に対して、実験のメリットはあるんですか⁉」

「もちろんあるとも。

 ハロー効果――美形なものほど良い印象を持たれやすい人間の仕組みのひとつだが、それを失くせば誰もが能力と社会貢献、行動によってのみ、評価を受ける」

「……」

「もちろん、いきなり新技術の大量投入は危険だ。

 社会にどのような影響を及ぼすか分からない以上、徐々に浸透させ、長い期間の観察を経て結論をだす。治験のようなものさ、怖がることはない」


 その言葉を最後に、珠緒の目の前には認識できないほど大量の情報が流れ出す。


 自分が叫び声をあげているのか、泣いているのか、笑っているのか、それすらも分からないほどの激しい頭痛に襲われる。それなのに、痛みを感じていることさえ『報酬』だと無理やり思いこまされ、自分の思うままにならない思考回路に、背筋がゾクゾクと震える感覚を覚える。


 ――苦しい、なのに、楽しい。


 意識と関係なく、人はこんなにも脳にすべてを支配されている生き物なのだと改めて思い知る。

 だが恐ろしいほどの興奮は時間が経つごとに薄まっていき、やがて痛みが強まっていく。膨大な情報量を処理するために、脳がフル回転している影響だろう。


「痛い! 痛い! 止めてください!」


 珠緒がそう叫んだ途端、ブツリと電源が切れるような音がしてヘッドギアがゆっくりと取り外される。

 気がつけば身体はべっとりと濡れており、鼻水やら涙で顔はひどい状態だった。


「お疲れ様。君は晴れて、視覚情報に左右されない特別な個体になった」

「……わかりません」

「大きな変化は日常に徐々に染みつくものだ。今は気にすることはない」


 そう言う永霧の顔を見てみると、相変わらず美丈夫だと感じる。しかし彼の言うように、それに伴う感情が何か欠けているような、そんな感覚が微かにある。

 哲は使い終わったヘッドギアの中をしげしげと見つめ、やはり珠緒には大して興味がないようだった。暗闇ではっきりとは見えないが、少年もまた、随分と整った顔立ちをしていることに気づく。それなのに表情はどこか虚ろで生気がない。

 無表情の中にも種類がある。


 珠緒はそこで、自分の第一の変化に気づく。


 ――人の顔を見るのが、怖くない。

「なんだ、やっぱり成功してる」


 哲は珠緒の内面の変化に気が付き、少し笑った。


「俺の機械が上手く作動しなかったのかと思った」

「君の機械……。もしかして、この施設のおかしな技術力は全部テツ、君が?」

「……」


 喋りたいこと、人以外は口を利かない。哲はそのあたりをかなり徹底しているようだ。

 永霧は珠緒たち二人のあいだに割って入る。


「哲は人見知りなんだ。

 一応いうと、あるアカウントを乗っ取り君とコンタクトをとったのも彼でね。優秀な右腕さ」


 珠緒はその説明を聞き、改めてこの施設にいた二人の犯罪性に気づかされる。アカウントの性質と彼らのどちらにも類似点が見られないことにも納得だ。


「アサズミくんが言ったとおり、施設の機械仕掛けは哲の自作だ。

 例えば外壁は、光量を調整できる発光体でできている。元々、あらゆる波長を反射しやすい材質でできているが、普通なら色々な影はできるだろう? 

 でもこの材質は、減った分の光量を検知し、その分だけ白色光を出す。そうして、影のできないあの真っ白な壁が出来上がるわけさ」


 彼が話している内容は、珠緒の知りうる限り、最先端をいくものだ。

 発想を形にする技術。ハッキングなど、情報追跡の技術に長けている。


 ――逃げようと思うな、ということか。


「察しが良いね、朝澄あずみくん」

「経過報告をすれば、良いんですね?」


 永霧はただ微笑み、珠緒はその容姿ではなく言外に含まれた脅しに恐怖して、目線を逸らした。


一節あたり3000字程度で、できる限り週一更新を目指します。

重いテーマを扱いますが、よろしければ最後までお付き合いいただければ幸いです。

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