第一話 被験者第一号 (二)
目的地――匿名の相手が指定した場所には、巨大な白い箱がひとつ、建っていた。あるいは珠緒の心理状態がそう見せたに過ぎないのかも知れないが、とにかく、山奥にあるには不釣り合いに大きく、清潔感のある建物だ。
窓はついていないので中の様子は一切分からない。
それどころかぐるりと一周してみても(大体五分くらいかかった)、玄関らしき扉さえ見つからない。
「ここ、で、合ってるよな?」
途中から登山道から外れるルートをとるため、珠緒は自信がない。向こうが現金書留といっしょに送って来た山道のマップを手に、手探りながらたどり着いた場所だ。
あまりにも反応がなさすぎて、白い箱状の建物そのものが大きな生き物で人を拒む意思を持っているような印象を受ける。
「あ、そう言えば」
圧倒され過ぎて、彼は大事なことを一つ忘れていた。
――建物の前まで来たら、学生証を出す。
匿名相手が指定していたことのひとつだ。
「こ、こんな感じで良いのか?」
出すと言っても、どうすればそれが相手に分かるのか見当もつかない。
珠緒は何となく腕をめい一杯建物の方へ突き出して様子をうかがった。すると今度はあっさりと、白い建物の壁面に四角い枠が浮き上がり、ウィーン、という音を立てながらスライド式の扉が開く。
明らかに、珠緒の知っている技術の何歩も先をいっている動きだ。
開いた扉の黒々とした口から、誰かがゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「あ」
「待っていたよ、アサズミくん。アサズミ、珠緒くん」
出てきた人物は想像とはずいぶん違う。
女子高生でないのはもちろんのこと、年をとったおじさんでもなく、とても若い男性だった。あまり見た目には気を使わないタイプだ。身に着けている白衣は着古してほつれが目立ち、顔も髪の毛も、何日洗っていないのかと問いたくなるほど不健康な乾燥状態である。だが何より特徴的なのは、美丈夫なところだろう。
珠緒が持つ偏見では、日ごろからインターネットを使っているような層とマッチしない造形だ。
無意識に、目線を逸らしてしまう。
「ここまでよく来てくれた。君のところからでは五時間はかかったろう。歓迎するよ」
「は、はい」
「私は永霧だ。以後よろしく。
立ち話は面倒だ。さあ、遠慮せず入ってくれたまえ」
永霧はそう言うとくるりと背中を向けて建物の中へと戻って行く。彼の言葉には抑揚があまりない。言葉が表面的であることを隠そうとしていないようだ。
対して珠緒は委縮し、知らないうちにリュックサックのひもを固く握りしめていた。今更ながらこれから何をされるのか分からない恐怖も湧いたが、おずおずと永霧のあとを追う。
建物の中に入ったら、玄関口はすぐに閉じた。
怯まず、一人入るのがやっとの通路をついていく。
「あの」
「何かな」
「ここは一体、何の施設なんでしょうか。
獣臭い? というか、土臭いと言いますか」
「それを知ってどうする? 君は命を投げ捨てるつもりでここに来たんだろう。もっとも、私は命を奪うつもりはないが」
永霧の口ぶりからは、何も考えずに従ってくれる人間を求めていることが伝わってくる。
「永霧、さん」
「永霧でいいよ」
「ええ、と。僕が言いたいのはですね」
「うん」
「死ぬにしても生きるにしても、自分がこれからどんな目に遭うのかは知っておきたいということです。
僕の人生にはどんな意味づけがされるのか、それさえ分かれば、どんな意味であろうと僕は従います」
永霧の足が止まり、おもむろに視線を向けられる。
珠緒も立ちどまり、思わず背筋を伸ばす。
向けられた視線は今までに感じた覚えのない意味を含んでいるように思われる。おかしな話だが、どこか温かみがある。
「苦労したようだね」
永霧はそう言って、また前を向いた。
少し歩くと、開けた大きな場所に出る。
その部屋を見回し、珠緒は息をのんだ。
その大きな部屋(多分天井まで五メートルはある)は、壁一面、無数のケージで埋め尽くされている。魚市場でたまに見かける、巨大な魚を入れるための水槽ほどのケージが大量にあるのだ。その中では様々な特異種と思われる実験ネズミたちが飼育されている。
永霧は一番地面に近い縦長のケージを覗き込み、
「これを見てくれ」
と珠緒を呼ぶ。
促されるまま膝をついて覗くと、そこには十匹ほどのネズミが生活している。一匹はとても毛並みがきれいで手入れが行き届いているが、他九匹は、珠緒が知っているネズミよりも足の筋肉が発達しているのか、上半身と下半身のバランスが違っている。
「このケージで育ってきたネズミたちは、この高さまで飛び上がらないと餌を与えないことにしているんだ」
永霧は、立膝をついている珠緒の目線よりもはるかに上、恐らく一五〇センチほどのところに置いてある皿を指さした。
「今、ケージの中にいるのは第五世代……つまり最初のネズミたちの、孫の孫世代。
一方で、こっちの綺麗な子は数週間ほど前、私が別のケージから連れてきた子だ。この子も、別のケージの第五世代」
ネズミたちは永霧がケージの前に立ったことに気づくと、筋肉の発達した各々が自分の身体の十倍近い高さの跳躍を見せ、餌をねだった。永霧は白衣のポケットから餌を取り出し、皿に乗せてやる。
対して、毛艶の良いネズミは飛び上がっても全く届かない。
他のネズミたちがむさぼるように餌を食べる間、その子はただお腹を空かせ、待ちぼうけを喰らわされていた。
「君はこの白いネズミをどう思う? アサズミくん」
「可哀想、かと」
「この子は前のケージではオスにモテモテで仕方がなかったんだけどね。ここじゃ、メスにもオスにも見放されている。いや、避けられていると言っても良い」
「こんなに綺麗なのに?」
「このケージでは、生存に必要な『美しさ』の条件が違うのさ」
「このままじゃ、やせ細って死んでしまいますよ」
「残念ながら、それが運命だ」
珠緒は永霧の言わんとしていることを察した。
立ち上がり、目の前にいる科学者を睨みつける。
「悪趣味ですね」
しかし『どんな目に遭うとしても協力する』と言った手前、今更引き返すこともできない。
「結論を出すのが早いよ、アサズミくん。
私は“こういう状況”をどうにかしようと言うんだ」
「どうにか?」
「見た方が早い」
そう言うと、今度はケージで埋め尽くされたのとは反対側の壁に向って歩き出す。行き止まりに見えるそこにも、入り口で見たのと同じような仕掛けがあり、奥に道が続いているようだった。
今度は狭い道がいくつにも分岐し、とても建物の構造を把握しきれない。
「侵入者用だ。それぞれの分岐点には、見えないだろうがシャッターが備え付けてある。袋小路に追いこむには良いだろう?」
永霧は聞いてもいないのに、誇らしげに語った。
そうしてうねうねと曲がった道の先にあったのは、またしても不思議な部屋だ。壁一面にモニターがぎっしりと詰まっており、デスクトップPCのCPUが働く音に満たされた、暗い場所だった。
モニターにはこの建物の周囲や建物の内部が写し出されている。
管理者と思われる小さな身体の少年が一人、その部屋に鎮座していた。
珠緒たちが部屋に来たことには反応せず、プログラムのコードづくりに熱中している。
「哲、お客さんだよ」
「……知ってる。さっき玄関開けさせたじゃん」
「アサズミくんは私たちの協力者だ。挨拶しておこう」
何度か催促され、哲は渋々という風に椅子をクルリと回転させた。珠緒を見てひとこと「よろしく」と呟くと、またプログラミングに戻っていった。
「哲、悪いが仕事だ。アサズミくんに私たちの“計画”を伝える」
「本気?」
「ラットでは上手くいった。
あとはより複雑な社会への応用だ」
二人の会話に今一つ入っていけず、珠緒は成りゆきを見守るしかなかった。
――この山奥でよくここまで電気が通ってるよな。
無数のモニターを見ながらそんなことを考えていたら、哲がため息を吐いて立ち上がる。彼が一番遠くに置いてあったキーボードに触れると、またもや隠し扉の機構が作動する。
「さあ、案内するよ。新世界へ」
永霧がそう言って隠れた部屋へと歩いていく。
珠緒はまた、不安なはずなのに引き寄せられていった。




